写真集と「新しい」メディア:新しい技能と形態 (写真集1) / 制作日誌2

写真集を編んだ。写真集を写真集として編むのは、初めてのことだ。

一度だけ写真を用いて展示をしたことがある。A4の厚手の用紙の真ん中に、正方形の画像を印刷して10枚ほど展示をした。その頃は制作が本当に嫌だった。だから構成なんてまともに考えられなかった。

スマートフォンで編む写真集は、独特だ。サイズとページ数、掲載写真を決め、テンプレートで配置位置を決める。編集画面を見ながら配置していき、プレビュー画面を見ながら調整していく。

人物を掲載することは決まっていた。ある写真を見せる写真集だということも、編集する中で決まっていった。複数の撮影場所から写真が決まり、一本の読み物として読ませるための強弱、抑揚、場面転換。今ある写真、を考えていくと、自ずと構成は決まっていった。

この作業の中で、写真集というのは、写真の展示:写真の展示空間への配置、とは全く別のものだということがわかった。これは職人技だ。組版や製版と同じように、この(書という)形態がもたらす、学ぶべき、蓄積されてきた技能が山ほどある領域だ。新しい表現などと、どうして言えただろうか。

私はこれまで、新しいメディア=手段を発明することを求められてきた。だからだろうか、周囲に写真集を編む人間はほとんど見たことがなかった。新しい手段、と言うには、この形態は、様々な技能を背負いすぎている。それを乗り越えられるのだろうか。何のために?書は書であるために、書として成り立つ条件をはっきりと持っているのに。書が書でなかった頃の過去を引用すべきか。書という意味を解体するか。それは概念のじゃれあい、詭弁ではなかっただろうか?

新しい手段、技術とは何だろう。仮にそれが、様々な技能の蓄積から自由であることだとしたら、それが許されるのは、未だ黎明期の技術だけなのではなかっただろうか。



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