にしぞのさゆり

整体ヨガインストラクターとして日々従事。現在は夫と二人暮らし。親の面倒をみるという理由…

にしぞのさゆり

整体ヨガインストラクターとして日々従事。現在は夫と二人暮らし。親の面倒をみるという理由で関東から関西へ移住し、いよいよ母親が余命宣告。親への苛立ちや葛藤そして恐るべき愛着に気づきnoteに日々の想いを綴りたくなりました。 レッスンを行いつつ、親の介護そして最期を迎えるまで・・。

最近の記事

現実逃避なのか、直視できない。母の看取りから8か月たちました。

亡くなった人の写真を部屋に置いて、 話しかけているシーンを ドラマで見かける。 実はあまり共感できていなかった。 でも、今はまさにドラマ通り。 まるで母がいた時と同じように、 「お母さん来たよ~」 「お母さん、明日は休みだから来ないよ、 ごめんね~!」 「今日は○○さんが来るよ」と 母が闘病していた時と、ほぼ同じくらい 私は母に語りかけている。 母は、最後のほうはずっとベッドで 寝たきりだったので、亡くなっても 違和感なく生きていた時と同じような 感覚でしゃべりかけられ

    • 生前好きだった自宅での葬儀~母を亡くした1週間後の心境

      母は家が好きだった。 父と建てたマイホームで土地に住んで58年。 病院に入ることを嫌がり その母の気持ちを尊重する意味もあり 自宅での療養・介護そして葬儀を行いました。 母は教会には数十年いかず おさぼりしてはいたものの キリスト教徒だったので 日本の通常のお葬式のように お坊さんに来ていただく・・ お焼香など儀式的なものは 一切行いませんでした。 コロナのこともあり、もともと 大々的に親戚を呼んで葬儀をする ことを考えていなかったので、 親しい人のみ、 最後のお別れ

      • 命が終わる「カッ・カッ」という母の最期の呼吸見届ける~自宅リビングでの看取り

        2023年4月6日早朝、自宅リビングにて 約1年の闘病の末、母は永眠しました。 今、私の心に救いと安堵をもたらしているのは 母の好きだった自宅リビングで 手を握りながら母を看取れたこと・・・。 母の最期の呼吸を見届けることが できたこと。 初めてのことだったので、 これが最期なのかどうかその時は わからなかったけれど、 今まで聞いたこと、見たことがない 呼吸の仕方・・・ 口を開けながら、 「カッ、カッ、カッ」と 繰り返すのです。 これはもうだめなのか! 死ぬのか!と動

        • 生きている時に、最後にもう一度母に抱きしめてもらいたいと思った。

          前記事で、母がコロナから生還したという ものを書きました。 恐らく、コロナの後遺症か、薬の副作用かは 不明ですが、明らかに筋力の衰え、 手足はもちろんですが、飲み込む力・・ 嚥下能力がかなり低下した母。 これが致命的だったのか 2月12日(日)夜に救急搬送。 症状としては 夕方にいきなりの40度発熱。 その後、呼吸困難→窒息死寸前 近くの病院が受け入れてくれたおかげで またもや一命をとりとめた次第。 発熱の原因は誤嚥性肺炎。 おそらく、朝か昼に食べた食事を 誤嚥したとの

        現実逃避なのか、直視できない。母の看取りから8か月たちました。

          指定難病~間質性肺炎84才母がコロナに感染した結果・・・

          2023年1月14日(土)の朝、 84才の母がいきなり発熱。 37.8度。 これはあきらかにおかしいと思い、 ホームドクターにすぐにTEL。 夕方にドクター到着~診察。 コロナ陽性が判明しました。 ちなみにその時 私はPCR検査陰性。 母は、ショートステイ先で もらってきたようです。 母の異変がわかってから 熱はぐんぐん上がり38・8度、 酸素の数値も90をきる・・・。 私しか母を看病する者がおらず・・ ぽつんと私と母が二人きり。 間質性肺炎の末期患者なので、 正直、

          指定難病~間質性肺炎84才母がコロナに感染した結果・・・

          命の残り時間

          今日は2023年1月3日。 久しぶりにnote書きます。 ちゃんとした文章でなく 乱文だけどごめんなさい という気持ちで記します。 母の病気のことは過去に書きましたが その後・・。 もうだめか・・・ お盆までもたないか・・と 思っていた7月ごろの母。 ただその後、持ち直して 元気にお正月を迎えました。 冒頭の写真は、 家族が集まっておせちで乾杯の時。 母の病気は間質性肺炎という指定難病。 今日は、この病気を患っておられる方や ご家族の方のためにも 記事を書きたいと思

          命の残り時間

          夫婦、もう一度心が通い合う瞬間

          子供としては、 これだけは実現させたかったのかもしれない・・・。 「もう、私を解放して・・」と 父をつき離した母と 自宅に帰りたがっていたけれど、叶わず 現在、施設で暮らす父。 57年夫婦として寄り添った父と母。 私を含め3人の子供を育て 親としての役目は十分すぎるくらいに 果たしてくれた。 父が施設に入所した後、どんどん母親の病気は クローズアップされていくかのように悪化した。 母の病気診断、自宅闘病から5か月目に入りました。 このところ、母の病状悪化スピードは増

          夫婦、もう一度心が通い合う瞬間

          50年以上連れ添った夫婦の絆と別れ

          今は老人ホームで暮らす父。 庭を眺めながら家にいるのが好きな母。 父は家に帰りたがっているが 歩くことがままならない父の面倒をみることは できないということで・・ 父と母は今は離れて暮らしている。 母も間質性肺炎という難病で、 いつ命を閉じてもおかしくない状態なので 家に帰りたがっている父には申し訳ないけど、 母が穏やかに自宅で最期を迎えるには 父の老人ホーム暮らしは 仕方がない選択かもしれないと・・・。 先日、父のいる施設に面会に行き、 母が間質性肺炎を患っていて 余

          50年以上連れ添った夫婦の絆と別れ

          シングルマザーの状態で育てられた母

          母の父親・・・私の母方の祖父は、母が生まれて2か月で病気で 亡くなり、祖母は再婚をせずに母を育てた・・・。 母は8番目の子供で末っ子。 戦時中や戦後は日本全体が貧しく大変な時期では あったが、女手一つで子供を育てていく 祖母は苦労したにちがいない・・。 今回、母の病気が発覚した時、病院の先生が 「よくここまで耐えてきましたね・・。 かなりお辛かったと思います。 もう、これからは我慢しなくてもいいですからね・・」 と言ったとのこと。 母は間質性肺炎という指定難病だというの

          シングルマザーの状態で育てられた母

          母親が難病いきなりの余命宣告。50を過ぎて情けないけど母を失う恐怖で涙が・・・。

          今日、初めてnote書いてみます。 はじめに・・・。 私は約20年程ヨガのインストラクターをしております。 ここ10数年は主にパーソナル整体ヨガを軸として 日々活動しています。 24歳で家を出て独立し、関東で暮らしていましたが このまま親の死に目にもあえず、何もできぬまま親を 見送りたくないという想いから、 46歳の時に主人と二人、関東から親のいる兵庫へ リターン移住したのです。 親と言っても私の親。 主人の郷里は鹿児島なので、 私の希望に「いいよ」と即答してくれた彼に

          母親が難病いきなりの余命宣告。50を過ぎて情けないけど母を失う恐怖で涙が・・・。