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人として、女性として、母として、そして表現者として私たちはどこへ行ったら満足できるのだろうか。〜一条美由紀 + 村田早苗「一人前」展に伺って考えたこと〜

一条美由紀 + 村田早苗「一人前」展に伺った。


こちらは村田さんから遠い昔、お声掛け頂いた縁があった。村田さんの表現スタイルにすごく興味を持った。テーマは「子育てと美術」。当時、子育てと美術を「鑑賞者側視点」で書き連ねながら実際に美術展示を徘徊してる人は皆無だったと思う。だからお声をかけてもらったのかもしれない。
私は当時、赤子を連れて美術館やギャラリーを回っていた。預け先がなかったというのと預けても友達もいなかったのでだったら二人で回ろうということで色々回った。記録をずっとつけていたけどそれはバズりたい訳ではなく、子供が成人した時見てもらいたかったから。当時のブログは今以上に素人の記録そのもの。なので「子育て主婦の徘徊記録」と言われ続けていたけど、敢えて反論しなかった。というか反論しようがなかった。だって事実だったもの。同時に15年から10年ほど前、美術館界隈、文化芸術、美術の世界に関して「子供が一緒に子供向け以外の展示を見る」はある意味迷惑行為と判断されることも多かった。

子供連れの輩に美術がわかる訳がない。邪魔だから来るな。


このような意見を発していた方の多くは「美術側」ではなく、「美術を見る別の観客側」の方であった。「子供を美術館に大人の都合で連れ回すなんてあの子は健全に成長できない」と言われたこともあった。

時は流れ、私も住む場所も複数変わり、そして世界も変わった。子供を連れて美術を見ると子供の成績が上がるなどの記事が数年おきに流行するようになった。
その度に私は「お子さんの教育のために美術館に連れて行ったんでしょ」と多方面から言われるようになった。よく知らないのにわざわざ聞きに来る人もいた。確かに息子は素晴らしく聡明になった。しかし私は彼を聡明にしたくて美術に触れに行ったのではない。そもそも彼は私によって聡明になったわけではない。学がないと言われ続けきた私がなぜ子供を聡明に出来るのか。そう言い返したいのをグッと我慢しながら私はこう答えた。

「いえいえ、友達がいない私は行く場所がなかったので私が自分で楽しめる場所に行くしかなかったんです。子供はここで自分まで拒否したら母親は壊れてしまうと悟ってくれたのでしょう。そう、彼は私を憐んでくれたんです。そのくらい私の子供は思慮深い聡明な子なんです。そしてそうなるように育ててくれたのは彼に関わって下さった全ての方のおかげです。学のない私は連れて行っただけです」


そう言うと大体の方は苦笑いしてそのまま下がっていった。


私の子育ては美術と共にあったと言っても過言ではない。そして、この秋に息子が大学進学のためトロントに行くので私の中での「子育て」は一旦終わる。17年。決して短い年月ではない。しかも日本だけではない。欧州もアジアもまわった。アジアで監禁も体験した。思えば遠くへ来たもんだ。

私はいわゆる「学歴のある人々」に囲まれてきた。特に私の母は今年87歳で京都大学薬学部卒という年齢を考えると破格の秀才であった。なので「あなたは学がないから人の数倍努力し、数倍人に配慮しなさい。だって「あなたは学がないんだから」」と言われ続けてきた。私は世代的に氷河期をギリギリ逃げ出せた世代なので、凡人の数倍の努力と配慮で生活できた幸せな世代だ。同時に「他者からの設定と断定を聞き流すことで自分で生き方を狭めた世代」でもあった。



「一人前」展はさまざまなシャツに刺繍が施された展覧会である。刺繍には1つ1つ意味があり、その意味を振り返るだけで多くの時間を要する。同時に村田さんとじっくり話もしたので本当に長い時間在廊した。ずいぶん長くその場にいたのに、写真をあまり撮らなかった。なぜかと考えると、私の中で人間として、女性として、そして様々な立場として選ばれた言葉が刺繍されたその場は「産院」のような印象を持ったからかもしれない。1つのシャツの言葉が選ばれた背景、そしてその言葉が形として残る集中の時間等は、容易に想像ができる。同時にその時間は女性として、母として想像すると、とても痛い。その、完成形が目の前にあると同時にその目の前にある作品の背景をとても痛く感じるのだ、まるで赤子が並ぶ産院の病室のように。

改めて「一人前」展のなかで思う。衣服での表現というのはその人の生き様を表すという解釈と同時にその人の内面を完璧に隠す表現という解釈も可能である。私はこれらのシリーズの1つである作品を着てこの展覧会を訪れた。私も作品の1つだ。そして私は思う。この空間の中でどのように存在しているのか、私はこのシリーズの中に入って一人前になったのか、そして私の定義は誰が決めるのか。

あなたってこうだよね。性別、国籍、職業、故郷、学校、などなど育ってきた環境で様々にカテゴライズされる昨今。そして止まらないキャンセルーション。これからカテゴライズなんてあかん!と言いながら実際の世界は益々カテゴライズされ閉じられていく。カテゴライズと闘いすぎて本来一番大事にしなくてはいけなかっった自分の表現そのものの表現が閉じていく。

一度ネットに載せたら最後から声でも手紙でも意図的に電子化され世界の果てまで広がる現在。そして実際に言わなかったとしてもAIでなんでも作ることができる恐ろしい世界。そう、私たちは実際に話したり実際に触れたりすることすらも疑わなくてはいけなくなった。

私が赤子を抱えて美術館を回り始めてから17年。当時の私はこんなに自分が海外に関わるようになんて想像もしてなかったし、感染症で世界が激減するなんて想定外だったし、人的な戦争が欧州で再び起こるなんて考えてもいなかった。

17年経って私が学んだことは世界は急に変わるということ。そして変わった後は「すべてが元に戻る訳ではなく、必ず失うものがあること」。そしてこの失ったものを見ないふりをしていると、取り返しのつかない喪失感の傷を負うことになること。

私たちは相当歩いてきた。私たちが歩いてきた道は、今の若い人から見たら歩くべき道ではなかったかもしれない。私たちはその道を選んだことで若い人に苦労を先送りしたことは事実だ。私たちはその点は潔く謝るべきだと思う、でも、でも、同時に私たちは歩いてきた事実に対してもっと自信を持つべきなのかもしれない。
これから老いていく私はこれからどこにいくのか。そして老いていく者はどこを歩くべきなのか。一体どこに着いたら満足できるのだろうか。


とりあえず、歩くのはやめなくていいはずだ、だって着替える服はこんなにたくさんあるのだから。