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『リアムギャラガー式散歩』

散歩がすきになったのはいつからだろうか。
私の時代の保育園の送り迎えは送迎バスなどはないから、パート帰りの母と一緒に歩いて帰ったところが始まりかも知れない。
そのときは、散歩がすきというより、『母と歩くのがすき』が、正解だったのかも知れない。ま冬になると帰り道に石焼き芋の屋台とよくすれ違った。よく、買ってくれたもんだ。今でも母は焼き芋に目がない。熱々の石焼き芋を母が私のリュックに入れてくれた。いわば、カイロ代わりに石焼芋で暖をとり、私の背中を暖めてくれた。そんな想い出のせいなのか、子どもの頃から歩くのはすきだった。

そんな私も49歳になった。
私の暮らしている群馬の片田舎でも、随分しぜんは減った。しぜんが、『人工的なしぜん』に変じていった。昔のしぜん(80年代)は散歩するには、あまりにも、しぜん過ぎた。藪を掻き分けるような冒険に近い散歩が、私の片田舎では日常だった。正直に言えば、荒々しくて、危なくて、ゴミだらけの大しぜんだった。
川は工業用排水でそこら中が泡だらけだった。流れついた発泡スチロールが草原に打ち上げられて、『赤城おろし』でばらばらになったまま、海まで流れていったことだろう。そのイビツな大しぜんを目の前にして育った私からすると、現代の整備され管理されたイビツな小しぜんも悪くないと思えるのだ。少なくとも、工業用排水垂れ流しの川と、エロ本捨て放題、拾い放題の土手をもう一度とは思わない。散歩するには厳しい環境だった。昔はよかったなんて思わない。

この10年くらいだろうか。イビツに整備された(キレイ、安全、広い)小しぜんの公園が増えた。昔のように傷だらになって半冒険的な散歩はなくなった。というより、私の子どもだった頃はそんなにみんな散歩をしていなかった(と思う)。大人たちは共働きで忙しくて、散歩する余裕などなかったのだろう。

私は今日も散歩に興じてきた。
その散歩スタイルは『リアムギャラガー式』だ。『デューク更家式』がいくら幅をきかせようとも、『有酸素運動式』のおば様方に追い抜かれようとも。私は後ろで手を組んでゆったりとした足取りと態度で散歩するスタイルを愛している。
『リアムギャラガー式』は、むふむふむとうなずきながら、余裕で「散歩してやってるぜ」って感じがするのがいいのだ。竹林を俯瞰して見るような、皮肉たっぷりに首を傾いで歩く、そんな『リアムギャラガー式』が私はすきだ。
そういえば、何処かの工場で『リアムギャラガー式』で歩いている者を見た事がある。「視察してやってるぜ」って感じがいいのだろう。だが、私だけはその者の心理を見抜いていたぞ。心理を見抜きながら「ぺこぺこ頭を下げてやっていたぜ」、そのうえで、いつもより現場を「整理整頓してやってたんだぜ」、その者は片手を後ろにまわして、もう一方の手であれやこれや指示をとばしていた。余裕で「指示してやってるぜ」って感じだ。
気に入らない。それを解ったうえで、私は余裕で「指示されてやってあげたぜ」、工場労働者であふれた群馬県は、まるでマンチェスターじゃないか。調べてくれ、マンチェスターはかつて繊維産業で栄えたらしい。群馬には富岡製糸場があったじゃないか。どうだい。異論はないだろう。群馬は日本のマンチェスターだ。
『リアムギャラガー式』でいまから、「ハローワークに行ってやるぜ」

この『リアムギャラガー式」は、スター感もでてしまう。独裁者にバレたら大変なことになる。かれらは演出が上手だ。『リアムギャラガー式』の効果を知られてはならない。翻訳は禁止だ。

そして私は、書類の不備で「ハローワークから追い返されてやったぜ」


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