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「社会人」という言葉の気持ち悪さ

 僕はこの国の「社会人」という言葉が嫌いだ。この言葉から感じる気持ち悪さは何とも言い難いものがある。

 そもそも「社会人」という言葉は日本にしか存在しない不思議な概念なのであるが、多くの日本人がその事実を意外と知らないまま使っている。この「社会人」という言葉を敢えて英語に訳すとなると「full member of society」となる。

 この国における「社会人」という不思議な概念は一体いつ生まれたのか。以下の論文を参照にすると、『言苑』(1938年)が辞典として最も早く「社会人」という項目を収録したようである。定義は「一箇人としてではなく、社会の一員としての人」とされており、現代のニュアンスとは異なる。

 また本論文では、政治学者・社会学者である杉森孝次郎(1881-1968)が1922年に上梓した『社会人の誕生』という本が紹介されているが、そこでの「社会人」もやはり現代の「社会人=職業人(会社員)」という概念では使われていない。
 しかし第二次世界大戦の敗戦から10年が経った1955年に刊行された『広辞苑』の初版では、「1,社会の一員としての個人。2,実社会で活動する人。」と定義付けられている。実社会で活動(労働)する「社会人=職業人(会社員)」という概念が生まれたのは少なくとも戦後のことだと考えて良さそうだ。 

 この国の国民は一般的に、高校、専門学校、大学(又は大学院)のいずれかの高等教育機関を卒業後(新卒)、どこかの企業に正式に入社する4月1日からいきなり「社会人」になるとされている。つまりこの国では子供や学生、フリーター、日雇い労働者、ニートは、国民国家(nation state)における社会(society)を生きる一個人であるにも関わらず「社会人」ではないということになる。また、正社員として企業に所属することが出来なければ、「社会人」とは違って社会保障などの面での待遇も全く異なり、差別化され線引きもされる。

 しかし学校を卒業後の4月1日よりどこかの企業に正式に所属した人たちを「社会人」と呼ぶのであれば、そんな意味不明な言葉を使うよりも単に「会社員」とか「会社人」と呼んだ方がいいのではないだろうか。
 多くの人がそうであろうが、僕は義務教育を受けていた頃から「社会人として〇〇」とよく耳にしていた。例えば「社会人として成長」とか「社会人としての責任」とか「社会人としての常識」とかである。そして大学在学中の就職活動を始める頃にもなると、「社会人」という言葉を目にする機会は格段に増える。大学卒業後、所謂新卒として某企業に正社員として入社したが、そこでもやはり「新社会人」とか「社会人として〇〇」とか「もう学生じゃなくて社会人なんだから」とかいう言葉を嫌という程に耳にしてきた。しかしこの文脈であるならば、やはり「社会人」という言葉を「会社員」とか「会社人」という言葉に置き換えた方がしっくりと来る。

 しかしこの「社会人」という意味不明な言葉について考えれば考える程心底気持ち悪い言葉だなと思う。「社会人」という言葉を好んで使う人たちからは、自分たちは立派で偉いものであるとし、「社会人」に当てはまらない人はクズであるとするような、ある種の選民思想を感じる。これが僕が「社会人」という言葉から感じる何とも言い難い気持ち悪さの正体だと思っている。実際、企業に正社員として所属し、経済を回しながら税金を納めていることは立派で偉いことであるとは思う(別に会社員でなくても出来ることだが)。しかしそれでも「社会人」という意味不明な言葉ではなく、「会社員」や「会社人」という言葉を使った方が良い。

 世の中には本当に色んな人がいる。敢えて会社員にならない人、国の経済政策の失策によって会社員になりたくてもなれなかった人。その人たちも日本社会を構成する一員であり、社会を支える立派な人たちである。そんな人たちをある意味排除しようとするような(しかも無意識のうちに)「社会人」という意味不明な言葉を世間が使うことに対して、僕はこれからも異を唱えていきたい。

 

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