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時の流れぬ喫茶店/中編小説

君たちは喫茶店に行った事はあるだろうか。穏やかな空気が流れ、音が死んだようになく、何時間でも過ごせる場所。
僕にとっては喫茶店は“昔の遺物”のように感じていた。いや、そもそも喫茶店という存在を忘れていたのかもしれない。上京した頃から僕は社会の荒波に呑まれまいと必死に働いていた。まるで都会という馬鹿でかい機械の中に張り巡らされた細い導線が忙しなく電気信号を送るように。
だけど一昨年の夏。まだ宿題に手を付けていない子供達が海水浴に行き、熱中症警戒アラートが発表され、からりと晴れた日に僕の家に一通の封筒が舞い込んで来た。
速達で送られて来たその封筒にはマジックペンで僕の名前が力強く書かれていた。
こんな力強く書く差出人は地球上で一人しかいない。

僕の父親だ。

筆まめでも無い父親がなぜこんな物を……。
そう思って恐る恐る封筒を開けた。

畑仕事をほっぽり出して急いで書いたのだろう。中には泥だらけでシワシワの紙が入っていた。
やはり悪い予感は的中した。母親の容態が悪化し、もうダメかもしれないとの事だった。
僕は考える暇もなく荷物をまとめると、自分の自動車(車が欲しいと思い無理して中古で買ったセダンだ。)に飛び乗り高速のインタチェンジ方面に走り出した。
僕の実家は静岡県の物凄く北の方にある森に囲まれた小さな町だ。

少なくとも四時間はかかるな........。

あっという間に神奈川県を通り過ぎて静岡県に入った。左には大海原が高速道路の仕切りに見え隠れしている。そしてそのまま北へ進むため、高速道路から降り、普通の道路を進んで行った。ビルは民家になり民家は森になった。
僕は少しホッとした。
だけど、あと一時間で目的地だと思った時、車の左後ろで嫌な音がした。
僕はすぐに車を道路脇に停めた。
幸いもう夕方だったため、僕の車の前にも後ろにも別の自動車はいなかった。

ドアを開けると森の爽やかな匂い、木の葉のすれあう音、そして僕の自動車の放つ排気ガスのムッとした匂いが一斉に車内に流れ込んで来た。
僕はスマートフォンの明かりを頼りに左後ろのタイヤを見た。

パンクだ。

僕は絶望した。
タイヤの横には直径20cmもの大穴が空いていたのだ。裂け目の部分は溶けていて、恐らく日光でやられたのだろう。

突然パッと辺りが暗くなった。僕はビクッとした。不運な事にスマートフォンのバッテリーが丁度切れたのだ。

僕は焦った。逃げ道を塞がれたネズミのように、キョロキョロと辺りを見回した。
周りにあるのは森だけだ。
日は暮れかけており、木の影帽子が引き伸ばされて地面にくっ付いていた。車が来る気配は無い。ただ木の葉の擦れあう音や虫の鳴き声が聞こえるばかりだった。
その時、道路の先に明かりが灯った。エンジンの音がしないという事は車では無い。

家だ!誰かいるぞ!

僕はそう思った途端、明かりの方に走り出した。

どれくらい走ったのだろうか。やっと僕は明かりに辿り着いた。それは小さな洋風の家だった。道路から少し離れた所にある、ちっぽけな空き地の上にまるでヒヨコのようにチョコンと建っていた。
僕はクタクタになりながらも家の玄関に近寄った。玄関にはヨーロッパの彫り師が彫ったような柔らかな筆記体とその下には後で貼り付けたような木の板に、白いペンキで“喫茶店ヒトトキ”と描かれてあった。
喫茶店と描かれているのを見ると僕の足はピタリと止まった。

喫茶店。僕の胸はドキドキした。
カフェみたいな所とか聞いたけど。もし営業時間が終わっていて追い出されたらどうしよう.......。変な目で見られたら........。大体なんでこんな山奥に喫茶店なんて............。

次の瞬間。一つの重大な事を僕は思い出した。
僕の母親は死にかけているのだ!そんな一刻を争う時に喫茶店に入るか入らないかでオドオドしている自分が情けなく思った。
僕は思い切ってドアノブを掴むと中に入った。

裸電球に照らされた店内は丁度、体育館の倉庫ぐらいの広さだった。

手前にはソファーや安楽椅子が所狭しと置いてあり、コーヒーテーブルがそれらに包囲されている。
壁や天井、床は全部板張りだった。そして壁には棚がいくつも釘で留めてあり色々な物が置かれていた。
そのインテリアときたら癖が強い物ばかりだった。
本はもちろんのことサメの模型や何かの化石、フラスコ、地球儀、頭蓋骨、変な方向に育った盆栽、高級そうなワインボトル、様々な大きさの松ぼっくりのコレクション、他にも色々あった。

店の一番奥にはバーのカウンターがあってそこに一人の女性が持たれかけていた。
カーキ色のTシャツにグレーのエプロンを着けてメモ帳に何か書き物をしていた。

僕の後ろでドアがガチャリと音を立てた。
書き物をしていた女性は顔を上げた。
その顔は二十代前半ぐらいで髪の毛は新鮮な栗のような赤毛、目はトルコブルー、鼻の付け根にはソバカスが点々と付いていたのを僕は確かに見た。

「いらっしゃいませー!」
女性がお辞儀をしてまた顔を上げた時、僕はアッと驚いた。

女性の顔はまるで老婆のようになっていたのだ。髪の毛は色褪せた赤茶色になり、ニキビひとつなかった額には化石のようなシワが付いていて、目はショボショボして眼球の色を見るのも困難だった。唯一若い女性との共通点はあのソバカスだった。

「あ.........あの.......。」
僕は口籠もりながら言った。
「電話を貸してもらえませんか?」

老婆は注意深く僕の顔をショボショボした目で見つめた。その目はまるで太古の生物から借りて来たような厳つい眼差しだった。

「.........ウチには電話は無いよ。」
そう老婆は言った。

「ならこの近くに公衆電話はありますか?」

「あるがねぇ.........。」

「え?本当ですか?」
僕の体は今にでもドアから飛び出しそうだった。

「待ちなさい。」
老婆の声は少し厳しくなった。
「この夜道は熊が出るからね。危ないよ。」

「だけど僕の母親がそう長く無いんです!」
僕の頭の中で寝たきりでガリガリに弱り果てた母親の姿が揺らめいた。

「待ちなさい。」
老婆の低い声はまるで聳え立つ城壁のような迫力があった。
「時間はたっぷりある。」

「で......でも.......。」
僕は泣き出しそうになった。

「....焦って外に出るとロクなことが起きないよ。ひとまず落ち着きな。」
そういうと老婆は僕を近くの安楽椅子に座らせた。
「コーヒーを淹れてあげるから飲みなさい。」

僕は黙って厨房へ去って行く老婆の後ろ姿を見つめた。

「あの..........お名前は?」

「色々な名前がワタシにはあるが.........まあ、トキだ。」

トキさんは暖簾をくぐると厨房へ消えていった。

しばらくすると厨房から盆を持ったトキさんが出て来た。

「これを全部飲みなさい。」
トキさんは洒落たコップを僕の前のコーヒーテーブルに置いた。

僕は遠慮しながらもコーヒーを少し啜った。普通の平凡な味だった。

「..........アンタは何でそんな急いでいるんだい?」
トキさんが聞いた。

「ついさっきも言ったじゃないですか!!僕の母親が死にそうなんです!!」
僕は怒りに任せて怒鳴った。そして椅子から立ち上がるとドアの方に歩き出した。
コップにはコーヒーがまだ半分くらい残っている。

するといきなり誰かが僕を物凄い力で押さえつけた。びっくりして振り返るとあの若い女性が僕を逃がさまいと羽交締めをしている所だった。

「ストップ!!」
若い女性が甲高い声で言った。
「アンタ、そのままじゃ消滅しちゃうよ!!」

僕は何が何だか分からなくなり若い女性に引きずられてまた安楽椅子に戻された。
すると若い女性に変化が起きた。まるで長い月日が女性の周りだけで過ぎているようだった。
新鮮な栗のような赤毛は見る間に赤茶色の白髪混じりの髪の毛になり、目は段々と小さくなってショボショボした目になった。額には稲妻のように沢山のシワが現れ、腰はどんどん曲がり、気づけばそこにはトキさんが立っていた。

「まったく。」
トキさんはショボショボした目で僕を睨んだ。
「もう直ぐで流れの餌食になる所だったぞ。」

僕は呆気に取られていた。

「ここはね、時間という川にある中洲なんだよ。」
トキさんが説明しだした。
「この喫茶店は時間が過ぎないんだ。だから、いくらいても歳を取らない。」

「........ついさっきの若い方ってトキさんですか?」
僕はやっと口を開いた。

それと同時に今度はトキさんの腰はピンとなり、シワは消え去り、目はパッチリと見開き、白髪混じりの赤茶色の髪の毛は新鮮な栗のような赤毛になった。

「このこと?」
若いトキさんが言った。陽気な声だった。

「......あ..?はい。」
僕はまた呆気に取られた。

「これはね、ワタシは歳を取らない代わりに好きな時に若返る事も老ける事もできるんだ!ホラァ、中洲って縦になっているでしょ?普通の人はこの中洲に来ると中洲にいる限り老けることも若返る事もないの。だけど、ワタシは中洲の中で自由に動き回れるから若返るったり出来るんだよ!」
これを若いトキさんは一気に話したのだ。そして話し終えるとまた老いたトキさんに戻った。

「他にも質問は?」

「何で僕が外に出ようとすると止めるんですか?」

トキさんは少し考えてから言った。
「ワタシがついさっき言ったように、時間というのは川みたいなもんだ。それぞれの物が自分の船で上流から下流へ流れていっているのだ。しかし流れている時にもし時間を使い過ぎると船はガタガタになって最悪の場合バラバラになって沈んでしまう。逆に時間を蓄えすぎると船が水を吸ってこれも沈んでしまう。つまり時間は時間の流れと船の釣り合いによって成りったっているのだ。そしてアンタは時間を使い過ぎている。だから、このまま流れの無い中洲から流れのある川に降りたら、アンタと時間の釣り合いが崩れてアンタは沈む。正確には消滅する。もっとハッキリ言うと死ぬと言うことだ。だからこのコーヒーを全部飲めと言ったのだ。」

僕はカップに残ってるコーヒーに目を落とした。

「これには何の意味があるんですか?」

「昔の人は自分の好きな事をして上手く時間との釣り合いを保っていた。だけどアンタには今はそんな時間が無いとワタシは思った。このコーヒーは川底に沈んだ船から作ったものだ。決して怪しいものではない。」

僕はしばらくコーヒーと睨めっこをしていたが、カップを持つと目を閉じて残りのコーヒーを一気に飲み干した。やはり普通のコーヒーの味だった。

「もう行っていいですか?」
僕が恐る恐る聞くとトキさんはコクリと頷いた。

「.......あ!そうだ、そうだ!」
トキさんは思い出したように壁に掛かっている本棚から一冊の本を取り出した。
「ここに迷い込んでくる人は大体訳ありだから、テイクアウトサービスを最近始めたのだよ。」

本を開いてみるとメニュー表のように物の名前が書いてあった。
その中に“左後ろのタイヤ”があった。

「好きな物を一つ選びなさい。」

「え......あ.....ありがとうございます!」
僕はトキさんに礼を言った。

「礼はいらない。早く選びなさい。」

「ならこの“左後ろのタイヤ”にします。」

「お会計は無料となっていまーす。」
僕が横を見ると若いトキさんがメモ帳に何かを書いていた。

「ご来店ありがとうございましたー。」

僕はドアノブを握りドアを開けた。

「気を付けてな!」
老いたトキさんの声が後ろから聞こえた。

「はい!」
僕は一歩外に踏み出した。
「ありがとうございます!」

そう言い残すと僕は外に出た。後ろでドアが静かに閉まった。

そして道路の脇の自動車の所まで走って戻った。
左後ろのタイヤはパンクしていなかった。
僕はエンジンを掛けるとまた道路を進み始めた。

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結局僕は母親が亡くなる三十分前に着いた。
それから通夜や葬式をするために三日実家に泊まると、再び都会に戻った。なんせ職場に何も言わずに地元に帰ったものだから、戻った日は上司から散々文句を言われた。だが僕はトキさんに言われた通り好きな事をやる時間を作った。

それから一ヶ月が経ち、土曜日に僕はトキさんにキチンと礼を言うために“喫茶店ヒトトキ”があった場所に行った。記憶を頼りに探していると、やっとあのちっぽけな空き地を見つけた。
だが“喫茶店ヒトトキ”はそこには無く、ただ真夏の日差しが降り注いでいるだけだった。

だけど僕は腑に落ちた事があった。

なぜトキさんが“喫茶店ヒトトキ”を“島”では無く“中洲”に例えたのか。

「......あのコーヒー.......地味に美味かったなぁ......。」
僕は夏の陽気で厳しい日差しを体中にいっぱいに浴びながら呟いた。


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