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【前編】校長先生インタビュー「ある生徒が教えてくれた、改革の原点」#ナガノ学校改革プロジェクトvol.2

こんにちは。NPO法人青春基地・代表の石黒和己です。今回は、この「ナガノ学校改革プロジェクト」で誰よりも外せない人物こと、長野市立長野中学・高校の「菅沼校長先生」にインタビューしました!

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菅沼校長は、このプロジェクトの仕掛け人。
私たち青春基地も、実は巻き込まれた側の一人で、一昨年冬に久々に校長先生と再会をしたときに、「ああしたいよねえ」「ここしたらいいねえ」と食事会で盛り上がっていたら、いつのまにか協働することになっていました。敬意を込めて、「してやれた〜!」という感じです。

そんな菅沼校長、市立長野の校長に赴任する前は、4年間長野県の教育次長を務めており、「教育県」と言われる長野県の教育政策を担ってきました。たとえば「信州学」という長野県の独自教科をつくって地域とつながった学校づくりを進めたり、ハーバード生らと過ごす高校生向けサマーキャンプHLABの共催など、子どもたちが羽ばたく場を仕掛けたり、じわじわと長野県の教育の土壌を耕してきたいわばキーパーソンです。

しかし、さすがのリーダーだなあと思うのは、これだけのご経験があるにも関わらず、現場の教員や私たちのプロジェクトについて指示することがほとんどないこと。
チャーミングで、とても自由な校長先生で、対話はたっぷりしますが、いつも「よろしく」と言われて、私たちも教員もそれぞれが自由に、時に葛藤しながら試行錯誤をしています。そういう方針だと聞いたことはありませんが、トップダウンではなく、まさに“個の力”を生かした組織づくりのリーダーだと思っています。

今年、63歳。おそらく最後の現場となるこの市立長野中学校・高校で何を企んでいるのか、このプロジェクトをどう捉えているのか。そしてどんな経験を重ねて、今のとっても楽しそうな姿があるのか。校長先生の歩みに触れながら、思い切ってお話を聞いてみたいと思います。

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<菅沼尚・すがぬま たかし>
1956年9月18日長野県生まれ。63歳。2018年4月から長野市立長野中学校・高等学校校長。
最初の赴任校は、長野県蓼科高校。その後県立の長野高校、伊那北高校、中条高校など県内の公立高校で教諭や教頭・校長を担ってきた。専門教科は地歴・公民。また高校サッカーの指導者としても活躍し、長野県のJ3リーグAC長野パルセイロの基となった長野エルザの設立メンバーの一人でもある。2014年4月〜2018年3月では教育次長に就任し、文科省から出向していた教育長・伊藤学司さん(当時)とともに、長野県独自の新設科目「信州学」の設置などを通じて、地域と繋がった学びづくりを進め、よりよい学校の姿を模索してきた。写真はいつも通り生徒たちと話しているところ。

―昨年4月から青春基地との協働による、3年間の新しい探究の授業が始まりましたが、いかがですか。
(食い気味に)いやあ、もう生徒の動きがぜんぜん違いますよね。とにかく濃い、という感じです。やっぱり一対多ではなく、メンター1人と、生徒4、5人の少人数で話せる環境っていうのが、すごく重要だなと感じています。

―生徒の動きが違うというのはどういうことですか?
課題探究に対する一番の課題意識は、生徒たちの「やらされ感」です。教科学習と違い、自由度も高く何をしてもいい時間にもかかわらず、市立長野でもやらされ感が漂っていました。

―昨年、生徒たちとお話をさせてもらう時間をとったとき、ある生徒に「教科学習よりも正解が見えにくいから、余計に好きじゃない」と言われて驚いたことを思い出しました。
そうなんだよね。昨年度だと、私自身があまり関わることをせず、反省を含めてですが、まず生徒に「テーマを決めましょう」と言っても全然決まらない。やりとりする中で少しずつ生まれるはずなんだけど、時間だけがどんどん経過する感じでした。
じゃあ「テーマ決まったら調べましょう」といって調べに行くけど、なかには数人実際にインタビューした生徒たちもいて、その生徒たちの発表は興味を持てましたが、ほとんどが文献やネット検索で終わってしまう。薄い時間が流れていたのが事実で、そんな状況では生徒のモチベーションが上がるわけがないですよね。

―今年度は高校2年生160人ほぼ全員が対話の中で、まず「自分がやりたい」というプロジェクトを何かつくり出したのは、すごいことでしたね。
あの結果は嬉しかったよねえ。納得度に差はあると思いますが、正直、プロジェクトが決まらない生徒も多いんじゃないかと思っていたので、ちょっと予想外でした。対話の時間を通して、自分の興味関心を見つけてきたことが大きいと思っています。

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38年間の教員人生は、違和感の連続。

―あらめて、菅沼先生はどんな思いや背景があって、ここまでの取り組みを進めてこられているのか教えてください。
正直ちょっと違和感だから、教員してるのが。(笑)
最初から実は馴染まないのよ。「教員こそ私の天職だ」と思ったことが全然なくて。常に違和感がありますね。

―それは意外でした!(笑)どんな違和感を感じているんですか。
学校の中であたり前のように通用しているところがあって、当初はそれにつっかかっていったりしました。(だんだんとそれに慣れてきてしまう自分もいるのですが・・・)
その中で、自分の中でただ批判することだけはやめようと自分で決めました。「違和感」を解消するには自分でやってみて納得するしかないと。
学校というところは、基本的には授業などを任されているので、自らやろうと思えば、いろいろなことができるところなんです。自分から具体的に考えたり動いてたりせずに、批判することはやめようと決めました。

―いわゆる規律が強く、厳しい指導への違和感ということですか。
サッカーが好きで、顧問もやって来ましたが、当時だと、「走れ」とか「部活だと1年生ボール触れません」とか普通にあって、それってどうなの、と。そもそもボールゲームなんだから、ボール触ってなにやるかを考えるのが優先なんじゃないかと思っていました。自分が責任をもってやれる時には、違うやり方をしたいと常に思っているところはあったと思います。

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きっかけをくれた北澤という生徒との出会い

―昔から、菅沼先生は菅沼先生なんですね(笑)
いやいや、自分でも反省しているところなんですが、30年ほど前に、一時期「長野県の高校は大学受験での実績が悪い」と批判され、いわゆる「学力問題」が起こりました。たしかに大学受験合格に向けての指導がタブー視されているような状況もあり、成績不振に対しての応急処置、対処療法はやらなくちゃいけなかったと思うけれども、そこで止まってしまった感じを強く持っていました。
県の指導主事から、伊那北高校の教頭になったんですけれども、当時の伊那北高校も典型的で、叩いて実績を出していましたが、生徒も息切れ、先生たちも疲れている状況がありました。

―なるほど…。
そこで学校のビジョンに、今までの延長としての「丁寧さ」に加えて、「刺激」と校内に打ち出してみたんです。実際に生徒たちを信州大学の繊維学部や農学部に連れていき、自分もカメラを持ってついていったりしていました。

そんなことをしているなか、学校内で「北澤」って面白い生徒と出会ったんです。彼は、私が直接教えたりしたわけではありませんが、その頃から自分たちでワークショップを開いたり、熟議について勉強していたりしたんです。

初めて見に行ったときは「なんだ、こいつら!」と驚きましたよ。
当時は「イベプラ」って言ってたんです。「イベントプランニング同好会」の略なんだけど、なんかかっこつけてただ派手なイベントやろうとしているだけだと思ったら、意外や意外、合併したての伊那市の精巧な立体地形図を作って市役所に展示したり、地元の伊那市についてしっかり調べたりしながら活動していてびっくりしちゃいました。

―それはすごいですね!
ある時は、寂れてしまっている地元の伊那北駅をどうするか考えようと自分たちの力で、地元の伊那小の子ども、地元八幡町の商店街の方々、それから副市長まで呼んできてワークショップを開いたりしました。
その後も交流があり、卒業してからある時に学校にやってきて、「菅沼先生、『伊那谷デザイン会議』というのをやりたいから会場を貸して下さい。」と言われたんです。それは夏休みに高校生たちにも声をかけて、大学生たちが自分自身の研究していること、実行していることについてプレゼンし、地元の活性化について考える企画で、それがめちゃくちゃ面白かったんです。

これからはこれだなと。県立長野高校で働いていた時に自分がやろうとしたかったことはこれじゃないかと、こんな風に動ける生徒たちが育ってこないとだめだなと思いました。それからずっと色々やってきたなかで、小布施町で教育やまちづくりを担っている大宮透さんに出会い、それから青春基地にも出会ったという感じかなあ。

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30年間なにもできなかった根本的な問題は、
我々のやり方にあるのではないだろうか。

―「これからはこれだ、と思った。」の意味をもう少し教えてください。その時、どんな驚きがあったんですか。
つまりね、基本的に教員たちは「生徒はほっといたら自分では学ばない」という前提に立っていて、授業に加えて補習をしたりしながら、なんとか大学にたどり着かせるみたいなことをやってきたわけです。
受験を前にすると、その気持ちもすごく分かるけれども、このセリフって30年近く言われているんです。

―その頃から30年近く経っても課題が変わっていない、と。
そうなんだよねえ。「主体性」が大切だと、子どもたちが自分たちでやれる方がいいに決まってるじゃんって言いながら、30年近く何もできなかったと反省しないといけないと思うんですよ。根本的な問題はそこじゃないということを、この限界っていうのを自分たちが考えなくちゃだめだと思ったんです。

それに北澤たちが教えてくれたのは、そこをもう若い人たちが飛び越えてやっているということです。そこを感じ取らないで、今のやり方を良しとしているのは、おかしいと思うんですよ。

もっと言えば、そうしたら教員が楽になるじゃんって思っています。無駄な補習をして両方苦労している。それがもたらすのは疲弊なんだよね。
生徒も、貴重な時間を拘束されるわけじゃないですか、密度が高くて満足できるのであれば、よしってなっても、やっている教員も「仕方ないからやるか」みたいな部分が正直ある。意欲のない者同士が1時間補習をして生まれる結果はたいしたものにはならないよね。

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―生徒にどのくらい任せるか、信じるかは、まさに今も論点になっていますね。
そうそう、高校生は半分大人なんだから、生徒が自らやってみることが大事だと思うんです。失敗を恐れて、教員の方から手取り足取りにしてしまうのではなく、自分でできるようになる、自分でしようとする機会を作る必要があると思っています。

―校長先生は、失敗やリスクをとても前向きに捉えてらっしゃいますよね。
高校生たちには、「失敗を恐れるな」と全体で言っているんです。言っておきながら、それを保証したり、出来るようにしてあげたりしないのはいけないよなあと。だから「しょうがない、私が言ってるんだから責任とるよ」と言うしかないんですよ(笑)

…話題はだんだんと教員のあり方に。第二部では、『10年先をみて、半歩先にいく改革を。』と題し、「先生」のあり方をキーワードに、これからの展望など学校改革の核心に迫っていきたいと思います。
(第二部へ続く)

編集後記
NPO法人青春基地代表・石黒和己:
分かりやすくしようと、いくつか付け足したり、要約したりしてしまいましたが、本物の校長先生はもっとふわっと、ゆるっと言葉を使います。課題を見つめながらも、強い批判や力強い変革を起こす気はなさそうな、そのニュアンスに、変わっていく学校づくり・人づくりのヒントがまた隠れているような気がしました。

スタッフ・酒井朝羽:
校長先生とじっくり話してみて思ったことは、このプロジェクトに関わる人の中で、校長先生自身が一番楽しそうだということ。楽しむことって改めて大事だなと感じました。こんな素敵な校長先生と共に学校現場と向き合えることに感謝です!

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ナガノ学校PJ1

<ナガノ学校改革プロジェクト>
vol.1:教育学部生のわたしが教師にならなかった理由
vol.2:【前編】校長先生インタビュー「ある生徒が教えてくれた、改革の原点」
vol.3:【後編】校長先生インタビュー 「10年先をみて、半歩先にいく改革を。」




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