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『休薬期間中。がんかわいがり75日目』

湯治の、『がんかわいがり』は順調だ。
今日の天気は怪しい。思い出したことがある。私は『無理しない湯治ツーリング』の最中だった。それを忘れて、初日にバイクをコカしたではないか。リスク回避は重要だ。元気なので、いくつかの病気を抱えていることを忘れてしまう。今日は籠もるか。午前中に散歩でもしたいが、『熊注意』がやたら目につく。昨年から、特に。立地は最高なのだが、ツキノワグマとはいえ。闘ったら、身体に傷がつく。私は互角の勝負ができると思っているが。

ヒグマなら完敗だ。私は潔く食べられよう。きっと、食べられている最中は、感覚が麻痺して痛くないはずだ。しかし、此処は新潟なので食べられる心配はない。ありがとう、津軽海峡。クドいようだけれど、互角の勝負はできる。ただ、『がんかわいがり』で弱った身体に細菌が侵入して、後ほど死ぬ可能性がある。『腹下り』になる自信もある。

という訳で、私はホテルに籠もって一日中『文章』を書こう。もしくは、校正をしよう。なんだか、いいではないか。ほぼ、川端康成ではないか。場所といい。縁をかんじる。かつて、フラレタ場所も近い。湯治は大浴場にいけばいい。何度でも入れる。金曜日にこのホテルが急に激混みしないかぎり。優雅に過ごせるだろう。このホテルにも立派な温泉があるのだ。土曜日は激混みするかも知れない。それは織り込み済みだ。土曜日に走ればいい。雨が上がっているといいのだが。『見玉不動尊』のリサーチは終えた。拙い小説の続きを書こう。

何度か書いたけれど、私は何かの芸術活動をする事が人類の義務だと思っている。それと、引き換えに『年金』を貰う制度に改めるほうがいいと思ってもいる。残念ながら、100年前の日本の文豪たちの文章はそのままでは読めない。夏目漱石であっても。100年後はさらに大変だ。夏目漱石の作品の価値は文章では一般庶民には届かないだろう。映画、ドラマ、漫画、そういった媒体でしか夏目漱石の作品が届かない時代が来る。もしくは翻訳だ。で、なければ、辞書片手に読むしかない。かなり難渋するだろう。それだけ、日本の言葉が変わったのだ。

でも、ほとんど50年前に書かれた、村上春樹の文章は今でも、するする読める。あの時代に日本の文学と国語が完成したのだろう。おそらく、100年語の日本人も彼の作品をするする読めると思う。だから、年金と引き換えにそれぞれの『芸術活動の成果』を日本国として収蔵してほしい。電子媒体でも構わない。ただ、年金と引き換えにしないと誰も書かない可能性がある。若しくは、書いたら年金アップとしよう。年金を貰う前に死んだら(たぶんそれは私だ)、『芸術活動の成果』と引き換えに、遺体をタダで焼いて、燃えるゴミで捨てて欲しい。死んだ後の私は鳥葬でもなんでもいい。うまく処理してほしい。墓もいらない。父の故郷の川にでも勝手に蒔いて欲しい(嘘です。ギャグです。逮捕しないでください。)

100年前の令和の一般庶民がどう暮らして、なにを考えていたのか。それは、立派な学問に足り得ると思う。だから、市区町村レベルでもいいから、小さなデジタル化された『正倉院』を作って欲しい。ある意味で、noteはその代わりをしている。偉いぞ。『正倉院化』を薦めてほしい。政治家の略歴や自慢話より。田中角栄の実家の隣の隣の隣に住む、一般人の半生のほうが面白いのではないか。そんな気がする。

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