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「書く」という行為を通して考え続けるために。noteを始めた理由と続ける理由。

 僕がnoteを始めた理由は、『ジョジョ・ラビット』という映画に関するレビューを書くためだった。何となくこれは一度noteで書いてみようと思った。

 それから色んな人のnoteに書かれた文章を読んでいるうちに、「ブログやTwitterではなく、このnoteというプラットフォームで文章を書き始めよう」と思い始めた。
 文章を書くためには、別にnoteである必要はない。単に文章を書くだけならはてなブログでも構わないし、WordPressでそれっぽい個人サイトを立ち上げて書いたっていい。それに僕は、はてなブログで僅かではあるがアドセンス収益も得ていたし、そのままそこで書き続けても良かった。

 しかしそれらを全てリセットしてでも、noteで文章を書こうと思った。理由は大きく分けて二つ。
 一つはまだnoteというプラットフォームには様々な文章が存在し、ムラ化しておらず、雰囲気が非常に良いこと。
 もう一つは、ムラ化していないとはいえ「エモいエッセイ」がnoteっぽい文体として蔓延していることだ。  

 僕は何も「エモいエッセイ」を批判したいわけではない。プラットフォームでは本来何を書いてもいいはずだからだ。だからこそnoteで「エモいエッセイ」とは対極にあるような文章を書こうと思った。noteっぽくないないかも知れないけれど、プラットフォームに支配されず、この場所で自分の考えや意見を、文章として表明していくことに何か意味があるのではないかと思ったのだ(たまにはそれっぽいものも書いてみたいが・・・)。

 始めたきっかけは映画のレビューを書くためになんとなくnoteを選んでみただけだったが、今では映画レビューだけではなく「偏ったエッセイや社会系の記事」も書き始めた。

 僕がそんな記事を書く理由は、「書く」という行為を通して、自分以外の様々な「モノ」や「コト」について考え続けることが大切だと思うからだ。僕の過去の記事でも度々言及しているが、宇野常寛さんの著書『遅いインターネット』では、今のネット空間、特にTwitterを始めとしたSNSは、人を考えさせないための道具になっているとし、簡単に言えば、人をどんどんバカにしているという。僕はその意見に100%同意する。  

 先日Twitterを覆った政治話での熱狂は、まさにそれを象徴するかのような、エポックメイキングな出来事だったと思う(良くない意味で)。僕はあの熱狂に煽られた人たちに心底呆れ、以前にも増して彼らと距離を置きたくなった。  

 彼らはまさに、「近代の危機の様相は大衆支配にある」とした、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)が定義した大衆人そのものだと思った。むしろSNSで誰もが簡単に意見を表明できるようになったからこそ、オルテガが大衆人を定義づけた1930年代以上に彼らは愚劣さを極めている。  

 簡単に、そして手軽に意見を表明できることが悪いことだとは思わない。むしろ言論の自由が保障されている証拠だし、それは人類が作りあげてきた叡智の一つであると思う。僕もそうだが、専門家でなくとも一市民なりに色々と思うこともあるだろう。専門家の意見が必ずしも正しいとは限らない。ある事象や分野に詳しくなくても意見を表明することは自由だ。
 しかし現代のネットの速すぎる速度、特にTwitterのあのタイムラインの速度が、逆に人を考えさせないようにしていることは確かだ。何かに乗っかって考えたつもりになり、満たされない承認欲求を満たすための相互評価の装置でしかないなと思った。 

 一体、あの熱狂に煽られた人のうち、どれだけの人が自分の意見を発信する前に一次ソースにあたって検証したのだろうか。発信する前に一次ソースにあたって検証した人は、僕の想像でしかないが、ほとんどいなかったのではないかと思う。あの熱狂が去った翌日に一人の歌手が謝罪のツイートをしていたが、あのツイートがそれを如実に表しているようにみえた。何も考えず(考えたつもりも含め)に煽られ、熱狂することが、いずれは自らの首を締めて身を滅ぼしていくことを、過去の歴史が嫌という程に証明している。このインターネットポピュリズムを放置しておけば、既存の民主主義はきっと耐えられない。

 僕は自らを、オルテガが定義する大衆人とは対極にあるエリート(賢人)であるとは微塵も思っていない。しかし、少しでも大衆人から脱却することは可能だと信じる。そのためにはやはり思考停止せず考え続けることだろう。だからこそnoteで「書く」という行為を通して考え続けようと思った。ここで書く文章は稚拙かも知れないが、それでもTwitterで140字以内で考えて書いたつもりの文章が、僅か数時間で埋もれていくより遥かにマシだろうと思う。

 書く内容はnoteを始めるきっかけになった映画のことや、アニメなどの虚構のこと。日々の生活を通して感じたこと。それは例えば、今僕の手元に黒い液体の入ったコカ・コーラのペットボトルあるが、その形状について何となく考えたことでもいいと思う。たまには敢えてnoteっぽい「エモいエッセイ」を書いたっていいだろう。  

 特定のプラットフォームに「書かされず」に「書く」ということが、結果として自分の頭で考えることに繋がるのではないか。そして己の身を守ることになるのではないか。

 短いが以上が僕がnoteを始めた理由と続ける理由だ。
 そして今後は信頼出来る仲間たちと、この場所でコミュニティを作っていけたらとも思っている。


「書く」という行為を通して考え続けることこそが、僕らの世界をより豊かなものにしていくと信じて、僕はnoteを続けていく。


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