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そこは未来のアーティストたちが起きたら視線の低い鑑賞者は見えなくなった部屋となっていたーなぜ国立西美常設展の作品展示位置が元に戻ったことで私はこんなに落ち込んだのかー

声が小さかった私たちは、再び透明になっていました。
以前ならそんなものだと諦めていたけど、もう諦めたくないから、あたしゃ、書く。私たちの存在を透明にしないで。

知人から「国立西洋美術館の常設展の展示、元に戻ってた」と聞き、私は愕然となった。これだけ書くと「なんのことでしょう」的なので簡単に経緯を説明したい。

2024年3月に国立西洋美術館で「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」 という西洋美術館の作品と現代作家との融合させるという実験的な展覧会があった。

この展覧会は最初に大きなパフォーマンスがあったけどパフォーマンスの話題が先に走り内容がわかりにくかった。
そこで私は自分で観に行って感想を書いた。

同時に子供連れで美術館にずっと通っていた私は田中功起さんの作品「美術館へのプロポーザル1:作品を展示する位置を車椅子/子ども目線にする」に対してある強い感情を感じたので、それも書いた。


この作品の提案において、いくつかの常設展の展示作品の位置が低くなっていた。

このnoteで私は「私たち(子供と一緒に美術鑑賞をしたい、だからこういう対策をしてきたという)の努力や活動は本当に透明だったのは悔しいけど大きな声の人の意見が小さな声しか出せない人の意見を代わりに言ってくれるくれることには感謝したい。この提案がきっかけで美術鑑賞のスタイルに多様性が生まれるならこんな嬉しいことはない」と結んでいる。なので私は「今後西洋美術館は常設展においてはいくつかの作品を視線の低い人が見やすい位置に展示を続けてくれるのだろう、低い位置に設置することで「色々な立場の人を見ていますよ」という姿勢を表明してくれるのだろう、と思い込んでいた。

配置を低くする展示作品が減少したり変更したりすることはあるだろう、でもいくつかの展示を低くする、ということは今後も続くだろう。この一歩から視線が低い人も美術館に来てるんだ、という認識が来館者すべてに広まり、来館者それぞれの意識がより広まるだろう。ええことやん。西美、あまり行ってなかったけど、また行こう。

と、思っていたのに。
それなのに、え、全部元に戻したってマジ?


自分の目で確かめるために5月25日、上野にやってきた。


国立西洋美術館に常設展のみの時に来館する時が来るとは自分でも予想していなかった。ちょっとドキドキしながら、以前すぐ買ったけど友人に譲ってしまったカタログを再度購入して、常設展に入った。


確かにすべて戻っていた。
そこに、「視線の低い人」の存在は見えていない。透明になっていた。常設展すべての場所を回ってみた。展示の位置が低くなった展示作品はどこにもなかった。


あまりに納得できないので、思わずインフォメーションに聴きに行った。

私「以前展示位置を低くしてベビーカーや車椅子の人も見やすい配置を行っていたと思うのですが、もうそれは行わないのでしょうか」
係の方「はい、あれは企画展での実施でしたので企画展と共に終了しました」
私「企画展が終わっても視線の低い人は美術館に来訪しますよね。でも企画展が終わったので終了なのですか」
係の人「申し訳ありません。企画展は終了したので」


これ以上ここで食い下がってもどうにもならないのはわかるし、明らかに係の人に申し訳ないのでここで会話は終了した。
なんだかとても気持ちが呆然としたので上野まで来たけどすぐ帰宅してしまった。


どうして私はこんなにショックを受けてるのだろう。それは私が「常設展の展示作品の配置を下げる」という対策は今すぐ出来てそして継続しやすい「来館者のマイノリティに対する対策」のはずだからこれは継続してくれるだろう」と思い込んでいたからだ。

私自身は美術館は大好きで本当に長く通っているけど内部の人では無いのであくまでも推測することしかできない。元に戻った理由を考えてみる。

1:「常設展の運営管理」と「企画展の運営管理」の関係性
2:展示の高さを変えることでの保険料の変動
3:展示の高さをを戻すまでがインストーラーとの契約

縦割りの関係、高騰する保険料、業務提携上の約束。
それぞれ多くの「決まり」があると思う、国立だから尚更。その点は1つの企画展のうちの1人の作家の提案で簡単に変更はできないのかもしれない。

でも、でも、あの時あれだけの大きな声を作品として美術館側が認めたのなら、せめて一番金銭的に実現を継続しやすかったと思われる「常設展の作品をいくつか低い配置で展示する」は継続してほしかった。1枚でもいいからそうしてほしかった。「作品の展示位置を下げる」という手法はベビーカーや車椅子を使う人のための超基本的な手法であり、多くの美術館博物館で何十年も前から行われてきた手法。一番続けやすい方法を継続してくれたら「ああ、私たちの存在はちゃんと美術館で見えてる、私たちは透明じゃない」と思うことができた。なのに企画展の企画だから終了したらおしまいってなんかまるで企画の一部としてしか見られてなかったんだ。企画展が終わったら美術館側からは視線の低い人は見えてなくていい、って思われてるんだと感じてしまった。

今回元に戻ってしまったことに私は強い危機感を抱いている。確かに国立西洋美術館は上野の美術館界隈の中では一番子供連れは訪れる機会が少ないと思う(私もそうだったし)。同時に、高齢の方は西洋美術お好きな方はいるはず。その中に車椅子を利用している方だっていたはずだ。そういう方は、また見えなくなってしまった。
「展示の位置が見やすくなって良かった」という意見が少なかったのかもしれない。(展示の位置を戻してほしいという投書の方が多かったのかもしれない。)確かに私も投書はしていない。でもね、言い訳なんだけどね、ベビーカーや車椅子で美術館に来て「アンケート用紙をその場で書く」って相当大変よ。余裕が相当ないと出来ないよ。

今後、もっと声をあげていかないと、声を1度あげただけではすぐ消えてしまうんだ、というのを実感する出来事であった。
現在子育てが終わったからこそ、子育て中の人が美術館に行きやすいように(ここではあえて車椅子ユーザーも混在して書いてしまったけど)自分が出来る声をあげていきたいと、改めて思った。