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「日本の美術館で「踊る阿呆」になれないから作品に代わりに踊ってもらうことを思いついた」ので一緒に踊ってみようと思う。

ほら、やっぱりそのまま終わってしまいそうじゃないか。私がずっと気にしていた「美術館女子問題」。

美術館にAKBのメンバーが出向き、彼女が「自身が作品」と宣言しながら展示作品を背後に取られた「企画」。なんだかなあと思いながら見守っていたら案の定炎上。自分なりに検証をしてみた。

そして具体的なネクストステージも考えてみた。

何かこの繰り返される炎上を経て大きなムーブメントが起きるのかな?と少しだけ期待があった。でも、ボーッと燃えて、なんか終わってしまった感。現在、新しいムーブメントは国外に住んでいる私には感じられない。予想はしてたけど、すごく悲しい。


なので今回は「ムーブメントが起きない理由」と「美術館オタクおばさんが考えるネクストステージ」を考えてみた。

1:美術館を楽しむという行為にネクストステージがうまれない理由

「踊る阿呆に、見る阿呆、同じ阿呆なら、踊らな損損。」という歌い出しをご存知だろうか。阿波踊りの歌い出しである。

ちなみにこの歌詞、英語で日本語ネイティブの人と、日本人で日本語ネイティブの人だと最後の訳が微妙に違う。ここは面白い。

美術館の鑑賞とジェンダー問題では定期的に(ちょっと待てよ系の)「踊る阿呆」が登場する。2020年、美術館女子。2017年、ちょい悪オヤジ、2012年、文化系説教ジジイ。美術クラスタの中では 2014年に「ギャラリーストーカー」というのもあった。

本当、定期的に出てくる(ちょっと待てよ系の)「踊る阿呆」。そしてあっという間に退場させられ、日本の美術館で「踊る阿呆」は見えなくなっていく。

この問題、「文化芸術の中では「おっさんと女性」という組み合わせは芸術誕生の根源でもあるので真正面から取り組みにくい」という仮説を私は前述のnoteで立てた。


2:日本の美術館で鑑賞者サイドのムーブベントが継続しにくい理由

久しぶりに聴くと、ええ曲や。。。時には起こせよムーブメント。

若い人は知らないかもしれないから、歌詞も置いておくね。


先ほどの嘆きからの展開。よーしわかった!じゃあ別のムーブメントを起こせばいいのでは?というのがノーマルな考え方。社会活動をどうやって起こすかということではこちらのプレゼンが超有名。それにしてもこの動画、誰が取ってたんだろう。

最初の「踊る阿呆」は日本の美術館でなぜ踊らないのか。そして2番目、3番目の「踊る阿呆」がなぜうまれないのか。そもそも日本の美術館で「踊る阿呆は踊れるのか」。そこだと思うんですよね。


3:「美術館に行くこと」と「踊ること」を両立させない空気

「美術館に行くのが好きなんです」。

日本で大人の会話の中で、初対面の人にこう言うとほぼ身構えられる。私の場合はママ友がいなかったので「子供と一緒に美術館に行っていた」と話すと

「(あー意識高い系ね)。お子さんと一緒に美術館なんて、教育を考えておられるんですねえ」

的なことを言われ続けた。そう、日本では「美術館に行く=教養」というイメージが強い。「美術館に行く子供は成績が良い」「ビジネスエリートは美術館に通う」「美術館に行く人は長生きする(←NEW! ってこれって教養?)」などが定期的にメディアを賑わせる。


つまり、日本で「美術館に行く人は、教養を身につけるために行くので楽しむためではない、つまり「踊る阿呆ではない」という認識を持っている人が多いと仮定できる。


ごめん。俺は美術館で「踊る阿呆になりたかった。でもなりきれなかった」。


4:俺が「踊る阿呆になりきれなかった」理由

私は「子供を連れて美術館に行く」という踊りを続けてきたわけだけど、この踊りをムーブメントにする勇気がなかったことはここに正直に告白したい。なぜなら

「批判されたくなかったから」

それは「子供と一緒に鑑賞してることで子供が批判の対象になったら怖い」という点が一番大きかったと思う。(実際批判を受けたこともあった。今は子供が少年になった&コメント欄を閉じてるので直接的に批判を受けることはない←その前にブログ書いてない。書こうぜ自分)同時に「美術館という自分の遊び場に(批判対象でもそうでなくても)知らん人にドカドカ入ってきてほしくない」という感情があったことも正直に告白したい。

美術館好きな人ならわかってくれるのではないだろうか。この矛盾マインド。

「この楽しみを知ってほしい、楽しめる環境が繁栄してほしいけど、自分が楽しむときはひとりで楽しみたい」

なんという矛盾。

まずは発信しないとあかん。自分が好きなものを好きと素直に伝えられる世界。


日本における「批判の強さ、圧」は日本語ネイティブだと本当に辛みが強すぎる。私のような自己卑下デフォ人間マダオ(まだまだダメなお母さん)からすると、目立つこと自体が辛い。

マダオがわからん人はこちらを。最近気に入ってる(息子から教えてもらった)。


批判はされたくない、でも好きなことを発信たい。この楽しみを感じてほしい。ああどうしようこの自己矛盾。そんな時、いつも素敵なnoteを発信されてる有賀薫さんのnoteを見つけた。


この「好きな媒体を擬人化して自分を紹介する」ってなんて楽しんだろう。こちらは #常識を考え直すワークショップ の一環らしい。


そして私は考えた。これを美術鑑賞に応用したらめっちゃ楽しいのでは?私たちは美術館で美術作品を眺めている。そして帰ってきてから図録やチラシ、インターネットで作品を眺める。その時は自分が眺めてるという視点だったけど、「作品が自分を観てる」という視点だったらどうだろう?


私は美術作品を観る、体感する、観て考えることで本当に救われてきた。ここで私は「観る」という体験を「実際に観る」だけに拘りたくない。例えば読書だって立派な体験だ。こうあってほしい、同じ方法でなければならない、対価を払わなければその資格はないという呪縛から解き放たれたい。でもそれはとても難しいという指摘がある。それは深く納得。

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状況を平等にしなきゃにこだわると遮断されてしまう。この遮断で「はいおしまい」になってしまうとまた同じことが繰り返される。


私、美術館ってほんと楽しいって思うんですよ。でも私が言うと「お前が言うことなんて」って言われたらどうしようって思うんですよ。ええ、俺なんてっいう自己卑下から始まってしまうからなんてわかってます。びえん。

だから!

自分が好きな芸術作品が「俺を好きってやつがいてよう、そいつがそんなことを言ってたんだよう」ってスタンスで自分の想いを擬人化して紹介するnoteを始めようと思います。


ああ、最近芸術に触れてない。家に本も、コレクション作品もあるのに全然愛でてない。だったら勝手に愛でるわ。俺、踊り始めます。


本来ならここに第一弾を書くべきなんでしょうが、ここまでのnoteでかなり時間がかかってしまったので、私を紹介してくれる方の紹介のみします。この方です。

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(第2、第3の「踊る阿呆」を待ちながら)踊りを開始します。さあダンスシューズロックオン!