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生きている時に、最後にもう一度母に抱きしめてもらいたいと思った。

前記事で、母がコロナから生還したという
ものを書きました。
恐らく、コロナの後遺症か、薬の副作用かは
不明ですが、明らかに筋力の衰え、
手足はもちろんですが、飲み込む力・・
嚥下能力がかなり低下した母。

これが致命的だったのか
2月12日(日)夜に救急搬送。

症状としては
夕方にいきなりの40度発熱。
その後、呼吸困難→窒息死寸前
近くの病院が受け入れてくれたおかげで
またもや一命をとりとめた次第。

発熱の原因は誤嚥性肺炎。
おそらく、朝か昼に食べた食事を
誤嚥したとのこと。
意識が混沌とする中、
タンが喉に詰まり・・・
呼吸困難。

救急病院では、ひたすら
処置室の前で待つことになり・・
途中、ドクターからは
処置はうまくはいってはいるけど
予断を許さない状況ですと
言われ・・・

まんじりと時間がすぎる。
ひとまず入院ということが
無事に決まり私が帰宅したのは
夜中12時半過ぎていた。

入院中、どうなることやら
ではありましたが、
主治医からは、血液検査の

結果がよければ2択ですと
言われた。

①療養施設への入所
②自宅へ戻り自宅介護

きょうだいで話し合った結果
②の自宅介護を選択しました。

12日間の入院でしたが、
介護タクシー・ストレッチャーでの
帰宅となりました。
車椅子が無理で
ストレッチャーでと
聞いた時から、自宅介護は
かなりの困難を予想・・・。

予想通りの展開となり、
私の介護生活もいよいよここまで
きたかという感じ。

食事・排泄全介助。
目を覚ますと不安なのか
助けを呼ぶ母親。

夜もそれは続くので、
ちゃんと寝れない日が
続く・・・。
介護に専念ならよいのですが、
仕事との両立なので・・
気力・体力追い込まれつつある
今日この頃。

もちろんヘルパーさん、
訪問ドクターや看護師の方々、
ケアマネさんも本当に
よくしてくださるので
何とかまわっている日々・・・。

あきらかに入院前より
瘦せこけた母の姿。
気持ちも少し弱っている。

もう、いつ逝っても
おかしくない。

そんな母を前に、
私は、もう覚悟を
決めるしかない
という気持ちになり

心残りにならぬよう
何かやっておくことは・・と
思った時、

私は、母の温もりがあるうちに
母にもう一度抱きしめてもらいたい、
ハグしてもらいたい・・と
思ったのだ。

数日前の夜、
ベッドをお越し、
母に聞いた。

 「お母さん、お母さんの人生で
何がよかった?
思い残すことない?
どうだった?」

 「子供3人産んで、あんた達を
育てて・・・本当によかった。
子供は宝だ・・・。
子供3人は宝物。
子供以外にも人生でいいことは
あるっていう人もいるけど、

私は、3人の子供がいてくれて
こんなに優しくされて・・
本当によかった・・・。

山口県の実家を出て、
大阪に出てきてよかった・・。
子供を育てられた。
子供達は宝物・・・。」

しっかりとした口調で母は
そう語った。

おそらく・・・
これが母のまじめな
本当の気持ちであり
遺言のようなものだなと
私は感じた。

私は、母に抱きついた。
ガリガリにやせ細った
母の肩や首元に顔を寄せ、
私の目からは涙がこぼれた。

母は、このハグを
喜び私を抱きしめてくれた。

私は心の中で初めて、
「お母さん、さようなら・・・」
と言った。

急変することが多い
母の病気。
いつ、どうなるか、
わからない。

母に心の中でさよならを
言ったのは、
いきなり逝った時の
ショックを少しでも
私自身和らげたいというのと、

ちゃんと別れを告げたかったというか、
母の死を受け入れる準備を
したかったのかもしれない。

50を過ぎれば、
母親が生きてくれてるだけでも
十分で、いつまで
母さん、母さんって
言ってんだって話かもしれない。

それはそうだ・・。

でも、恐らく、
この執着という煩悩の苦しみは
見ないように、感じないように
ごまかしていては
乗り越えられないのでは
ないかと思っている・・・。

煩悩を超えるって言うと
大袈裟だけど、

執着に苦しむ人の心を
優しい気持ちで
わかりたいと
思っているから
なのかもしれません。

いつまで続くのか・・
この生活。
期間がわからず
続く努力って
キツイものですが、

何とか母が最期まで
穏やかに暮らせるように
今夜も実家にお泊り
がんばりますかね・・。

これは3日前の訪問入浴シーン。
皆様にはお世話になっております!

長文最後までお読みくださり
ありがとうございました。










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