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『背のびしない文と走』

恐る恐る見る。一月前に私が書いた『文』を。あるいは昨日の『走』を。ふりかえり見る。これは、文章とオートバイにおける『背のびしない文と走』の話だ。

文章を書く。しばらくして、恐る恐る見る。「背のびしてくれるなよ」そんなふうに思いながら読み返し見る。背中につううんと冷たい指が上から下に這う。そんな文が減った。背のびしない文の割合がぐんとふえた。全削除するような文には滅多に出会わなくなった。酔っ払って書いた文でもなければ。でも、すこし、ほんのすこし、背のびしてもいい。小指の爪ひとつぶんだけ、背のびしていい。冷たい指が背中に触れるか触れないか、「せめる」、そんな背のびならいい。それが風味というものだ。だから、背のびも文の魅力のひとつではある。
それともうひとつ背のびした文が減った要因がある。おそらく、エッセイと小説と詩を同時に書いているからだろう。3者が監視しあっているのだ。「背のびしないよう」「ゆるくならないよう」それぞれが、質を監視しながら共鳴している。

慣れないデートで、とびきりの格好で登場した私のデニムの裾が靴下に片方だけインするような文はもう、ない。ありがたいことだ。タグの取り忘れもない。デニムのファスナーも閉まっている。尿のキレがわるいので白いパンツは履かない。ポケットが破けたミリタリーコートを自分で縫うのはオーケー。しかもあり合わせの色の違う糸で。それが、私なりの背のびしない文だ。文を書いていてよくわけがわからなくなることがある。『妖怪ふみさらい』だ。いま、それがあらわれた。明日の私の背中が心配だ。これは背のびした文なのかもうわからない。いまの私は半々で迷っている。震えた子羊だ。

「背のびするなよ」、カワサキW650で走る私も、そう問いかけるようにツーリングしている。背のびするのは小指の爪ひとつぶんだけだ。そのぶんだけならアクセルを開けていい。夢中になりすぎてわれをわすれてはいけない。文と同じだ。背中につううんと冷たい指が上から下に這う。峠の底で『妖怪人さらい』が手招きをしている。わかっているのだけれどこれがむずかしい。ゆるすぎるのもあぶないのだ。『妖怪人さらい』とゆびきりげんまんしようか。
「ゆびきりげんまん、ゆびきりげんまん、背のびしたら針千本~飲~ます。ゆびきった」
私は心がけよう、背のびしない文と走を。


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