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亡父の本棚に向き合ってから私が #わたしの本棚 を作る際に常に気をつけていること。


欲しい本はまず買え。いつ読むかは買ってから考えろ。


こんまりこと近藤 麻理恵さんが私の家に来たら本棚の前で必ずこう言うだろう。

「本、沢山ありますね。そして何ヶ国語話せるんですか?」


私の趣味の1つは「本屋に行って本を買うこと」だ。本屋の全てが好きだ。匂い、レイアウト、そしてそこに集う人々。全てを愛している。


私は好きだと思ったら読めなくても本を買う。私は現在家族の都合でマレーシアのクアラルンプールに住んでいる。この国ではマレー語の他に英語と中国語が飛び交う。私自身はどちらの言葉も正直満足に話せない。でも本は買う。幸い、クアラルンプールの中心部には「紀伊國屋クアラルンプール店」があるので日本語の本は購入可能だ。毎回自分でも呆れるくらい本を買っている。そして日本語以外の本も買う。


ちなみにオンラインでも買って配達してもらう。同時に電子書籍も買う。そして電子書籍で気に入ったらリアルで同じ本も買う。


なぜ母語に限らず、完璧に話せない言語の本も買うのか。なぜ、電子書籍で持っているのにリアルの本も買うのか。それは私は「本棚は自分がデザインできるお墓」と思っているからだ。


本棚は自分がデザインできるお墓」。それは私は実父を亡くした時に遡る。私の実家は横浜にあり、現在は母がひとりで暮らしている。父は学者だったので実家には書斎があった。しかし父の痴呆が進み書斎は単なる寝室と変化した。しかしその際に決して変えてはならぬ場所があった。「本棚」だ。


父は工学系の学者だったので私には理解できない数学、工学系の本が山のようにあった。いつも紙に難しい数式を書いてあーだこーだ言っていた。そしてその工学系の本の間には、かつて訪れた美術館の図録があった。


痴呆がすすみ父は施設に入った。私は帰省する際には父の部屋で作業をするようになった。そして父はあっという間に亡くなった。主人のいなくなった部屋。振り返ると父の本棚だけが父が元気な時のままだった。私は読めない数学の本を何度も手に取った。
そしてその本を開いたときの匂い、しおりの感触、紙の手触りにかつての父を感じた。そしてある時、私は気がついた。


本棚って、自分がデザインできるお墓じゃね?


その人が所有していた本棚の前で本を手に取り、実際に手にとって感触を確かめ、その人の匂いを感じ、その人を思う。これこそ墓ではないか。本棚も、墓も、その前でこそ、その人を感じることができる。そして自分の墓は自分でデザインできないが(する人もいそうだけど)本棚は自分でデザインできるやん。


本棚は自分がデザインできるお墓」理論に気がついてから、私は何よりも優先して本を買うようになった。そして「こんな本を買ったよ」と家族や友人に伝えることを心がけた。同時に定期的に本を整理し「いま自分が読みたい本」と「読みたいと思っていた本」をレイアウトしていった。「 #私の本棚 は私のお墓」のつもりで本棚をデザインするのだ。ぶっちゃけ今読まなくても構わない。大事なのは、読みたいなと思ったら買って手元に置くこと。そして「これは読まないな」と思う本は知人に定期的に寄付をすることだ。


本はその人の「体感したかった世界」。その人の脳内の世界構築に役目を果たしたのなら他の人の手元に行くべきだ。そう思う様になってから私は本は知識の伝達係と思うことにしてバンバン買って、バンバン人に上げる様にした。


人はある日突然いなくなる可能性がある。そのためにも本棚は常にアップデートされるべきだ。その人の記録として、そしてその人の忘れない記憶を残すために。


このコロナ禍、あらゆる情報が飛び交う。ワクチンについても考えさせられることが多い。現在流行のオミクロン株についてもよくわからない。重症者はほぼいないと言われてもでも死について考えたことがない人はいないはずだ。
まあこれはコロナに限った話ではない。人間というのはいきなり命を絶たれる可能性と常に隣り合わせに生きている。私自身も「死とは」と考えることが増えた。


もし、自分がいきなりこの世の中から連れ去られたら。残ったもので自分に近い人は自分を思い出してくれるだろうか。「あの人はどんなことを考えていたのか」「どんな世界が好きだったのか」思いを巡らせてくれるだろうか。



その思いを自分が残せるのが「本棚」ではないかと私は思うのだ。


本棚は1つに限定する必要はない。台所においてある「レシピ本」。ベッドサイドに置く「寝る前に読む本」。作業机の上に置いてある「思考をサポートする本」。それぞれの行為をサポートするための本棚がその人が住んでいた家の各所にあるはずだ。残された者が同じような所作を行う時に本がその人を思い出してくれたら最高ではないか。


もちろんその人の生き様を記録するものは本に限らない。使い込まれた器具、家具、よく食べていた食品、レシピ、よく見ていた映画、動画、一緒に聞いた音楽。。さまざまなものが挙げられる。ただここで重要なのは


「その人とのリアルな体験」


ではないか。別に直接接触的なリアル体験でなくていい。「こんな本を買ったよ、読んでこう思ったよ」というメッセージ、その本を見て作った料理を彷彿とさせるシミや匂い、そこから感じることがあればいい。


これを「本の申し送り」と名付けて私は今日も本を買う。他で贅沢してないし、旅行も移動でも外食もままならない世の中だから、本は買ってもいいよね。


本は買うべきだ。そしてできればリアルで。そしてそのリアルな本が自己の世界構築に役立ったら他の人に譲るなりしてその人の世界の構築に一役買ってもらうべきだ。なので、こちらの本はぜひリアルで買おうと思います😀。



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