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私の小さな旅
ヨロモタひとり旅  大分編


 ヨロヨロ モタモタしながら、ひとりで大分を旅してきました。大分県は、海を挟んでお隣の県でもあることから、今までに何度も訪れています。
 でも、行くところは別府周辺ばかりで、大分=別府温泉というイメージでした。今回は、大分県でも北のエリアにある、中津、宇佐、豊後高田を旅します。この地域への旅を思い立ったのには、理由がふたつあります。
 ひとつは、以前から、「青の洞門」を訪れてみたかったこと。小学校の教科書で習った話が、ずっと頭に残っていて、いつか行ってみたいと思っていました。江戸時代の話だったと思う、街道の途中に、子供たちが、命を落とすような危険な崖っぷちがあったそうです。旅のお坊さんが、これを憂いて、自分が安全な道を作ろうと思い立ちました。何年もかけて、一人でコツコツと掘り進め、最後には洞窟のトンネルが開通し、皆が安全に通行できるようになりました。この手彫りのトンネルを「青の洞門」と呼んでいます。
 このような、あらすじだったと思う。
 ふと、思い立って調べてみると、この場所は、大分県の中津市だったのです。話のもととなった小説も読んでみました。菊池寛 著「恩讐の彼方に」という小説です。これを読んで、訪れたい気持ちが、より深まりました。
 もう一つのきっかけは、奈良時代の歴史を勉強していて、宇佐神宮の話が何回も出てきたことです。調べてみると、これも大分県宇佐市で、中津市のお隣でした。また、中津市や宇佐市のホームページで詳細に調べてみると、興味深い場所がたくさん見つかり、私の重くない腰が上がったということなのです。
 このような訳で、今回の旅の行先と目的が決まった次第です。
 年と共に、ヨロヨロ モタモタしている自分に不安や転倒のリスクを感じながらも、旅の感動を求めて、またまた、ひとり旅に出かけます。
 今回は、船中2泊、ホテル3泊での大分の旅です。

1日目

 松山から小倉までフェリーーで移動。
 夜 9時55分 松山観光港を出港し、翌朝5時に小倉港に入港。

 この松山-小倉航路は、歴史ある航路です。 1969年、私が小学6年生の夏休み、ひとりで小倉の叔母夫婦の所に遊びに行った時に乗った記憶が最初です。
 その後、
1973年 関西汽船が阪神 - 四国 - 小倉の旅客船航路から松山 - 小倉航路を分離。
2013年石崎汽船が、松山~小倉航路を引き継ぎ、現在に至っています。
 石崎汽船は、同航路の重要性、必要性、利用者からの強い航路存続への訴えに対応するため、航路を引き継いだとのことです。

 私は、小学生、高校生の時、ひとりで乗って旅をしましたが、その時は、二等客室は、ほぼ満員でした。夜、松山港を出港し、早朝、小倉港に入港する、今と同じパターンでしたが、現在は、利用者数が大きく減少しています。
 どこかの政党が政権交代し、高速道路を無料化してから特に、利用者が少なくなり、大阪、神戸、別府等を結ぶ航路が無くなってしまったように思います。車での移動は便利でいいのですが、船でのゆったりした旅もいいものです。近年、人手不足の対策として、トラック輸送の際、フェリーを利用することを計画している運送会社も出てきたと聞いています。
 是非、フェリー航路を以前のように充実させて欲しいものです。
 石崎汽船の努力に感謝です。

 とはいえ、フェリーは、老朽船なので、最近の新造船と比較すると、あまり乗り心地は良くありません。でも、内装はリニューアルされていて、きれいです。特に1等客室は、以前は、4人部屋で、二段ベッドが、二つ室内に設置しているタイプでした。ですから、夫婦で入室しても、最悪、知らない人たちと同室になる可能性がありました。これが、リニューアル後は、綺麗な、ふたり部屋になったので、是非、私も利用してみたいなと楽しみにしています。
。より多くの方がフェリーを利用し、快適な船旅を楽しめるようになってほしいなと願っています。
 
 私は、ひとり旅の時は、2等寝台を利用しています。タラップを渡り、船内に入って、階段で、客室デッキに上がります。2等寝台のデッキでは、左右2つの廊下が、船尾-船首方向に伸びています。それぞれの廊下と船の外側との間に客室があります。廊下と廊下の間には、トイレや浴室が設けられています。
 廊下を通り、指定された番号の客室のドアを開けると、通路が船窓に向かってあり、その両側に上下二段にベッドが2台づつ配置されており、定員は、1部屋 計8名です。上の段のベッドには、梯子段で上ります。
 それぞれのベッドに入ると、寝る準備をします。マットレスの上に、用意されたシーツを敷き、掛布団にもシーツを掛けます。空間では、体を起こして着替えをするのに、十分な高さが確保されています。足元上部には、棚があり、荷物を置くことができます。枕元には、蛍光灯とコンセントがあり、スマホ等を充電することが可能です。準備ができたら、各スペースを仕切っているカーテンを閉じ、個室空間にします。これで、準備OK! 後は、明日のことを考えて、爆睡しましょう。

 早朝、5時に小倉港 着。6時半まで船内休憩し、JR小倉駅から、日豊本線 普通列車で1
時間。8時過ぎ、JR中津駅に到着。
 南口から、駅の外に出て、JR中津駅を振り返ります。こうして、旅先で、初めて訪れた町の駅舎を見るのも、旅の楽しみのひとつです。
 JR中津駅で印象的なのは、駅名と、その下部の赤のストライプです。
「中津駅 NAKATSU STATION 」と、鮮やかな赤い文字、そしてその下に左右に伸びる赤いストライプ。
「ほう~っ!」と心の中で、声がでます。」
 
 早速、「青の洞門」行きのバス乗り場を確認。30分程待ち、バスに乗り込みます。市街地を抜け、川沿いに進みます。「青の洞門」は、思ったより近くにあり、約25分程度で着きました。
 洞門に入る前に、「青の洞門」について、整理しておきましょう。

 
「青の洞門」
中津耶馬渓観光協会ホームページより引用
https://nakatsuyaba.com/

 江戸時代、荒瀬井堰が造られたことによって山国川の水がせき止められ、樋田・青地区では川の水位が上がりました。そのため通行人は競秀峰の高い岩壁に作られ鉄の鎖を命綱にした大変危険な道を通っていました。
 諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始めました。
 禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させました。
 寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われています。
 青の洞門は、明治39年から翌40年にかけて行われた大改修で、完成当初の原型はかなり失われてしまいました。
 現在の青の洞門には、トンネル内の一部や明かり採り窓などに、当時の面影を残す手掘り部分が残っています。
(引用、終わり)

 バス停は、洞門のすぐ手前にあります。川と険しい山肌の間を、車道が、洞門の方に向かって続いています。洞門に向かって、右は崖で下方に川が流れています。左側には、すぐ山が迫ってきていて、見上げると急峻な崖が見渡せます。奇岩群が連なり、耶馬渓を代表する難所、「競秀峰」です。
 今でも江戸時代の旅人が歩いた、この「競秀峰」を通る道がのこされており、そこを目指す登山者も多いようです。その日も、駐車場に車を置き、登山道を登って行った数組の登山者を見かけました。
 実は、私も山が好きなので、この「競秀峰」に登ってみたいなと思い、計画していたのですが、登山動画を見て、そのあまりの恐ろしさに断念してしまいました。興味のある方は、YouTube で見てみてください。ヨロモタの私は絶対無理ですよね。君子危うきに近寄らず。

 「青の洞門」は、車の通るトンネルの横、川のある側に掘られていました。当時の手彫りの跡が残っているのは、明り取りの場所や、川の上流側の一部でしたが、ノミで掘った跡に指を這わせ、当時の禅海和尚が岩を刻んでいる様子を思い浮かべ、感動しました。
 よくぞ、この固い岩盤を手で掘ろうと思い立ったものだと思う。川の上流の洞門出口付近は、当時の洞窟内部の様子が残っていて、江戸時代の人々が、薄暗い洞窟の中を後ろから、歩いて来ているような気配をかんじました。
 洞窟を抜けると、広い駐車場があり、そこには、善海和尚の銅像や、菊池寛のモニュメントが設置されています。
 菊池寛は、文藝春秋、芥川賞、直木賞などを設立したことで有名ですが、短編小説「恩讐の彼方に」は、この善海和尚をモデルとしています。

この「青の洞門」を訪れる前には、是非
菊池寛 著
小説「恩讐の彼方に」
をお読みいただきたいと思います。

 駐車場の下には、気持ちのいい河原があり、その河原に座って、しばらく「競秀峰」の奇岩連なる岸壁を眺めていました。
 単眼鏡で、目の前に聳える垂直の岸壁を観察していると、上部に、横に連なる岩の境目が見えます。よく見ると、それは、岩をくり抜いた道でした。岸壁をカタカナの「コの字型」にくり抜き、そこを人が通るようになっています。柵も手すりもありません。脚を滑らせたら、そのまま垂直の崖から転落し、おそらく命はないでしょう。
「これだな、恐怖のルートは。」
私は、背が高いので、中腰でここを歩かなければ無理そうです。改めて恐怖が背中を走りました。
「クワバラ クワバラ」
「行かなくて正解やったな。行ったら死んでたわ。」

 河原の大きな石に腰を下ろし、クッキーを食べながら、川のせせらぎの、爽やかな音色に耳を傾けます。周囲の木々は、紅葉に美しく色づき、いつまでも、この場所にいたいなと思いました。
 ここから、さらに奥に行くと、「耶馬渓」です。今回、旅の計画を立てている時に、、是非、「耶馬渓」を歩きたいと考えていたのですが、残念ながら、公共の交通機関が、ほとんどなく断念しました。
 コミュニティバスは、運行しているのですが、極端に便数が少なかったのです。(う~ん、残念。車がなくても行けるように公共の交通機関を整備していただけるとありがたいですね。)

 チョコクッキーで空腹を慰めた後、バスで中津駅に戻ります。

 さて、ここから歩いて巡ります。いつものように、iPhone を取り出し、アプリの Geographica と Google Map を起動します。Geographica は、二万五千分の一の地形図上に歩いた軌跡を記録してくれるアプリです。
もし、道に迷っても、どのように迷っているのか一目瞭然です。また、音声で、時間、歩行速度、歩行距離、標高などを知らせてくれるので重宝しています。これに、Google map が加わると鬼に金棒となる訳です。

 中津駅北口を出て、すぐ左からアーケード街が続いています。道幅は細く、やや暗いアーケードを歩きます。
 話は、変わりますが、各地のアーケード街を歩いていて、いつも感じることですが、元気がないなと寂しく思います。私は、地方の特色がある、これらのアーケード街を歩くのが大好きなのですが、シャッターが下りている店が多いので、とても残念です。
 大手のショッピングモールは、繁盛していて、人やお店も多く、活気があっていいのですが、どこの地方に行っても同じで、わざわざ行ってみようとは思いません。
 街はずれの広大な敷地に、駐車場と巨大なショッピングモール。
 できれば、高松のアーケード街のように、大手企業と古くからの商店が両立するような、それぞれの地域の特色を生かした、街の計画が増えてくることを願っています。

 さて、話を戻しましょう。
 アーケード街を最後まで歩き、北方向に伸びる大きな道を進むと、中津城が見えてきます。中津駅から、約1.5kmですから、歩いて17分くらいです。近いですね。 

 中津城は、黒田官兵衛によって築かれた城で、日本三大水城のひとつです。(他の二つは、今治城と高松城)
 中津川に沿って城を建設しており、川から直接、堀を引き込んでいました。河口近くなので、海水が掘りに入ってくるようです。
 当時、築かれた石垣部分は、石垣としては、九州の城では最も古いものです。
 江戸時代、奥平昌成が中津藩主となり、明治維新まで続きました。
 現在の模擬天守閣は、昭和39年に市民らの寄付で鉄筋コンクリートの奥平家歴史資料館として建築されたものです。
 奥平家歴史資料館には、徳川家康から拝領した「白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)」や「長篠の戦い」で使用された法螺貝などが展示されていました。
 中津城というと、黒田官兵衛が、関ヶ原の戦いの最中、座敷に、ありったけのお金を山済みにして、洋平募集し、自ら賃金を手渡した話が有名ですが、模擬天守閣の資料館には、奥平家の資料のみで、黒田官兵衛に関する展示はありませんでした。
 不思議に思いながら、天守閣の外に出ると、敷地内に、小さな展示室があり、NHK大河どらマ「黒田官兵衛」などの資料が展示しています
  模擬天守閣を建築する際、旧藩主である奥平家の援助があったとのこと、また、この中津城は、全国の城で唯一株式会社の所有、運営であることなど、珍しいお城でした。
 天守閣最上階からの、見晴らしは素晴らしく、河口に位置しているため中津市内だけでなく、海まで見渡せる絶景でした。

「村上医家史料館」

 中津城を見学した後、来る途中にあった「村上医家資料館」に向かいます。
 中津駅から中津城まで歩いている途中に、村上医家資料館がありました。外観は、江戸時代の商家という感じで、現在の医院とはまったく異なる様相です。中に入ると、商家の和室に所せましと展示ケースが置かれています。
受付には 係りの男性が2名おられ、説明をしてくださいました。

 村上医家は、1640年に初代の宗伯が医院を開き、以来、中津藩の御典医を務めた家です。
 江戸時代に建てられた屋敷を利用し、さまざまな医学関連資料が展示されています。
 中津藩は、前野良沢や福澤諭吉を生み出したことでも知られています。村上医家史料館では、医家の史料及び人体解剖に至るまでの医学の流れを展示しています。
 村上玄水は、1819年に中津藩の許可を得て、九州で初めて人体解剖を実施したとのこと。
 驚いたことに、現在に至るまで医家として継続し、村上記念病院として、この近くで病院を開業されているとのことでした。

 江戸時代に実際に使われていた、医院を見学するのは初めてです。医療と和室という、なんとも不思議な環境を目の前にして、どのように患者さんが来院し、何処が待合室で、どのように治療していたのか、創造を巡らせます。
 また、 医院に入ってすぐ奥の部屋のふすまに古い書が表装されていました。係りの方が、
「これは、頼山陽の書です。」
と説明され、
「えっ!こんなところに...いいんですか?」
複製でもない、正真正銘の本物の頼山陽が書いた「書」が、普通に部屋と部屋を仕切っているふすまに貼られているのです。誰でもすぐに触れる環境で、頼山陽の書を見たのは初めてでした。目が点になりました。
「すごい!」

(もちろん、触れたりはしてませんよ。)
次に、上の方を指さして、
「あれは、錦の御旗です。中津藩が、戊辰戦争の時に使ったものです。」
「え~っ! こんなところに、普通に置いていていいんですか?」
 本物の「錦の御旗」を見たのは、東京の靖国神社の宝物館である「遊就館」で、手の届かないところに厳重に展示されていました。
 手を伸ばせば触れることができるところで見たのは初めてです。感動のため息がもれました。
恐るべし、村上医家史料館。

 その他にも、江戸時代に使用されていた、外科治療器具や種痘に使用していた機器などが、数多く展示されていました。
 それぞれの器具が、何という名称で、どのような目的に使われていたのか、詳細な解説とともに展示されていたら、最高にうれしいのだがなと思った次第です。(医療関係者以外は、あまり興味ないかもしれませんね。)

 貴重な資料を目にし、思わず長時間滞在してしまいました。見学者は、私一人でしたので、係りの方が、付きっきりで熱心に説明してくれました。私も、職業柄、医学史
には興味があったので、前野良沢についても、いろいろ質問させていただきました。
 すると、なんということでしょう。、「解体新書」の本物があるとのこと。
この史料館ではなく、1kmほど北にある「大江医家史料館」に本物の「解体新書」を展示しているとのことです。
「これは、絶対行かんといかんな!」
と決意する私でした。
 係りの方と意気投合して、長話をしてしまいました。こういった史料館では、ついつい話が盛り上がって、長居をしてしまうことが度々あります。家内が横にいる時は、あきれられることが多いのですが、今日は一人なのでセーフです。

 外に出ると、すでに薄暗くなっていました。
「これはいかん! ぼちぼちホテルに行かねば。」
 アーケードを通って、中津駅み戻ります。今回も宿泊は、「東横イン 中津駅前」。
中津駅を出て、すぐ右にあります。
 なんと、その途中にスーパーがあるのです。やはり、東横インは、いいところに建てているなと感心。
 私は、コンビニではなく、ご当地のスーパーで買い物をします。ご当地ならではの、メーカーのものや、この地方にしかない食材に巡り合うことがあるからです。
スーパーで、いつもの食材を購入し、ホテルに向います
 今日は、感動の旅の幕開けでした。明日に備えて、超早寝します。

2日目

 今日は、宇佐市まで足を延ばしましょう。宇佐市は、中津市より、ひとつ別府寄りにあります。普通列車で30分弱と近いですね。朝、8時前発の電車に乗るために、中津駅のホームで待っていると、
「ん? あれは?」
 ホームの外柵にある看板に目が止まります。
「豊前海おさかな料理研究会」
「中津名物 はも料理 ○○亭」
「そうか、そうだった!! 中津は、はも料理が名物だった。」
 いたるところに「はも」の字がありました。とはいっても、私は、そんなに「はも」は好きではありません。出されれば食べる程度なのでした。それに、割烹や居酒屋にひとりで入るのは苦手なので、今回は失礼することとなりました。太田和彦さんのように、ひとりで、ふらっと居酒屋に入って、かっこよくメニューを眺めながら、
「ぼ、ぼくにジントニックをください。」と、
お店の人と会話ができるといいのですが、私の場合は、ひとりだと手持無沙汰で、なんとも心細くなってしまうのです。

 JR日豊本線 普通電車に乗って宇佐駅に向かいます。26分で宇佐駅到着。宇佐駅を出て、いつものように振り返って駅舎を見ます。
「ほおぅ~っ、やはり、そうきたか。」
 宇佐駅の駅舎には、縦横に赤いレプリカの柱が配置されており、宇佐神宮のイメージを演出しています。地方の特色を生かした装飾を見るのも、旅の楽しみの一つです。

 さて、ここからは少し歩き旅です。
 宇佐神宮まで4.2km。バスもありますが、途中、見たいところがあるので歩くことにします。
 JR宇佐駅前の道路を西方向に進む。交通量は多いですが、歩道があるので安心してあるけます。
 歩き旅で、一番困るのが、交通量が多いのに、歩道のない道です。特に、トラックなどの大型車とすれ違うときは、ヒヤッとします。トンネルが見えてきたら最悪です。幸い、ここでは風景を楽しみながら歩くことができました。
 約20分ほど歩くと、それらしき説明板が見えてきました。

「和気清麻呂 船つなぎ岩」

(以下、「北馬城地区まちづくり協議会説明板」より引用)

 奈良時代、弓削道鏡は、孝謙天皇の寵愛を受け、権力を欲しいままに、しばしば政治に介入していた。そのうち皇位を狙い、「道鏡を皇位に就けたならば、この国は安泰である。」とする託宣が、宇佐八幡大神よりあったと、偽りの奏上をした。
 当時の宇佐八幡神は、「隼人の乱」「東大寺大仏建立」「藤原広嗣の乱」など、天皇家や国家を守る神として大変崇敬されていた。
 宇佐神宮を、深くご崇拝になっておられた天皇は、道鏡を皇位につけるべきか否か、宇佐神宮からお告げを聞くため、勅使として和気清麻呂(わけの きよまろ)を宇佐神宮に派遣した。清麻呂は、八幡神に真意をお示しになるよう祈ったところ、「我が国では、始めから天皇と家臣の関係は決まっていて、家臣が天皇になったことは一度もない。無道の者は早く除け。」という託宣があった。 清麻呂は、それを持ち帰って報告したので、道鏡は、やがて下野国(栃木県)薬師寺に流され、事件は終わる。
 和気清麻呂が、真意を確かめるため宇佐に派遣された際、船を繋いだとされる「船繋ぎ岩」である。
(引用、終わり)

 当時は、この付近まで海だったらしく、宇佐神宮に参拝する際は、ここまで船で来ていたようです。(宇佐の平野は、干拓で出来た土地なんですね)
 また、約2500年前、神武天皇東征の際、船を着けた場所だとも伝えられています。

 「船繋ぎ岩」は、高さ1mくらいの苔むした丸い石柱でした。上記の案内板と共に公園として整備されていました。

目を閉じて
潮騒の音
清麻呂が
船の軋みに
手をそえる

 遥か昔、孝謙天皇が、道鏡の手練手管により利用され、国を危うくする寸前、和気清麻呂の、勇気ある行動により、危機を回避したのでした。清麻呂は、道鏡の意に添わぬ託宣を持ち帰って公表すれば、自分の身が危ういことも顧みず、正しい託宣を報告しました。間違ったことを許さない、誠実な心をもった清麻呂らしい行動だと感じました。
 和気清麻呂は、現在の岡山県和気町の出身で、桓武天皇の信任を得て、近畿地方の治水事業や、美作・備前の安定と発展に努めました。
 常に誠実に業務をこなし、平安遷都は彼の立案であったことなどは有名です。

「宇佐神宮」

 和気の清麻呂が歩いた道を、清麻呂と共に歩きます。奈良時代の風景を想像しながら、約20分ほど歩くと、宇佐神宮の駐車場を示す看板が見えてきました。駐車場も広いが、神社の敷地も、かなり広そうです。宇佐神宮球場という野球場もあります。大鳥居の手前には、SLが展示されていました。九州最古のSLでドイツ製とのことです。

 宇佐神宮は、全国約4万社ある八幡様の総本宮で、神典と神仏習合の発祥地として有名です。
 大鳥居から表参道を進むと、左に能舞台や池があります。広いです。宇佐神宮が、こんなに大きな神社とは思ってなかったので驚きです。迷わないように、真っすぐに参道を進みます。
 境内の広さは約14万坪で、そのほとんどが史跡に指定されているそうです。
 また、「イチイガシ」が群生する社叢(しゃそう)は、天然記念物に指定されています。

 宇佐神宮は、上宮(じょうぐう)と下宮(げぐう)に分けられています。
 上宮(じょうぐう)は、725年御本殿(一之御殿)造営。下宮(げぐう)は、824年に造営されました。
 宇佐神宮本殿は、「一之御殿」「二之御殿」「三之御殿」の3棟が横に並んでいます。本殿を横から眺めると「M」の字に見えます。これは、「八幡造」と呼ばれ、古い神社形式で、国宝に指定されています。

 表参道を突き当たって右に折れると、下宮です。大樹に囲まれ、静寂の中に下宮があります。まずは、下宮を参拝してから、上宮に向かいましょう。
 道を戻って、石段を登ります。宇佐鳥居をくぐり、石段を上っていくと、少しづつ明るくなってきました。そして、石段を上り終えた瞬間、息をのむ光景を目にしました。
 薄暗い参道から、石段を上り終えた瞬間、左側からの眩いほどの光を受けます。宇佐神宮上宮本殿が、朱色に輝いているのです。その荘厳で美しい姿に、私は、脚を止め、しばらく見とれてしまいました。
 今まで、多くの寺社に参拝してきましたが、このように、あまりの美しさに思わず立ちつくした、感動的な経験は初めてです。参拝者が少なく、ちょうど朝日が、樹間から本殿を照らした瞬間だったのでしょう。写真では、とても伝えることのできない光景でした。

朝の日に
まばゆく光る
宇佐の神
時を忘れて
時を過ごす

 宇佐神宮は、八幡大神様(応神天皇)・比売大神様・神功皇后様の3柱がお祀りされているとのことです。宇佐神宮の摂社は 9社、末社は20社あります。すべてをお参りすることは時間的に不可能なので、上宮を参拝した後、旅を進めることにしました。
(私は、うっかりして、宝物殿を見学することを忘れてしまいました。また、次回、必ず再訪したいと思います。)
 上宮には、大きなクスノキがありました。ご神木である大楠は、樹齢は約800年といわれています。

 宇佐神宮の南には、「御許山」があり、ここは、八幡神が降り立った地といわれています。その頂上には、宇佐神宮の奥宮(大元神社)があります。
 また、周辺には、「圓通寺」「大楽寺」「極楽寺」など、数多くの寺社が集まっており、是非、再訪したいなと思いました。
                      もっと時間をかけて巡りたいな、という気持ちを抑えて、予定の場所に向かいましょう。
 いろいろ事前調査をしてから旅をしても、実際に、その場所に行ってみると、予定の時間では、十分に見ることができなかったり、逆に、思っていたような内容ではなく、予定より早く見学を終えたりすることは多々あります。でも、この宇佐神宮は、大きな誤算でした。
 もっと、もっと時間をかけて、心静かに、ゆっくり参拝させていただきたいところだと思いました。素晴らしい宇佐神宮との出会いに感謝です。

「大分県立歴史博物館」
宇佐 風土記の丘
  
 宇佐神宮から、北西に約4km、のどかな田園地帯を歩きます。Geographica と Google map が活躍します。1時間弱で「史跡公園 宇佐風土記の丘」に到着。ここに「大分県立歴史博物館」があります。この公園は、国指定の史跡の前方後円墳群がある広い公園です。
 歴史博物館の前に行くと、どうも、小学生らしき団体が入館するところでした。
「こりゃおえん。ちっと時間をずらすかな。」
ということで、公園内の、ベンチに座って、昼食にします。時計を見ると12時半。昼食は、例によって、いつもの行動食 チョコチップスクッキーです。広々とした、史跡公園の中で、ゆっくり食事をします。気持ちのいい風が吹いて、なんとものどかです。
 
 この「宇佐 風土記の丘」は、国指定史跡の「川部・高森古墳群」を中心とした、約20haもの広大な公園です。九州最古の前方後円墳である「赤塚古墳」の他、6基の前方後円墳があります。
 ベンチに座って周囲を見渡すと、いたるところに古墳が点在しているのが分かります。これらの古墳を、すべて見ている時間がないことを残念に思いながら、歴史博物館の入口に向かいます。丁度、小学生のグループが、ガイドさんと共に、博物館から出て、古墳に向かう様子です。

 入れ替わりに館内に入ります。
 館内に入ると、玄関ホールが広く、正面の壁面に、直径5m以上もあるような、「摩崖仏」が出迎えてくれました。レプリカだとは思いますが、すごい迫力です。
 豊後高田市にある、国内最古で最大級の、磨崖仏「熊野磨崖仏」の実物大模型だそうです。

 隣の展示室に向かって歩き始めた時、急に、エントランスホール内が暗くなり、音楽が流れ出しました。何事かと思いながらホールに引き返すと、音楽と共に解説が流れ始めます。プロジェクションマッピングと共に......
 磨崖仏が造られた歴史的背景を解説する映像が投影されるのですが、これが素晴らしい出来上がりなのです。驚きの趣向としか言えません。(詳しく解説すると、ネタバレになりそうなので、やめておきましょう。是非、大分県立歴史博物館に行ってみてください。)

 素晴らしいプロジェクションマッピングを鑑賞した後、中央の広い部屋に進みます。
 この広い展示室には、豊後高田市にある「富貴寺大堂」があります。複製ではあるのですが、とても精密に作られています。
 寺の中に入ると、金色に輝く阿弥陀如来像が鎮座しています。また、堂内は、色鮮やかな色彩で覆われ、浄土の世界を感じることができます。。
 寺の外に出て、じっくり眺めていると、またまた、音楽と光の変化が...
 この「富貴寺大堂」もプロジェクションマッピングでの解説が始まりました。その声を聴いて
「おっ! 石丸謙二郎さんの声だ!」
 そういえば、以前、NHKのラジオ番組「山カフェ」で、パーソナリティをしている石丸謙二郎さんが、
「故郷の大分県の施設のナレーションをしたことがあります。」と言っていたのを思い出しました。
「これが、そのナレーションだったのか。ここまで来て良かったなぁ~!」

 館内の奥の展示室には、
・古代の仏教文化、信仰と暮らし
・八幡社の総本宮である宇佐神宮の歴史と文化
・国東半島に根付く六郷山の文化
 の出土品や資料が展示されていました。

 博物館の展示様式は多種多用ですが、この歴史博物館は、鮮やかで変化に富んだ映像技術やメディアを駆使し、とても分かり易く、楽しみながら見学できるように工夫されていました。 博物館スタッフの心に感謝します。
 宇佐神宮にご参拝の折は、是非、大分県立歴史博物館にもお立ち寄りされることをお勧めします。
 
 時計を見ると、もう3時を過ぎています。博物館を出て、スマホのアプリを起動。
「宇佐 空の郷」と入力し、歩き始めます。
 ここから約2.3km、のどかな道を北西に進みます。途中、宇佐市を流れる駅館川を渡ると、住宅街の中に「宇佐 空の郷(うさくうのさと)」が見えてきました。

「宇佐 空の郷(うさくうのさと)」

 「空の郷」は、市内に残る戦争遺構めぐりの拠点施設として、設置された施設です。
 小さな公民館のような建物で、中に入ると男女1名ずつガイドさんがおられました。早速、説明を聞かせていただきます。

 1939年、宇佐に海軍航空隊が配置されました。特に、一式陸攻に搭載された特攻兵器である、「桜花」の訓練が行われた舞台ということです。滑走路を急遽作ったのですが、平坦な土地で簡単に滑走路ができるだろうと考えていたところ、水田であったため、水路が網の目のように配置されており、これらの排水処理に難渋したそうです。
 宇佐市内には、掩体壕をはじめ、空襲の痕が残る落下傘整備所や爆弾池など、歴史を伝える戦争遺構が多数残っているとのことです。

 近くにある遺構の場所を教えていただき、巡ってみることにします。
 施設をでると、早速、古い門柱がありました。これは、この場所にあった、宇佐海軍航空隊の正門の門柱だそうです。門柱は、戦後、引き倒され、埋められていたのを、工事の際に発見されたそうです。門柱と共に、資料館を見ると、海軍航空隊庁舎をモデルに作られたことがよくわかります。
 資料館の裏の道を、約200mほど歩くと、「落下傘整備所」がありました。レンガ作りの2階建ての建物ですが、周囲の壁には、米軍の空襲の際の、無数の機銃掃射の跡がありました。
 更に歩くと、「耐弾式コンクリート造建物」の表示があります。ここは、受信所、または配水場と考えられている建物で、防弾効果を上げるために、内部は一段掘り下げられています。
 空襲から守るため、壁面はかなり厚く、屋根には、土が盛られ草が生えていました。空から分かり難いようにカムフラージュしているのでしょう。
 これらの戦争の遺構を見ると、実際に過去に戦争をしていたという実感が伝わってきます。今も、ウクライナでは、戦いが続いています。戦いは恨みを産み、その恨みを晴らすための戦いで、更に深い恨みが心に刻まれる。戦争では、何も解決できないことを忘れないためにも、このような遺構は大切に保存すべきだと思いました。
 また、宇佐市内には、宇佐海軍航空隊の歴史や宇佐への空襲、宇佐から出撃した特別攻撃隊について紹介する「宇佐市平和資料館」が開設されています。ここには、映画「永遠の0」で使用した零戦も展示されています。
 「宇佐市平和資料館」も訪ねる予定なので、地図アプリを開きます。ここから、平和資料館までは、4.3km
「う~ん、4.3kmか、方角は、南西方向。速足で歩いて 50分、往復1時間40分、見学時間を合わせると、2時間半はかかるな。」
「この空の郷から、最寄りのJR駅である「柳ヶ浦駅まで 約2km。」
 時計を見ると、なんと 4時40分。
「だめだこりゃ~! 行ってももう資料館は閉まってる。」
 非常に残念ですが、帰ることにします。
 暗くならないうちに歩いて「柳ヶ浦駅」に向かいます。この柳ヶ浦という名前は、いかにも海軍航空基地を連想される名前ですね。霞ヶ浦とよく似ていますよね。
 柳ヶ浦駅から、中津駅までは17分、30分ほどの待ち時間で普通電車に乗ることができました。ラッキー!

 中津といえば、「中津カラアゲ」ではないでしょうか?
 松山の家の近所にも「中津カラアゲ」のお店があり、時々買っていました。中津には数多くのカラアゲ店があり、味を競っていると、ネットで紹介されていました。中津のからあげをメインにした映画もあり、見ましたよ。「中津からあげマップ」なるものをダウンロードし、iPad に入れています。昨日は、暗くなっていたので断念。
「今日は食べるぞ!」
と思いきや、やはり暗くなってしまった。
しかたなく、ホテル近くのスーパーでお惣菜とトリスハイボールを買って帰ることにします。
明日の、朝食と行動食などもゲットします。
心地よい疲労感と共に、今日も超早寝です。

3日目

 さあ、今日は、最も遠い、豊後高田市まで足を延ばします。朝8時前発の普通電車で、JR宇佐駅に行きます。これは、昨日と同じなので余裕ですね。宇佐駅を出ると、左にバス停がありますので、そこで豊後高田行のバスを待ちます。約20分ほど待つとバスがやってきました。 バスに乗り、景色を見ながら、
「宇佐市から豊後高田市まで、どのくらいかかるんだろう?」と考えていると、
 なんと、ものの10分で到着しました。
「市から市への移動にしては、ものすごく近いな。たった12分しかたっていないよ。」
 終点のバスセンターらしきところに降ろされました。
「なんか、シーンとしているな。周りを見てもなにもないよ。」
 広い運動場に、昔あったような、バスのホームがひとつ、ポツンとあります。そして、乗ってきたバスと少し離れた所に、バスがもう一台あるだけ。
 どこにいけばいいのか、さっぱりわかりません。
「待合室や観光案内所は、どこにあるのかな?」
「そういえば、もう一人、男の人が降りたが、どこにいったのかな?」
 周囲を見渡しても誰もいません。ポツンと私ひとりが、古びたバスセンターのホームに立っています。
「映画では、こういう場面では、風が吹いてきて、落ち葉が飛んでくるんだろうな。」

 こういう困った時に、頼りになる、例のアプリを立ち上げましょう。
 それと、iPad に入れている「豊後高田トリップガイドマップ」を表示させます。

 ここで、私の旅のスタイルを紹介しましょう。

 背中には、mont・bell の20Lのザックを背負っています。これは、登山用で超軽量。ザックの中には、
・折りたたみ傘(雨天時、ザックも濡れないように、やや大きめ。)
・ストック
・ウインドブレーカー(超軽量タイプ)
・モバイルバッテリー(iPhon 3回充電可)
・各種USB接続コード
・サングラス(BOSEのスピーカー付きサングラス Frames Alt)
・LEDライト(超明るい、充電式)
・ICレコーダー(SONY 高音質ステレオ録音可、風防付き)
・行動食(チョコクッキー)
・救急医療用品(カットバン、薬:頭痛薬、整腸剤等)
・レジ袋、ティッシュ、タオル、マスク唐
・お茶(500ml)
・雨天用ザックカバー(ザックに付属)
・ザックの左肩ベルトには、iPhone や ICレコーダーがセットできる小物入れを取り付けています。

アウターとして、COLOMBIA のベストを着ています。
ポケットには、
・単眼鏡(遠距離用と博物館などで使用する近距離用)
・ルーペ
・小銭入れ、財布

首からかたにかけて、超軽量のiPad を入れるポーチ(iPad の他に、入場券やパンフ類の小物を入れます。)

以上、旅をしている格好を紹介しました。

 とりあえず、観光の中心地と思われる「昭和ロマン蔵」に行ってみましょう。ここには、「駄菓子屋の夢 博物館」や「昭和の夢町三丁目館」などの施設が集まっているようです。
 バス停のホームから、Google map の指示に従って、バスで来た方向に向って歩きます。バスの駐車場を出た所を右折し、少し歩いて、また右折。住宅街を抜けて、またまた右折。少し歩くと、左に古い商店街が見えてきました。
 商店街の入口上部には、
「豊後高田 昭和の町 駅前商店街」と、私が子供の頃みたような、アーチ状の門の装飾が見えます。
 その下には、「祝 昭和の町 生誕20周年」との横断幕が...
「あ~!これだな。昭和の街並みは。」
 ふと右を見ると、きれいな「バスセンター」なる看板の建物が...
「あれ? バスセンター?」
 不思議に思いながら、待合室のような部屋を通って奥に行くと、先ほど降り立った、古びたホームが見えてきました。
「なんだ...こうなっていたのか。えらい遠回りをしてしまった。」
 思わす、苦笑いをしながら建物の外に出ました。 Google map の画面を見ながら、まあ、このようなことは、私の場合、よくあることで、街の散策の一つだと思っておりますです。
 これが、もし団体行動であれば、精神的ストレスになるのでしょうが、ひとり旅では楽しい経験のひとつになります。
 まずは、懐かしい商店街を歩いてみることにします。

「豊後高田 昭和の町」

 豊後高田市の「昭和の町」は、昭和30年代当時の活気と賑わいある商店街を再現させた、温かくも懐かしい街です。商店街を歩いていると、子供の頃を思い出し、ほっこりした気持ちになってきました。まるで昭和の、あの頃にタイムスリップしたような感じがしてきました。昔の松山の、大街道や萱町商店街のようです。
 子供の頃は、スーパーやホームセンターのような大型店はなく、八百屋、魚屋、電機店、洋装店、米穀店など、個々の専門店を巡りながら、お母さんと一緒に買い物をしていました。懐かしく、回想しながら、ゆっくり歩きます。
 「○○ラジオ電気商会」と看板のある、懐かしい雰囲気のお店があります。ショウウインドウには、「SONY」の大きな文字。なんと縦看板にも特大の「SONY」
「あの頃のソニーは、勢いがあったなぁ~!」
「トリニトロン カラーテレビは、世界を驚かせたよな~。トランジスタのソニーだったよな~。」
 私の小学生の時持っていたカセットテープレコーダーも「SONY」
 高校時代の、ステレオラジカセも「SONY」
 ウォークマンもソニーの独り勝ちだったよな。メイドインジャパンが、誇りだったあの頃。
 今、自分が持っている電気製品を見て、やや気が滅入る。
Apple iPhone、iPad、Skullcandy のイヤホン、Bose Frame Alt スピーカー付きサングラス、全部 メイドイン USA 。
 「あっ! 違う! ICレコーダーは、ソニーだった。」
ほっとして、歩みを進める。
商店街の端まで行って、また、戻ってきました。

 この「豊後高田 昭和の町」は、2017年に、「アジア都市景観賞」を受賞したそうです。
 「アジア都市景観賞」とは、アジアの人々にとって、幸せな生活環境を築いていくことを目的に、アジアの優れた景観をアピールし、他の都市の模範となる優れた成果をあげた都市・地域・プロジェクト等を表彰するものだそうです。
 その他にも、「サントリー地域文化賞」「JTB文化交流賞」「地域づくり総務大臣表彰」など多くの賞を受賞しています。
 町全体で、取り組んだ成果が、でているわけですね。素晴らしいことだと思います。旅の者としても感謝、感謝です。

 そういえば、昭和の街並みは、映画のロケ地にもなっています。映画「ナミヤ雑貨店の奇蹟」の舞台です。「ロケ地ガイドマップ」には、ロケ地17ヶ所を、写真と撮影時のエピソードを交えて紹介しています。

 さて、次は、ミュージアムを見学するか。
 バスセンターのすぐ近くに「昭和ロマン蔵」があります。
 この建物は、明治~昭和にかけて、大分県を代表する「野村財閥」が、昭和初期に、米蔵として建てた、旧高田農業倉庫だそうです。
 「駄菓子屋の夢博物館」は、この建物の中にあります。博物館の前には、ボンネットバスや、オート三輪の他、昭和初期に走っていた自動車やバイクが、数多く展示されています。
 私は、小学生の頃は、今治の沖にある大島に、よく遊びに行っていました。そこには、ミカン農家をしている叔父夫婦や従妹がいて、オート三輪に乗って、ミカンの収穫を手伝っていました。その時に、荷台に乗って移動していたのですが、それを思い出し、とっても懐かしく感じました。でも、もう少し荷台は大きかったようなきがするのですが...
 まあ、子供の頃の記憶というのはそんなものなのでしょうね。

 中に入ると、そこは、駄菓子屋です。懐かしいいお菓子や玩具が、並んでいました。奥に進むと、ブリキのおもちゃ、映画のポスター、様々な昭和の生活用品が、所狭しと展示されています。ひとつひとつ当時を思い出しながら見ていくと、結構時間がかかります。更に奥に行くと、昔の教室が現れました。木の机や椅子、脚で漕いで音を出すオルガン、懐かしい教材など、よくこんなにたくさん揃えることができたなと感心しました。

 この建物の中には、「昭和の夢町 三丁目館」も併設されています。
 ここは、映画「All Ways三丁目の夕日」の世界です。壁に空いた穴をのぞいたり、トイレの中に入ったりすると、色んな声が聞こえてきました。照明も、朝や夕方などに変化し、さまざまな景色に移り変わります。

 懐かしいものを、じっくり見ていると、時間がたつのを忘れてしまいます。時計を見ると、もうお昼です。
 豊後高田は、そばの産地だそうですよ。観光パンフレットに掲載されていたそば屋さんに行ってみましょう。iPad を開き、蕎麦屋さんの位置を確認します。
 商店街入口を過ぎて、右折したところに、高田そば「翔」があります。
 「豊後高田そば」認定店。そば打ち名人 、達磨の高橋邦弘氏のそば打ち職人養成を受講し、そば打ち三段を見事取得、認定店となったそうです。
 お店はまだ新しく、清潔な雰囲気です。お客さんは、一組いました。海老 天ぷらそばのセイロを注文。
 早速、そばをすすります。細麺でコシがあり、美味しいそばでした。そこでしか味わえないものを頂くのも、旅の大きな楽しみです。

 お腹も落ち着いたので散策開始です。昭和の商店街を、再び、ゆっくり歩きます。それぞれの店舗ごとに、いち押し商品が、あるようなのですが、私は、よくわからないので、お店には入らず、昔ながらの店舗外観のみ、楽しませていただきました。
 「昭和の町展示館」に入ってみました。ここは、旧大分合同銀行だった建物を利用しているとのことで、渋い建物の中に、懐かしい生活用品が展示されていました。
 豊後高田には、摩崖仏や、多くの歴史的建造物があるのですが、残念ながら、歩いて巡るのは困難ですので、今回は、この辺で失礼することにします。

歩くたび
初めてなのに
懐かしい
高田の町の
昭和の街並み

 バスセンターに戻り、宇佐駅に戻ります。JRで中津駅に戻ると、丁度3時になっていました。時間があるので、「福沢諭吉記念館」に向かいます。
 「福沢諭吉記念館」までは、1.6km。
 いつものアプリを起動し、中津駅北口から北に向かって歩きます。
 今回は、左のアーケードではなく、駅を出てひたすら真っすぐ歩きます。約20分で到着。
 2階建ての洋館と古い民家が並んでいました。

「福澤諭吉記念館」

 「福澤諭吉記念館」は、福澤諭吉の、関連資料や旧宅、生家の跡などを展示しています。記念館1階は、時系列に福澤諭吉の一生をたどり、2階は福澤諭吉の、様々な側面にスポットを当てています。
 展示品としては、さまざまな書簡や肖像写真、福澤諭吉使用の羽織、「学問のすゝめ」初編 端書、初編 初版本(復製)などがありました。

 福澤諭吉は、1835年に下級武士の次男として生まれました。1歳の時、父と死別。母子6人で中津に帰郷し、貧しい少年時代を過ごしました。
 1854年、19歳の時、蘭学を志し、長崎に遊学。翌年からは、大阪の緒方洪庵の適塾で勉強しました。
 1858年、藩命により、江戸の中津藩 中屋敷で蘭学塾を開きました。これが慶應義塾のはじまりです。
 1860年「咸臨丸」で渡米し、ヨーロッパ諸国を歴訪し、社会の制度や思想などの知識を深めました。その後、「学問のすすめ」など、数々の著書により西洋の考え方を広めました。

「学問のすゞめ」:全17編
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」の書き出しで知られる福澤の代表的著作。
 当初は福澤が中津に洋学校(中津市学校)を開設するに当たり、中津の若者のために書いたものでしたが、やがて大ベストセラーとなり、17編まで合わせて、340万部が出版されました。

「福澤諭吉旧居」

 福澤諭吉が、1歳6ヶ月の時、父が急死したため、1836年秋に、母子6人で大坂の中津藩蔵屋敷から中津に帰って来ました。
 最初に住んだ家は、現存していませんが、宅跡として整備され見学することができます。その後移り住んだ家が、現在残されている福澤旧居です。
 土壁の土蔵もあり、説明文では、この土蔵の2階の窓際で、福沢諭吉は、勉強をしていたとのことです。

 土蔵の窓を眺めながら、記念館を出ました。
道を挟んだ反対側には、広い駐車場があります。その敷地内にも、説明文があります。
 ここは、福沢諭吉が幼少の頃、住んでいた家の跡、とのことです。家の輪郭だけが、土地に記されていました。

「さあて、まだ外は明るい。中津といえば、からあげ。中津からあげを、是非食べてみたいものだわい。」
 iPad に入れている、「中津からあげマップ」を見て、最寄りのお店を探そう。
 「中津からあげ」は、有名なので、市内、いたるところに、からあげのお店が、あるのだと思っていたのだが、そうではなかった。
 居酒屋や食堂に、それぞれの味を工夫した、カラアゲがあるのであって、持ち帰り可能な、からあげ店が、多数あるのではないようです。
 私は、ホテルで食べたいので、持ち帰り可能な、お店を探します。中津駅北口の近くに、一軒あったので、そこで買うことにします。
 駅まで戻り、テイクアウト専門店で、「砂刷り」「もも肉」「なんこつ」を買って、ルンルン気分で戻ります。ついでに、スーパーで必要仏師と、いつものトリスハイボールを買って帰ります。
 お風呂に入って、汗を流し、準備OK!
 トリスハイボールを一口飲んで、カラアゲを口に入れます。
「あれっ? この味 まさか...??」
「おいしいけど、これ、食べなれた味やで。」
 なんと、松山の家の近くの、「中津からあげ」の店の味でした。
 どうも、チェーン店のようです。
期待感は、シューッとすぼんでしまいました。でも、とっても美味しいカラアゲです。
 食事を終え、今日も超早寝です。

 
4日目

 今日は最終日です。小倉港でのフェイー乗船は、21時。それまで、かなり時間があります。かなり、かなり時間があります。
 フェリーを利用した旅の際、いつも最終日の時間の使い方に悩みます。午後5時までは、ミュージアムを見学し、有意義に過ごせるのですが、5時以降が、行き場所がなくなってしまい、身の置き場所に苦労するのです。居酒屋にでも入って、お酒を飲みながら、店の人と話ができればいいのですが、これが苦手なんですよね。ひとりで飲んでいると、どうしても手持無沙汰になってしまうので、縄のれんをくぐることが億劫になります。(トホホホ)
 さあ、今日は、どんなことになるか...

 じっくり見学したい史料館を残していました。「大江医家史料館」です。
 中津藩では、九州で最初に人体解剖を行ったと、「村上医家史料館」で学びました。その人体解剖の話に戻ります。
 学生時代の教科書で、杉田玄白と前野良沢が、辞書もない江戸時代、苦労して、オランダの解剖学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」として、日本で初めて、解剖学所を出版したことを学んだ記憶があります。日本人なら、誰もが知っている話ではないでしょうか。
 また、杉田玄白は、その後、「解体新書」翻訳中の苦労話や、刊行後の蘭方医学の動向について書いた「蘭学事始」を出版し、名声と富を得ました。
 このことにより、「解体新書」= 杉田玄白というイメージを、多くの人が抱くようになったのです。
 ところが、事実はかなり異なっているのです。歴史小説の作家の中で、緻密な資料集めを徹底的に行い、史実に基づいた内容で有名な、吉村昭が、「冬の鷹」という小説を書いています。

吉村 昭 (著)
「冬の鷹」

 中津を訪れる際には、是非とも、この小説を予習として、お読みいただきたいと思います。

 前野良沢は、長崎に留学した際に入手した、オランダの解剖学書「ターヘル・アナトミア」を、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周らと、3年5か月かけて翻訳し、「解体新書」を出版した。
 しかし、発行時に、翻訳者として記載されたのは、杉田玄白他数名となっていた。前野良沢の名が、世に知られるのは「解体新書」の翻訳作業の困難な様子を記した、杉田玄白の「蘭学事始」が世に出てからであった。
 前野良沢が「解体新書」に自らの名を出さなかったのは、その翻訳の不完全なことを自覚しており、それを恥として、許すことができなかったためと言われている。
 杉田玄白は、「解体新書」を世に出したプロデューサーであり、中津藩医であった前野良沢が、真の翻訳者だったのである。

「大江医家史料館」

 大江医家史料館は、代々中津藩の御典医を勤めた、大江医家の旧宅と史料を中心に、中津の医学・蘭学の流れがわかる史料館として開設されています。有名な「解体新書」をはじめ、豊富な蘭学・医学関係史料が展示されています。
 中津市の2つの医家史料館は、医学・蘭学史の関係では日本有数の施設と認知されているそうです。

 大江医家史料館では、「解体新書」の刊行など、オランダ語の医学書の翻訳から始まる蘭学者の誕生、中津における、種痘の実施に関する資料を展示しています。
 また、敷地内には薬草園も設置されています。

 JR中津駅北口を出て、少し西に進み、寺町をゆっくり歩きます。約20分で到着。外観は、村上医家史料館と同じような旧家です。中に入ると
「ちょうど小学生の団体が来ているので、裏の薬草園でお待ちいただけますか?」
と、係りの女性に薬草園に案内されました。史料館の土間を通る時、20名くらいの小学生が熱心にガイドの方から、説明を受けているのが見えました。
「そういえば、私もこの話を勉強したのは、小額6年生くらいだったかな?」
 30分程たって、中に案内されました。男性のガイドさんが、
「肌寒い外で待たせて申し訳ありません。」
と、恐縮されていました。女性のガイドさんに、中でいっしょに聞いてもらってもよかったと話していました。
 早速、館内を見学させていただきました。
 「解体新書」の展示コーナーに行きます。。
 手を伸ばせば、届きそうな普通のガラスの展示ケースに、無造作に展示されています。
「え~っ! こんなに明るい、普通の部屋に展示している。いいのかな?」
 しかも、その「解体新書」のコピー本が展示代の上に置かれ、自由に見ることができます。
 胸ポケットからルーペを取り出し、詳細に見ていきます。
 現在、私たちが使っている解剖学の本とは、精密さは異なっていますが、かなりリアルな図が描かれています。
 理学療法士という職種がら、どうしても骨や筋肉に興味が集中します。まずは、骨について記載している、ページを探します。
 そこには、やや大雑把な全身の骨格の絵が描かれていました。その中の、大きな骨については、名称が記載されていましたが、現在使用されている用語とは、かなり異なっていました。筋肉については、詳しい解説は、ほとんどありませんでした。
(コピーされていたのは、原本の一部のようでした。従って、原本には解説があるのかもしれません。)
 解説文も大きな文字で印刷され、江戸時代の本そのものでした。
 これが、「解体新書」の内容なのかと、驚く限りです。これが当時、画期的な書物だったのかと思うと、江戸時代の西洋医学が、いかに普及されていなかったのが理解できます。
 漢方医学が、スタンダードだった江戸時代、五臓六腑の実際とはかなり異なる、腑分けの図が一般的だった時代。
 医学の進歩に貢献した人々、感動と感謝の気持ちがわいてきました。

館の主な展示物
解体新書
重訂 解体新書
和蘭全躯内外分号図
華岡青洲画像
華岡青洲所診画帳
大江雲沢塾入門帳
大江医家医則  など           

 初めて「解体新書」を見ることができた感動を胸に、中津駅に戻ります。
 時計を見ると、12時を過ぎていました。小倉行の乗車券を買います。次の普通電車は、13時過ぎ。少し時間があるので、コンビニに行き、おにぎりを買います。待合室で、おにぎりを食べながら、小倉での予定を思い浮かべます。
 電車で約1時間、14時過ぎに小倉駅に到着。
 JR小倉駅から、地図アプリを聞きながら、目的地に向かいます。目的地は、「ゼンリンミュージアム」です。

 小倉駅からは、約1.1km。街歩きを楽しみながら向かいましょう。小倉駅前に立って振り返ると、JR小倉駅の構内、大きく開けた口の中に、吸い込まれるように、モノレールが入っていくのが見えます。
 最初に見た時は、SF映画に出てくる、未来都市のようで、感動しました。(田舎者で、すみません。)
 駅を出ると、すぐ繁華街です。モノレールの走る大きな道路が、駅から真っすぐに通っています。その大通りと平行に、商店街が並んでいます。細い道の両側に、さまざまな店が、ひしめき合っていて、行きかう人も多く、さすが北九州小倉です。
 繁華街を抜け、右折すると、橋が見えてきます。紫川の対岸に巨大なビルが見えてきました。どうも、ミュージアムは、このビルの中にあるようです。松山とは、ビルの大きさもデザインも異なり、見上げると首が過伸展して指がしびれそうです。
 ビルの1階にある案内図で確認して、奥のエレベーターに乗り込みます。
 地図のミュージアムですから、もっと小規模で地味な、資料館のようなものを創造していたのですが、驚きです。
「ゼンリンは、儲かっとるんやなぁ~!」
と、思いつつ受付に行きます。

歴史×地図のロマンの世界へ!
「ゼンリン ミュージアム」

 ミュージアムは、空いていて、私以外の見学者は、誰もいないようです。音声ガイドがあるとのことで、早速お借りしました。

 ミュージアム内は、美術館のような雰囲気で、壁面に、様々な地図が、豪華な額に入れられて展示されていました。
 館内は、4つのコーナーに分かれており、約120点の地図が展示されています。

A.イントロダクション
紀元前から15世紀ごろまでの人々の営みや世界観を映す地図の紹介

B 世界の中の日本
紀元前から15世紀ごろまでの人々の営みや世界観を映す地図の紹介

C 伊能図の出現と近代日本
実測による正確な日本地図がもたらす日本の近代化

D 名所図会(ずえ)・観光案内図・鳥瞰図の世界
交通の発達による観光の一般化により広まった鳥瞰図や観光案内図を紹介

 それぞれの地図について、詳しく音声ガイドで解説しているので、世界の中で日本がどのように認識されてきたのか、詳しく知ることができます。
 珍しい地図を一点一点、解説を聞きながら見学します。解説が面白く、地図をルーペで拡大して見ながら眺めていると、ついつい時間がたってしまいます。
 古地図は、豪華な学の中に入れられているのですが、地図自体が芸術品のようで、とても美しい姿です。
 美術館仕様のコーナーを終え、明るい大きな部屋に移りました。
 広いコーナーの床面一杯に、原寸大で展示されていたのは、「伊能中図」でした。
「あ~、これが伊能忠敬の日本地図か。すごく正確だな。」
 壁面には、あのシーボルト事件で、幕府が押収した、伊能忠敬の日本地図が展示されていました。
 丁度、係りの人が来たので質問させていただきました。
「この地図は、シーボルトが、帰国する際に、船に積んでいたものでしょうか? たしか、台風により船が破損し、そのため、積み荷を改めた際に、発覚した、国外持ち出し禁止の、あの地図なんですか?」
 係員は、「ここに展示しているのは、残念ながら、複製なんです。でも、このゼンリンミュージアムの保管庫には、正真正銘、本物の、その時の地図があります。」
「台風で、地図が汚れていたりしていないのですか?」
「いえ、とても綺麗な状態で保存されていましたよ。この複製と同じ状態です。」
と説明していました。
 シーボルトが、国外追放になった原因のひとつの、あの、伊能忠敬の地図が、ここにあるということ、その複製を見て、感激、感動でした。
「ここに来て、よかった!!」

 私が、この「ゼンリンミュージアム」を見学したいと思ったきっかけは、一冊の小説でした。
 それは、平岡陽明さんが書いた「道をたずねる」という小説です。ネタバレするので、詳しい解説は、控えさせていただきますが、幼馴染との友情、家族愛、夫婦愛に溢れた物語です。 小説を読み終えて、初めて、これは、あの「ゼンリン」の話だったのか、と驚きます。

 北九州を訪れる際には、是非

「道をたずねる」
平岡 陽明 著

を事前に読まれることをオススメします。

 「ゼンリン ミュージアムには、喫茶コーナーが設けられています。時計を見ると、4時半を回っていたのですが、受付の方が、
「よかったら、喫茶コーナーで休憩して行ってください。」
と勧めてくれたので、お言葉に甘えて、休憩することにします。
 地図や解説が興味深く、あっという間に、時間がたっていましたが、ちょっと疲れたかなと思っていました。超サービス価格の、コーヒーを飲みながら、喫茶コーナーの係りの女性に、小説を読んできたことを伝えました。とても、喜んでいただき、
「私も、あの小説は大好きです。他にも、ゼンリンをモデルにした小説があるのですが、ご存じですか?」
と言って、本を持ってきてくださいました。

小森陽一(著)
「インナーアース」
 忘れないように、写メを撮らせていただきました。(帰ってから、早速、読んでみました。ゼンリンと地下空間の話は、とても面白かったです。)

 受付の女性、資料係りの男性、喫茶室の女性、皆さん、「ゼンリン」を愛し、誇りに思っている気持ち、よくわかりました。素晴らしいことだなと感激。良いミュージアムだなと感謝です。

「ゼンリンミュージアム」のある建物・リバーウォーク北九州の1階には、地図デザインのグッズ専門店「マップデザインギャラリー小倉」があります。

 ここでは、ミュージアムで歴史と地図のロマンの世界に触れた後の、おみやげにピッタリな、日本の古地図やゼンリンの持つ地図情報を使用し、デザイン化した、さまざまなグッズが販売されていました。
 実は、「ゼンリン・ミュージアム」の入場券には、おまけが付いていて、このミュージアム・ショップで記念品をいただけることになっているのでした。折角なので、ショップに寄って帰りましょう。
 ビルの1階に降りて、同フロアで、多くのお店が並んでいる、ショッピングモールに行きます。
 ショッピングフロアのドアを開けてびっくり。
「これは、すっ、すごい。」
 ずっと上まで、吹き抜けになっている、広大な空間に、大きなクリスマスツリーが、光輝いています。生演奏あり、数多くのショップが、輝いて並んでいました。
 ビルの1階にあるミュージアムショップと、なめていたことを後悔しました。
 喫茶コーナーの女性が、
「私が、ご案内しましょうか?」と申し出てくれたのを、
「いえいえ、大丈夫です。」
と言ったことを、この時大変、後悔しました。
 ゼンリンミュージアムショップを探して、
うろうろ ウロウロ
ヨロヨロ モタモタ
 しばらく、歩き回りました。
 それでも、なんとか見つけることができ、大きなため息がでました。引換券と交換に、何やら、地図の書かれた飾りをいただきます。
 それだけで帰るのも、ちょっと恥ずかしく、いろいろ、見るふりをしながら、じわじわと出口の方向に進み、失礼しました。
 迷いに迷い、ショップを出て外の空気を吸い、ほっと一息。
 ところが、
「やばい! 暗くなってる!」
 暗いと周囲が極端に見え難くなるので、背中から、冷や汗が...。
 それでも、何とか歩けるのは、小倉の市街が、とても明るいからでしょう。
「これなら、大丈夫かな?」
 とりあえず、超強力LEDライトを取り出し、道を照らしながら、小倉駅に向かいます。
「やっぱ、大都会は明るいなぁ~。」
 心配したほどではなく、スムーズに小倉駅に到着。

 時計を見ると、6時を過ぎていました。結構、長い時間ビルの中で、うろうろしていたようです。
 乗船は、21時。時間は、た~っぷりあります。とりあえず、何か食べておくことにします。あてもなく、駅の地下に降りると、都合よく、ラーメン屋が目につきました。中に入って、とんこつラーメンを注文。普通に美味しかった。
 私は、うどんには、目がないのですが、ラーメンは、あまりお店に入ったことはありません。腹が膨れたところで、これからの準備に取り掛かります。コンビニに行き、紙パックのワインと、音をたてずに食べれる、おつまみ、お茶、を買います。後は、お土産。頼まれていた「通りもん」を買って、準備OK。

 暗くなっているので、再び、LEDライトを、ザックから取り出し、小倉港に向かいます。途中までは、動く歩道のある、整備された歩道橋が続いています。歩道橋を降りると、暗い人気のない歩道です。ライトで足元を照らしながら慎重に歩きます。フェリー待合所まで約10分。見慣れた待合所に入り、一番後ろの、端のベンチを陣取ります。
 まだ、乗船まで時間があるので、私ひとりのようです。先に、乗船手続きの用紙に記入。これが、かなり難儀なんです。ルーペで確認しながら一字一字記入します。眼が悪くなって、こういう作業が最も苦痛になりました。
 さ、これでもう何も困ることはない。ベンチに座って、紙パックのワインを、開けます。ストローを差し込んで飲んでいるので、周囲から見ても、ただのジュースに見えるでしょう。ストローで、ちびりっとワインを味わい。思わず笑みがこぼれます。ビーフジャーキーをつまんで口に入れ、もう一つの準備。Bluetooth イヤホンを耳に装着。iPhone のアプリを起動し、オーディオブックでの読書モードに入ります。
 ちびりちびり、ワインを飲みながらの読書はいいものです。気が付くと、いつの間にか、紙パックワインが2本目になっていました。今度は、白ワインなので、チーズタラにおつまみを変えます。やはり、赤ワインには、魚系統は合いませんね。
 時間は、経つもので、いよいよ乗船です。
いつものことですが、フェリーに乗りながら、「あ~あ、これで旅も終わってしまうのか...」と、寂しい気持ちになります。
「青の洞門」「宇佐神宮」「豊後高田の昭和の町」「解体新書」などが、少々、アルコールが入って、いい気分になった頭の中をかけめぐります。
「今回も、いい旅だったなぁ。」
 
 こうして、いい旅ができたことに、感謝
、感謝です。

 ヨロヨロモタモタ

 ヨロモタ旅は続きます。

以上

長い文章を最後まで、お読みいただきありがとうございました。
 明日も、あなたにとって、良き日になりますように。


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