「路上」 梶井基次郎


自分がその道を見つけたのは卯の花の咲く時分であった。

この文章から始まる。

「路上」は近道をする中での心情をありのままに恥じらわず描かれている。

今まで近道に気づかず遠回りの道を歩いていた自分を想像し、滑稽に思ったり、
新たな近道を見つけて、旅をしている気分になったり。


どこか本当の田舎じみた道の感じであった。
ー自分は変なところを歩いているようだ。何処か他国を歩いている感じだ。ー
街を歩いてて不図そんな気持ちに捉えられることがある。これから何時もの市中へ出てゆく自分だとは、ちょっと思えないような気持ちを、自分はかなりその道に馴れた後までも、またして味わうのであった。



好きな雰囲気の道歩いた時、初めて歩く道の時、私は、ちょっと周りを舐めるようにみて歩くことがある。しかし、今思うと、なんとなく好きだなって思うだけで、今まで言葉に落とし込めてなかった。

こんなにも自分の気持ちを素直に言葉で表現する人いるんだ、、、と衝撃を受けた。そして、自分はこういう文章を読むのが好きなんだと感じた。



ある雨上がりの日。傾斜のある、赤土のいかにも転けそうな近道。足を進めると、案の定転けた。背中まで泥だらけになった。坂の先は崖になっている。もしかすると滑り落ちて止まれず、落ちてしまうかも知れない。それでも、何か心に火がついたような、変な気持ちになっていた。引き返すことは考えもしなかった。スキーのように滑ってみると自力の施す術はなく滑り落ちた。そして崖の手前で止まった。


嘲笑ってもいてもいい、誰かが自分の今したことを見ていてくれたらと思った。
〜(省略)〜
どうして引き返そうとしなかったのか。魅せられたように滑って来た自分が恐ろしかった。
破滅というものの一つの姿を見たような気がした。


誰しもこういう経験はあると思う。


ちょっと無気になるような、やってやるというような。
誰も見てないからこそ、ちょっと挑戦してみる。でも心のどこかで、誰かが偶然見たりしてはいないだろうかと、どこかで期待をしている。


でもこういう気持ちは大概自分の心の中に閉まっておいて、人に共有することはあまりない。



この本を読んで、過去に自分の中で感じた胸の高鳴りを久しぶりに思い返すような、懐かしい気持ちになった。






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