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いじめとお笑いと社会

ある種のお笑いがいじめを助長するので、大衆の前でそのような映像を発信するのはいかがなものか?という議論はかなり昔からされていると思います。私としては文化なので、答えはでないと思います。何かがうまくいかなかったら自分ではないものに責任をとらせるのも文化ですし、自分がクリエイターとしてつくっているものは決して社会に害を及ぼそうとしているわけではないんだという主張も文化だからいいも悪いも本来はないのです。

いじめは人間が行う非常に原始的なストレスの解消法。恐らくは本能的に自分は「安全」の中にいる、という感情を求める本能がつくりだしたものであると思います。
「だから、仕方がない。あってもしょうがない」といいたいわけではありません。根元を考えないとなくすにはどうすればいいか?の議論はできないと考えているから、いじめ事態は絶対になくならないといけないことだと考えています。

本能は自分の命を守るために必要です。しかし、「社会」で生きるということは本能のみで生きることとは反した考え方にあると思います。
全人類が本能にしたがい、ここまで発展したかというとそうではないからです。
マンモスの時代に数人の人間が飢餓状態にある状況を、一人の人間が本能にしたがい、行動していたら恐らくは全滅したでしょう。全員が団結し、生き残る方法を考えて、作戦を練り実行し飢えを乗り越えたから、今があり、私はそれが「社会」の起源であると考えています。

圧倒的に不利な状況を、人間らしい「社会」を形成することによって進歩を続けるのが人間です。

お笑いとは狂気で圧倒的なものであると考えます。他のあらゆる分野に比べて「変であること」「突出したこと」に重きをおかれている。お笑いは常識になってはいけないものだと思っています。私は常識の中にあるという「安全」が笑うという感情をつくる1つのトリガーなのではないでしょうか?

世の中には「社会不適合者」という言葉があります。世の中の多くの社会適合者が、そうではない人に対して使う言葉です。たまに芸人さんが自分のことを指してこの言葉を使うのを目にします。そのことを利用して笑いをとるのです。芸人さんによってフィクションであったりノンフィクションであったりします。その曖昧さがよりお笑いとしての魅力を生み出していると思います。

私は昔から芸人さんに憧れています。圧倒的な芸人が大好きです。もしかしたら、一時代を築き上げた日本の文化になりつつあるのかもしれません。貧乏で普通の教育を受けることができなかった人達が社会適合者を唸らせる圧倒的なパフォーマンスで認めさせ続けてきたことにより生まれてきた文化です。社会に適合しようとしている不適合な部分を抱えた人達に圧倒的にささったコンテンツだったのです。

例えば、昔の志村けんさんはコントで女湯に忍び込んだりしています。リアルだったら一発逮捕です。今そのようなコント番組はありません。
昔ビートたけしさんは片岡鶴太郎さんをコントの中で袋叩きにしていました。今、リアルに暴行しているコントはありません。
そして、多くのコント番組はそれを模倣し、時代は全盛期を向かえました。
そして今、前時代的な文化になりつつあります。しかし、その時代の人々は社会に生きる中で不適合側にある側面を圧倒的なクォリティーで届けてきたので刺さったのでしょう。芸人の「芸」はその時代の社会の空洞にピンポイントで射しにいくからささったというのが私の考察です。

昔は何気なく笑っていたことですが、今観ると、徐ある種の文化的な側面に気づいたりします。真面目に語らないといけない世の中です。

チュートリアルの徳井さんが大々的に報じられている背景はお笑い芸人が社会に「見つかった」ことを象徴しているのかもしれません。そもそも、社会人として多少だらしなかったり、ルーズな部分があるから、芸人になると思いますし、徳井さんが社会人になる道を志していたのであれば、あんなに素晴らしい芸は生まれないのです。申告漏れが許されるわけではありませんが。

そのような中で社会全体が1つの価値観に支配されてまた別の価値観を完全になきものにしてしまうことに2つの怖さを感じます。1つは私も沢山の社会を知っているわけではないし、一歩外に出れば違う社会でそこでは、不適合になり、「いじめ」を受けるかもしれない怖さ。
もうひとつは「逆ギレ」です。なんでもありで、ルール無用の世界では圧倒的に無力です。地球の環境や世界の状態のことを全て無視して社会を終わらそうとされたら本当に終わってしまうかもしれないという怖さです。

不適合なところがある恐怖とルールがひっくり返る可能性がある恐怖からは逃れられない逃れられないのかもしれません。

結論

少なくとも誰の目にも届くところで適合しない行動をとることはこの先できなくなるのかもしれません。だから、あの頃のお笑いはこの先アンダーグラウンド化せざるをえないのかもしれません。なぜなら、圧倒的と適合者とはもともと近づきすぎるものではないですし、少なくとも適合者たちのストレスを与えるものとして存在してしまってはならないような気がします。

ただし、私は、人と人とが直接会うと争いしか起こらなくなるからみんなVRを装着して家から一歩もでてはならないっていう社会になったとしても、そこから外にでていく人達が新しい文化をつくっていくと思います。

いじめがあると認めない文化があるとしたら、いじめがあることを肯定してなくそうとする文化を指示します。飲酒運転や、凶悪犯罪がなくなってきた歴史同様なくそうと思えばなくなると思います。飲酒運転は私の前で肌で感じるくらい減っています。いじめに関しても同じことができるのではないでしょうか?

お笑いもfannyからinterestingに変化していく時代なのではないでしょうか?

参考文献 いじめの科学

最後まで読んでいだきありがとうございました。

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