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松田聖子『永遠の若さを保つアイドル』人生を変えるJ-POP[第7回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

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松田聖子といえば、誰もが知っている存在です。今年、歌手生活42周年を迎えた彼女は、還暦を迎えてもなお永遠のアイドルであり、J-POP界に燦然と輝き続けるアーティストです。

42年という歌手生活をこの場所で語るには、あまりにもスペースが足りないことは承知の上で、今回は、ファンの方なら百も承知の彼女の節目となった楽曲とそれにまつわるエピソード、さらには彼女にしか与えられていないと思う天性の歌声、そして、現在もツアー中のライブに筆者が参戦して感じたことを書きたいと思います。

デビュー曲『裸足の季節』まで

松田聖子は、1980年に『裸足の季節』でメジャーデビューしました。福岡出身の彼女は、78年にミス・セブンティーンコンテスト(集英社・CBSソニー共催)の九州地区大会で優勝。彼女の歌声に惚れ込んだサンミュージックに所属が決まったのでした。

ですが、他の新人歌手のデビューが決まっていたために、彼女のデビューは高校卒業後の80年春以降と言われていました。

ところが、79年の夏に彼女が福岡の高校を中退して上京し、東京の私立校に編入学。秋には新人だった太川陽介のドラマの相手役に起用されることになり、松田聖子という名前の女優としてデビューしました。実は役名も同じ松田聖子にしてもらったというエピソードがあります。

その後、予定されていた新人歌手のデビューが頓挫したため、結局、彼女は、80年の春に『裸足の季節』でデビューを果たしました。

『裸足の季節』誕生には、こんなエピソードがあります。前年のドラマ出演中に受けた、洗顔料『エクボ』のオーディション。聖子自身にエクボがないため出演は見送られましたが、歌声が認められてCMソングに起用されました。その歌声が話題になり、当初『エクボの季節』だった楽曲のタイトルを『裸足の季節』に変えてデビューしたのです。

2曲目の『青い珊瑚礁』が大ヒットして、彼女は一躍トップアイドルの座に駆け上がりました。

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初のオリコンチャート1位『風は秋色』からの、24枚連続1位

3枚目のシングル『風は秋色/Eighteen』で、初めてオリコンチャート1位を獲得し、それ以降、実に24枚連続1位という偉業を成し遂げたのです。

これほどのヒット曲を持つ彼女ですが、いくつかの転機ともなるべき曲があります。最初の転機は、5枚目シングル『夏の扉』です。

アイドルとして2枚目、3枚目とヒットを飛ばしてきて、同じ曲調が続くと飽きられると感じたプロデューサーが選んだのが財津和夫による『チェリーブラッサム』でした。

この楽曲は、後に彼女のお気に入りになりますが、当初は、あまり好きでない曲だったというエピソードがあります。それまでの彼女の路線とは明らかに異なるものでした。

その次に出たのが『夏の扉』です。明るい色調の楽曲は、彼女も一瞬で気に入ったとのこと。ところがこの曲も実は財津和夫なのです。

この楽曲のヒットによって、松田聖子は、単なるアイドルから時代を背負うトップシンガーへと階段を昇り始めたと言えるでしょう。

作詞家、松本隆の存在

松田聖子の楽曲を語る時、外せないのは、作詞家松本隆の存在です。彼との出会いは、6枚目のシングル『白いパラソル』です。この楽曲以降、多くの楽曲を松本隆は手がけていきますが、彼の存在が、松田聖子の音楽の世界を作り上げたと言えるかもしれません。

ユーミンこと松任谷由実に松本隆が曲を依頼して出来上がったのが、8枚目シングル『赤いスイートピー』でした。

当時、ニューミュージックの旗頭だった松任谷由実は、アイドルは自分と無縁の世界であり、倒すべき強敵との思いを持っていたと言います。その強敵中の強敵である松田聖子の楽曲を依頼された時は、正直驚いたとのこと。

しかし彼女は自分の知名度が利用されるのを渋り、誰が作曲したかわからない楽曲そのものでヒットを飛ばせれば作曲家冥利に尽きると考え、呉田軽穂という別名で楽曲を引き受けました。

聖子サイドから依頼された楽曲はスローバラードで、過密スケジュールの中、声がかすれ気味だった聖子のコンディションを考えた上での依頼でした。

そうやって完成した楽曲は、これまでの高音を張り上げる歌とは全く異なり、低音域からのしっとりとした歌いだしと後半、どんどん高い音域へと上がっていく構成、さらには、松本隆の細部に亘る心の動きなどを書き込んだ歌詞が多くの女性の心を掴み、この楽曲を契機に女性ファンが非常に増えたと言われています。

アイドルであった彼女が、本物のアーティストへの階段を昇り始めた楽曲だったと言えるでしょう。

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歌手としての転機となった『SWEET MEMORIES』との出会い

その後、順調に彼女はヒット曲を飛ばし続けます。

そして彼女自身が「自分の転機になった」と語る『SWEET MEMORIES』との出会いになるのです。

『SWEET MEMORIES』は当初14枚目のシングル『ガラスの林檎』のB面として発売されました。A面の『ガラスの林檎』は細野晴臣と松本隆によるもので、この楽曲も多くの賞を獲得したものです。

『SWEET MEMORIES』の方は、サントリーのCMソングに起用されましたが、それまで彼女の多くの楽曲のアレンジを担当していた大村雅朗が初めて作曲し、松本隆がやはり詞を書いています。

この曲を受け取った時、2番の前半は英語の歌詞だったのと完全に大人のJAZZの様相をした楽曲に、聖子は「歌えるだろうか、と思った」と話しています。

サントリーはこの楽曲をCMに使用する際、一切、歌手のクレジットを出しませんでした。そのため、レコードを購入したファン以外、彼女が歌っているのがわからず、新人歌手の歌声と思われ、サントリーに問い合わせが来たほど、松田聖子のイメージをガラリと変えた曲でもあります。

彼女は、「この楽曲が歌手としての転機になった」と話しており、この楽曲によって、松田聖子は大人の雰囲気の楽曲も歌えるのだということを広く証明することになったのです。又、彼女の少しハスキー気味な歌声が、JAZZの世界観によく合い、後に彼女がJAZZを歌うことの布石にもなったと言えるのではないでしょうか。

この後、彼女はアメリカにおける世界デビューを目指し、28歳で渡米。この時、彼女は「自分の言葉で意思疎通ができないとダメだと思った」と話しています。

また、アメリカでの経験を生かしてその後、セルフプロデュースにシフトして作った楽曲が1996年の『あなたに逢いたくて〜Missing You~』です。この楽曲は、別れた恋人への心情を切々と綴った女心の描写が秀逸で、彼女最大のヒット曲となり、ミリオンセラーを記録しました。

デビューから17年目に最大のヒット曲を生み出した彼女は、この楽曲でアーティストとしての位置を不動のものにしたのです。

この後、2011年にはアメリカのミュージシャン、クインシー・ジョーンズの60周年のコンサートに呼ばれてゲスト出演をし、JAZZの分野へ本格的に進出した2017年のアルバム『SEIKO JAZZ』は全曲英語詞。全米の配信JAZZ部門で2位を獲得しました。

このことにより、松田聖子はJAZZの部門でもアーティストとしての実力を十分発揮できる存在であることが証明されたのです。

デビュー40周年を迎えた2020年の『瑠璃色の地球』

2020年、デビュー40周年を迎えた彼女でしたが、コロナの影響で全てのコンサートやイベントが中止されました。

世界中の人達が影響を受けていく中で、地球の大切さを歌った楽曲『瑠璃色の地球』の楽曲が『瑠璃色の地球2020』というタイトルで再発売されました。

きっかけは、現在、京都と神戸に居を構える松本隆氏が呼びかけてオンライン上で催された200人の『瑠璃色の地球』の大合唱です。コロナウイルス禍の中、人々を励まそうと企画されたもので、これに賛同して松田聖子は、この楽曲を再録音しました。

これは合唱曲として広く歌われている曲で、地球の大切さ、美しさを歌ったものです。彼女が再録音したことによって、もう一度、この楽曲が蘇り、若い世代にも広がったのです。

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年齢を超えた、歌声の魅力

松田聖子がこれほどに長きにわたって活躍できた要因は、多くの日本を代表するミュージシャンが楽曲に参加し、その時代に即した楽曲を提供してきたことが挙げられますが、それだけ彼女には歌手としての魅力が備わっていたということが言えます。

彼女の最大の魅力は、その歌声にあります。

透明感溢れる歌声は、10代でデビューしてから60歳になる現在まで、その響きという点において、何も変わることがありません。

少しハスキーで低音部から高音部まで広い音域を持つ彼女の歌声は、非常に透明的な音色を持っています。声帯という器官は、加齢と共に粘膜の伸縮が悪くなり、薄く閉じることができなくなります。

それに伴って、歌声はどうしても全体的に重くなり、伸びや透明性を欠いていきます。特に女性の場合は、加齢による特有の音色が現れ、滑舌や言葉のタンギング(言葉の発音をする時の子音のアタック)が鈍くなるのが特徴です。

ところが彼女の場合は、そういう変化が全く見られません。確かに若い頃に比べれば、高音の伸びは若干悪くなりました。ですが、それも近年は、響きを細く集めて、鼻腔に当てることによって、明るく細い歌声を再現しています。

また、彼女のタンギングは、独特のものがあり、非常に清涼感溢れる滑舌をしているのが特徴です。特にS音が子音に来る単語は非常に子音がハッキリと立って聞こえるように歌うことで、清涼感のある発音になります。

さらにバイオリンのようにフレーズをつないで歌う、ということを教えられてからは、彼女の歌は、どんな単語が来てもプツプツと切れるのではなく、横へ滑らかにつながれていきます。

そのため、言葉のタンギングも全体に滑らかな曲線を描くのですが、その中でS音やSH音だけがタンギングが強いため、非常に立ってくるのが特徴で、これによって彼女の歌は日本語の歌詞がハッキリと伝わるのです。

また、ビブラートはほぼ存在しませんが、フレーズの最後の音節には現れることが多いのも特徴です。さらに高音を歌う場合、彼女の歌声の響きに幅があるように聞こえるのは、低音部で倍音が鳴るためで、幅がありながら、中央に芯のある透明性の高い歌声をしています。

この特徴は還暦を迎えた現在もほぼ変わることがなく、彼女のイメージがその外見とともに、いつまでも若いと感じる要因になっていると思います。

「松田聖子」であり続ける

コロナ禍で40周年のコンサートやイベントは中止に追い込まれましたが、去年、今年とライブツアーを行なっています。

去年暮れには、彼女にとって非常に辛い出来事がありましたが、今年も私は彼女のコンサートを拝見することが出来ました。

いつもの彼女らしく、ステージは、可愛さ、華やかさが満杯でしたが、沙也加さんのデビュー曲である『ever since』を歌った後のMCでは涙が止まらなくなり、何度も言葉が途切れるという状態になり、会場ももらい泣きに包まれました。

結婚しても、出産しても、彼女には松田聖子というイメージがついてまわり、どんな時でも彼女は松田聖子であり続けなければなりませんでした。

それはアイドルと呼ばれる人の宿命でもありますが、1人の母親として、「娘は私の心の中にずっと生き続けています。今日もこの曲を一緒に歌ってくれたと思います」と話す彼女だからこそ、長きに亘ってアイドルとして存在し続けられるのではないでしょうか。

どんなに辛く悲しいことがあっても、松田聖子であることを望まれる反面、歌があったからこそ、彼女は未来に向き合えるのだと思います。

満員のホールには、彼女の味方しかいません。彼女を42年間見守り続けたファンは、彼女の最大の理解者であり、最大の支援者でもあるのです。

ファンから多くのエネルギーをもらうことで、彼女は松田聖子であり続けられると言っても過言ではないでしょう。どんな状況でも、彼女は歌い続けるのです。

コンサートでは、恒例のアコースティックコーナーの時に、ファンからのリクエストに応えるシーンがあります。いつも思うのは、どんな楽曲を要求されても、歌詞を思い出して歌える彼女の能力です。

何百曲とあるオリジナルの中から、何を選んでくるのか、彼女にはその日、その場所に立って初めてわかるのです。

それでも、サビの部分や歌い出しの部分、タイトルを見ただけで瞬時に口ずさめる、という記憶力は、驚異的なものだと毎回感じます。

最盛期には3ヶ月に1曲のサイクルでCDが発売されていたと言います。レコーディングのスタジオに入り、その場で新譜を渡され、ほんの1時間足らずでメロディーを覚え、録音する、という作業を繰り返してきたという彼女は、その歌い方について、「何も技術的なことは考えなかった。いつももらった楽譜をとにかく歌うことに必死で、その場面になって集中して歌っただけ」と話しています。

彼女は、彼女の感性で歌を歌ってきたということになるのでしょう。その感性は「その歌の持つ景色の中に自分が立っている、という感覚」であり、過去の歌を歌う時、彼女は、いつもその歌を歌った当時の自分に戻ると言います。

「私の歌の中の主人公は歳を取らないの。いつまでもその時のままでいるの。だから私もその歌を歌う限り、その時の自分に戻れる」と話す彼女は、やはり永遠のアイドル以外の何者でもありません。

松田聖子が変わらない歌声で数々の楽曲を歌う限り、私達、聴衆もあの頃の自分に戻れる。ブリブリのワンピース姿でステージに立ち、ミニスカートにTシャツ姿でステージの端から端まで走り回り、階段を軽やかに駆け上がっていく彼女は、いつまでも楽曲の中のプリンセスです。

彼女がステージに立ち続ける限り、誰もが歌の世界の中で永遠に若さを保っていける。

松田聖子は、そんな魔法をかけられる最強のアイドルなのです。

久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞