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言葉に頼らず、それでも寄り添い合えるか

今日も小説を読む、映画を見る、漫画を読む。
そうやって多くの言葉に出会い、その言葉たちがスクランブル交差点を渡る人間達のように、どこにも誰にも当たらずスムーズにすれ違っていけばどれだけ言葉を浴びてもただニコニコと頷いていられるのだが、僕の場合心にデコボコやざらつきが多いからか、それともたまたま僕の浴びる言葉が歪な形をしているのか、どちらであれ、僕の頭の中で言葉達がスムーズに通り過ぎて行くことはほとんどなく、そのいちいちにあれこれ思考を巡らせてしまう。

いや、「お前は考えすぎるからダメなんだ」と言われすぎて一言一句に対して考えることをネガティブな何かだと思うように改造されただけで、人より多く考えることの善悪など誰にもジャッジする権利はないのだから、僕は思考を巡らせてしまうのではなく、思考を巡らせているのだ。

言葉のいちいちに思考を巡らせるせいで損をしたのは、他の人がスッと飲み込める大人の言うことを僕だけが飲み込めないことで厄介者扱いをされたり叱られること。「屁理屈人間」のラベルを貼られ時には僕の存在まで否定までされること。
得をしたのは誰かが命を削って書いた歌詞や台詞、文章のいちいちを他の人よりも深く楽しめることだろうか。


多分僕は、平均的に見た他の人より言葉が好きだ。そして言葉や文章、本の持つ力を信じている。だからこうして、うつ病になって人生の全てにやる気を失った今でさえ、一円にもならないnoteを書く時と、心に触れる言葉やセリフに出会った時だけは何か自分を興奮させる、アドレナリンの類が体内を駆け巡る。

それだけに、「言葉に頼りすぎたくない」と考える自分もいることに困惑を覚えている。「言わなきゃ伝わらないよ」その言葉には、至極真っ当な正当性を感じるのだけど、それでも最近、言葉にすることを強いすぎると逆に伝わらなくなる、むしろ誤って伝わってしまうことが増えるのだと気づき始めた。

だから、「わからない」と言う言葉が好きになった。

「それはAなの?」と言う問いに対して「わからない」と答えを出すことが魅力的に思える。質問した側はその曖昧さを嫌うかもしれないが、果たしてわからないものをわかりやすくしたところに何が残るのだろうか。

そこに残るのは偏見や誤解ではないだろうか。

それでも人は「わかる」ことを望む。
それは、わかると気持ちいいからかもしれないし、わからないことが怖いからかもしれない。

言葉はわかりにくいものをわかるものへ変える力を持っていると思う。
そのおかげで複雑な計算や論述がわかるようになる時もあるのだが、言葉はわかりにくいものだけでは済まさずわからないものまでわかるものに変えないと気が済まない性質を孕んでいる。
だから、なんとか言葉にして、わかるものに変えるのだけど、その時人間の「わかった!」と言うスッキリ感と、わからない恐怖感との訣別をだけを残し、大切な元の意味や形は消えている。

だから僕は、言葉が大好きなのだけど、時には言葉に頼らずにお互いに寄り添えたら、わからないものはわからないまま残し、それでいて誰かと一緒に生きていけるのに。と思う。

「わかる」ということ、誰かを理解することはとても大切だ。
けど、そのためにわからないものまで無理やり言葉にする必要はない。わからない部分があることは相手との決別を意味しない。わからないまま寄り添ったって良いではないか。

それは手を繋ぐことかもしれないし、相手の顔を見ることかもしれない。横にいて相手の雰囲気を感じ取ることかもしれないし、相手の匂いを嗅ぎ取ることかもしれない。これもまたわからないのだけど、その右往左往も素敵じゃないか。

わからないものを言葉にせず、わかるものに変えず、それでいてお互いに寄り添える関係に、僕は憧れている。

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