チームラボプラネッツに世界中から人が集う理由を考察してみた
どうしてチームラボに人が集うか、それは「愛される他人でいられる美術体験ができる」から。
チームラボさんがなんとギネス記録を獲得したそうです。
以下、プレスリリース引用します。
本当におめでとうございます。
表彰式に参加させて頂きました。
「Floating Flower Garden_にてギネスワールドレコーズ公式認定から代表の猪子寿之さんへ公式認定書の授与が行われました。
チームラボプラネッツのこの250万4,264人という集客。これはインバウンド観光の盛り上がりは大きな要因ではあります。私も長年東南アジアに在住していたので東南アジアでのチームラボ人気は実感できます。
しかし、この250万4,264人という数字は外国からのお客様だけで構築できる数字ではありません。つまり、日本国内のお客様も多くの方がチームラボプラネッツを訪れていることになります。
この数字を美術館、博物館の入場者ランキングと比較してみます。
2023年の動員数第一位は、国立新美術館の「ルーヴル美術館展 愛を描く」。こちらは91日で45万531人となっています。単純に年計算と仮定したら180万7075人。チームラボプラネッツの250万4,264人の凄さを感じて頂けると思います。
ちなみに私、チームラボさんの作品鑑賞は長く、そして東京、シンガポール、クアラルンプール、ジャカルタ、ドイツなど広範囲に飛んでおります。中の人じゃなくて、これほど広範囲の人はいないのでは?と自負しております。
(下記部分は「チームラボ、クアラルンプールの「ららぽーとBBCC」屋上庭園を、アート空間に。「チームラボ 呼応する小宇宙」を一足お先に体験してきました。」の一部を引用加筆しています。)
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私がチームラボの作品を初めて拝見したのは2013年まで遡ることができます。
最初の印象は「ああ綺麗だなあ」というものでしたが、彼らの表現とアートとテクノロジーは常に進化し、表現に都市論が加わります。それは一文でまとめるとこんな感じでは?と私は解釈しています。それは
本来、美術の展示というのは人が多い中での鑑賞には苦痛が伴います。多くの人の中での美術鑑賞において「人が多い、邪魔!」という感情はなかなか避けられません。もっと踏み込めば「人がいない方がもっと気軽に見れるのに」と感じてしまう。しかし、チームラボの作品は違います。自分以外の「人」が存在する場合としない場合の作品が全く違うのです。
私たちはチームラボさんの数々の作品を拝見させて頂いていますが、チームラボの作品を本格的に取材させて頂いたのはシンガポール国立博物館の「Story of the forest」。こちらの作品は螺旋状のスロープを降りながら作品の変化を楽しむのですが、そこに人がどのくらい存在しているかで作品の表情が全く変わっていきます。
個人的にミッションコンプリートもしました。
そうは言っても、やっぱり人が少ない方がいいんじゃない?と思う方もいらっしゃると思います。私は明確に「違う」と断言します。なぜ断言できるのか。それは私は「人がいないチームラボ作品」をコロナ禍で体験しているからです。
それは2020年2月のシンガポール。まだコロナがここまで長く続くなんて誰も想像していなかった頃。シンガポールの、マリーナベイサンズ横の植物園でチームラボの展示「#futuretogether」が展開されていました。
当時既にマレーシアに住んでいた私たち。息子のトライアスロンの試合でシンガポールによく出向いていました。今回も試合の合間にチームラボの新作を見に行きました。屋外展示は賑わっていましたが、隣接した建物での展示は追加料金が必要であったことともあり、人の出入りは少なそう。でも誰もいないってことはなかろうと思い、チケットを買って入ってみましたら。。
誰もいない。
花と共に生きる動物たち II / Animals of Flowers, Symbiotic Lives IIでは特別な体験もしました。
こちらの展示、壁を触る、または壁の前に立つことで人を認識し、そこで映像が変化していきます。つまりそこに人がいないと「変化がない」のです。
アクションがないと動かない作品は、鑑賞している側も存在感が消えるような感覚に陥ります。それはまるで宇宙に放り投げられたような感覚です。誰もいない、誰にも触れないという感覚は「自分の存在も薄くする」。自分が存在しなくなる?そんな感覚に陥ります。
この感覚をダイレクトに体験したことにより、私は「人の存在が自分の生きてる世界にいかに影響があるか」を思い知らされました。
そして「他人の存在が自分の生きてる世界にいかに影響があるか」を更に私は「COVID-19」に思い知らされます。「COVOD-19」は人との接触の制限により感染拡大を防ぐ「隔離」という手段が主対策の1つとして設けられました。この「人との接触を防ぐ」と言うのは本当に不思議なことで「人との接触をしなくてはいけないけどしたくない」時には負担以外の何者でもなかった人との接触が、いざ「接触禁止、つまり隔離」になると人の心理の根本を攻撃してくるんですよね。
この時の体験から私は「人が生きるとき、他人が存在する意義」について考えることが増えました。私が生きているとき、家族や友人や知り合いではない「赤の他人」との関係性。この「自分が生きている中に他人の存在がある」ことにより比として生きてる感を感じる。この感覚は「人の存在を隔離される」ことで初めてわかる感覚でした。
赤の他人の存在そのものに幸福感を感じる空間。これはとても平和的な空間になります。まさにコミュニティの理想。
家族でもなく、知人でもなく、他人の存在そのものを意識し、そして他人の存在に感謝する。双方が他人に感謝する気持ちを持てば、都市はもっと幸せになれる。チームラボ作品はこのようなに感覚で美術体験ができる、とても特別な美術体験なのです。
ー以下一部加筆および引用終了ーーー
この「美術体験において自分の知らない人の存在そのものに感謝する」という感覚は日本の美術館では得ることが非常に難しいのが現状です。
日本では(ちなみに日本に限ったことではありませんが)家族連れ、子供連れの外出においての所作について定期的に議論が巻き起こります。美術館、美術鑑賞においてもこの議論は活発に行われています。
こちらのアンケートをあらためて読むと「日本での子供を連れた美術鑑賞が非常に難しいことがお分かり頂けると思います。(2つ目の記事はアンケートを踏まえた私の見解です)。
しかしこの「美術館賞において他人が気になりすぎ問題」。これは子供連れに限った話ではありません。SNS上で「靴音がうるさかった」「他人の声がうるさかった」という声も定期的に上がりますし、そのような感想をただ自分のアカウントに書いた人が袋叩きにあうような状況にも遭遇しました。
チームラボ作品での他人の存在とはどうでしょう。チームラボ作品では他人の存在は作品を活性化させるエンジンになります。なので歓迎される存在です。楽しい声をあげたりすることも大賛成。動いたりすることも、作品によっては登ったり走ったり触ったりすることも歓迎されます。つまり「チームラボ作品では日本での美術鑑賞において「これはやっちゃいけない」と言われる行為がほぼ肯定される」のです。
そりゃ来ますよね。集まりますよね。
猪子さんは記者発表での質疑応答で「なぜこんなに人が集まると思いますか?」という質問に「わかんないです😅」と猪子節で答えていましたが、俺にはわかる。
日本でチームラボ作品に人が集まる理由は「チームラボ作品なら他人に怒られることなく安心して芸術を楽しめるから」。
日本の他の美術館も「他人に怒られることなく安心して芸術を楽しめる環境」とは何か。これを考えてみる時が来たのかもしれません。