見出し画像

それでも私が「学校実施の青少年の文化芸術の鑑賞の機会を無くしてはならない!」と叫び続けるたった一つの理由。そして作家さんのコメントに大感動したので追記。


出会う機会がないと、心揺さぶられないんですよ。そしてどんなに強烈な出会いでも、揺さぶるような人間性が伴っているとその出会いは新しい出会いに向かうと思うのです、


新潟での中学生の現代芸術破損の事件について。まだ書きたいことがあるので、続けます。noteをいくつか書いているのでこちらもぜひ。


多くの人に読んで頂けてとても嬉しいです。多くの人に読んで頂くと様々なご意見を拝見します。そこで気になる意見が2つあります。

「中学生に現代美術なんてわかんないから引率やめろ」

「破損の責任は子供と親が取れ」


この2点がとても気になります。
今回の事件に批判的な方は「青少年に美術鑑賞なんて意味ない」という思考の方が多いように見受けられます。この点に関して私は声を大にして言い続けたいことがあります。


「学校実施の青少年の文化芸術の鑑賞の機会を無くしてはいけません!!!」


それはなぜか。理由は明白です。「出会う機会がなければ心は揺さぶられないから」です。この点に関して持論を述べたいと思います。学校実施における青少年の文化芸術の鑑賞の機会の意義はこんな感じでしょうか。


1:様々な環境の子供に鑑賞の機会を設けることができる
2:好き嫌い以前の選択なので思いもよらぬ出会いがある
3:引率者が学校なので有事の責任が個人に向かわない


では、順番に語らせて頂きます。

1:多くの子供に鑑賞の機会を設けることができる

現在の日本の教育環境、多くの家庭で苦しい状況になっています。文化芸術に触れる余裕などないというのが現状です。経済的理由だけでなく、兄弟が多かったり、保護者が多忙であったり、色々な理由があります。その際、学校で文化芸術の鑑賞の機会があれば学校が授業ない時間に引率するので、多くの青少年が芸術に触れることができます。
触れることで、多くの気づきがあります。

機会がなければ心揺さぶられる体験はできません。なので様々な環境の青少年が芸術に触れる機会を学校で設けるというのは次世代を育てるために大きな意義があります。


2:好き嫌い以前の選択なので思いもよらぬ出会いがある

学校での鑑賞だと自分で選ぶことができません。歌舞伎が好きだから歌舞伎。。というわけには行かない。好きでもないものを見せられるという状況になります。正直、見るまではだるいです。しかし、その機会が思いもよらぬ出会いになることがあります。
私は文化芸術をとても観る方ですが、実は現代演劇はほぼ観ません。でも子供の時に学校の鑑賞でみた「NINAGAWAマクベス」はいまだによく覚えています。

(私が観たのは平幹二朗さんと栗原小巻さんのバージョンです😅)

就学時に見せさせられた文化芸術は案外みんなずっと覚えてるものです。人形浄瑠璃とかそりゃ忘れないだろうな。。っ思います。


3:引率者が学校なので有事の責任が個人に向かわない

今回の中学生の破損事故において「責任を負わせるべき」という意見がいくつか見受けられますが、今回の件、私は中学生個人に責任を問うのは極めて難しいと考えます。それは下記の理由からです。

1:全損した作品の展示スペースには監視カメラがなかった模様
→ 明確に誰が破損させたかを実証する証拠がない
→「中学生だから証言で実証可能では」という意見は危険、未成年の証言だけで実行犯を特定するのは極めて危険、同時に全損の実行犯が主犯とは限らない(いじめの可能性もあり)

2:全損した状況において大人(監視員やスタッフ、または教職員)が不在だった可能性が高い
→ 責任を問える成人がその場にいない、つまり「大人が不在であったことで全損の責任を問われる可能性」がある
→ 不在であった成人の責任の分担を明確にするのは非常に難しい、よって成人にも具体的責任は問えない

3:被害届は保険適用のための思われるのでその際の賠償請求は市町村同士で行うしかない
→ 1、2の状況を考えると、個人の責任追求は極めて難しいため


以上の3点から、今回の事件で「該当中学生に責任を負うことはできない」そして同時に「この事件をきっかけに青少年の鑑賞の機会を自粛してはならない」、つまり「学校実施の青少年の文化芸術の鑑賞の機会を無くしてはいけません!!!」と私は考えます。


追記:破損時の映像があってもそれをどう判断するかは別問題です。こちらは香港の玩具店で高価なオブジェを子供が破損して親が責任を取らされた→故意ではないと映像で判断され返金という事件。まあ高価なオブジェを子供が触れる状況で置くのもどうなのって気もしますが。。。破損が故意であるかどうかっていう判断は本当に難しいってことです。



同時にもう1点。この事件において私が声高らかに言いたいことがあります。それは

「事件発生後、社会的追及を受けているのは既に当該者だけはない」

→ 学校名を報道してるメディアが既にあります(ここではシェアしません)、同時にこれだけ報道が大きくなってるので当該生徒だけなく当該の中学校、または新潟市の中学校、そして中学生そのものが「鑑賞における危険対象」と認識され排除を促される可能性が予測されます。



2022年の夏は日本でも多くの芸術祭やイベントがあります。そのイベントにおいて「事故の影響で青少年の鑑賞を自粛」の空気が強まると、自粛しましょうという決定が大人だけで行われる可能性があります。これはなんとしてでも避けたいですが、でもこのような自粛マインドは、日本人社会の場合、一度転げだすと止まりません。。


文化芸術を心から愛してる、文化芸術の体験を心から楽しんでる一個人として危惧してしてるのはこの積極的自粛です。特に日本は「何かあったらどうすんだ症候群」が強いです。学生が集団で見にきたら破損があったらどうすんだ!ということでじゃあ集団での鑑賞の受付を止めよう、という動きが起こる可能性があります。

今回の破損の事件はとても悲しいものです。ただ、そこで取り間違えてはいけないのは「破損がいけない!だから個人に責任を取らせろ!そして自粛だ!」という方向のみの選択です。「破損事故を防ぐ」と「破損が起きないような事態を事前に構築する」は全く別のアプローチです。そこに「責任をとらせる」を噛ませると、「責任の明確化」が必須になります。その明確する環境を作るのは容易なことではありません。「破損事故を防ぐ」ための人員配置の増員や入場管理、または表示の徹底などの方が具体的に実行ができます。

「何かあったらどうすんだ症候群」は「何かあった時に責任を取らせろ、責任が明確にできないのなら行う前にやめちまえ症候群」になります。
その「行う前にやめちまえ症候群」は強者が弱者に強制しやすいスタイルです。このコロナ禍での「大人は子供だけの機会を奪う」はまさにそれだと思うのです。子供の修学旅行は中止なのにGo to政策。大人はワクチン売ってるので仕事に行けるけど子供はワクチンが打てなかった時期はオンライン授業。もちろん、医学的には仕方のないことだった、というのは理解できます。でも、でも、なんで大人だけ?って思う憤り。これを全く無視するのはどうかと思うのです。その憤りを認め、寄り添っていない大人があまりにも多いと思うのです。


何度も書きます。今回の事件はとても悲しい事件です。そして芸術作品の破損はあってはならないことです。もちろん芸術作品に限ったことではなく、青少年の行き過ぎた行動で破損はあってはなりません。
同時に「青少年の行動を先回りして「何かあったら困るからやらせないでおこう」」と大人が機会を奪うことはなんとしてでも避けなくてはいけません。「起ったら困る何か」は別に青少年だけが起こすわけではありません。


2022年の夏を良い思い出深い夏にするために、道を間違えずに進んでいきましょう。


追記:6月9日付で作家のクワクボさんからのコメントが出ました。


消えちゃうかもしれないので、PDFをアーカイブ。これ、何度読んでも泣ける。

「生徒たちの内なる不満や怒りや欲望」について寄り添うコメントがあることにマジで泣けました。クワクボさんは彼らの「憤り」に寄り添うべきという私の主張と同じ方向を向いて下さっている!と感じました。どうしよう、マジで惚れてしまう。


良い夏休みを迎えましょう!