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ヨロモタひとり旅 大分編

 中津・宇佐・豊後高田の旅

 今回は、ヨロヨロモタモタしながら、ひとりで大分を旅することにしました。大分県は、海を挟んでお隣の県でもあることから、今までに何度も訪れています。
 でも、行くところは別府周辺ばかりで、大分イコール別府温泉というイメージでした。今回は、大分県でも北のエリアにある、中津、宇佐、豊後高田を旅します。
 この地域への旅を思い立ったのには、理由がふたつあります。
 ひとつは、以前から、「青の洞門」を訪れてみたかったこと。小学校の教科書で習った話が、ずっと頭に残っていて、いつか行ってみたいと思っていたのです。
 江戸時代の話だったと思うのですが、街道の途中に、子供たちが命を落とすような危険な崖があり、旅のお坊さんが、これを憂いて、安全な道を作ろうと思い立ちました。何年もかけて、一人でコツコツと掘り進め、最後には洞窟のトンネルが開通。皆が安全に通行できるようになったとのこと。この手彫りのトンネルが「青の洞門」と呼ばれている。このような、あらすじだったと思います。
 ふと思い立って調べてみると、この場所は、大分県の中津市だったのです。話のもととなった小説も読んでみました。菊池寛著「恩讐の彼方に」です。この本を読んで、訪れたい気持ちが、より深まりました。
 もう一つのきっかけは、奈良時代の歴史を勉強していて、宇佐神宮の話が何回も出てきたことです。調べてみると、これも大分県宇佐市で、中津市のお隣でした。また、中津市や宇佐市のホームページで詳細に調べてみると、興味深い場所がたくさん見つかり、私の重くない腰が上がったということです。このような訳で、今回の旅の行先と目的が決まった次第です。
 年と共に、ヨロヨロ モタモタしている自分。そんな自分に不安や転倒のリスクを感じながらも、旅の感動と驚きを求めて、またまた、ひとり旅に出かけます。今回は、船中二泊、ホテル三泊での大分の旅です。

大分の旅 一日目 小倉行フェリー

 松山から小倉までフェリーで移動。夜九時五十五分松山観光港を出港し、翌朝五時に小倉港に入港。
 この松山・小倉航路は、歴史ある航路です。一九六九年、私が小学六年生の夏休み、ひとりで小倉の叔母夫婦の所に遊びに行った時に乗った記憶が最初でしょうか。
 その後、一九七三年 関西汽船が、阪神・四国・小倉の旅客船航路から松山・小倉航路を分離。二〇一三年石崎汽船が、松山・小倉航路を引き継ぎ、現在に至っています。
 石崎汽船は、同航路の重要性、必要性、利用者からの強い航路存続への訴えに対応するため、航路を引き継いだとのことでした。
 私は、小学生と高校生の時、ひとりで乗って旅をしましたが、その時は、二等客室は、ほぼ満員でした。夜、松山港を出港し、早朝、小倉港に入港する、今と同じパターンでしたが、現在は、利用者数が大きく減少しています。
 高速道路を無料化してから特に、利用者が急速に減少し、大阪、神戸、別府などを結ぶ航路が無くなってしまったと聞いています。車での移動は便利でいいのですが、船でのゆったりした旅もいいものですよ。
 近年、人手不足の対策として、トラック輸送の際、フェリーを利用することを計画している運送会社も出てきたようです。ぜひフェリー航路を以前のように充実させて欲しいものですね。フェリー航路を守ってくれている石崎汽船の努力に感謝、感謝です。
 とはいえ、フェリーは、老朽船なので、最近の新造船と比較すると、正直言ってあまり乗り心地は良くないかも。でも内装はリニューアルされていてきれいです。
 特に一等客室は、以前は四人部屋で、二段ベッドが、室内に二つ設置されているタイプでした。ですから夫婦で入室しても、最悪、知らない人たちと同室になる可能性がありました。これが、リニューアル後は、きれいな、ふたり部屋になったので、次回は私も妻と利用してみたいなと楽しみにしています。より多くの方がフェリーを利用し、快適な船旅を楽しめるようになってほしいものですね。

 さあ、時間がきたので乗船しましょう。
 松山観光港の待合室から、エレベーターで二階に上がり、長い廊下をひたすら歩く。これが結構長い。本当にこの連絡通路でいいのだろうかと、不安になってきた頃、乗船用のタラップが見えてきました。
 私は、ひとり旅の時は、いつも二等寝台を利用するので、指定された部屋までヨロヨロモタモタ……
 タラップを渡り、船内に入っても迷いながら、矢印を探し、階段を上って、やっとのこと客室デッキに到着。
ーーやっと着いたぞ~。ふーっ、とため息。
 客室デッキに入ると、売店やレストランがあり、左右二本の廊下が奥に向かって伸びています。
 廊下と船の外側との間は、二等寝台の客室、廊下と廊下の間は、洗面所やトイレ、浴室となっています。
 廊下を進み、乗船券に記載された番号の客室に入ります。中に入ると、奥の窓に向かった通路の両側に。上下二段ベッドが二台ずつ配置されており、定員は八名です。
 自分の居場所にたどり着いたところで、早速、巣作りといきましょう。
 窓に向かって左下のベッドが私の指定席です。マットレスの上に、用意されたシーツを敷き、掛布団にもシーツを掛けます。私は背が高いこともあり、背中をのばすと、頭が天井に衝突するので要注意。体を少しかがめた状態で動くのがコツかな? 
 足元上部には棚があり、荷物を置くことができるし、枕元には蛍光灯とコンセントがあり、スマホ等を充電することができます。結構機能的な構造となっていますね。
 最後に、各スペースを仕切っているカーテンを閉じ、個室空間にして準備完了!
 後は、明日のことを考えて、爆睡しましょう。おやすみなさい。

大分の旅 二日目 青の洞門 中津城

 早朝、五時小倉港着。六時半まで船内休憩し、歩いてJR小倉駅まで移動。そこから日豊本線の普通列車に揺られて約一時間。八時過ぎにJR中津駅に到着。
 南口から駅の外に出て、JR中津駅を振り返ります。こうして、旅先で初めて訪れた町の駅舎を見るのも、旅の楽しみのひとつです。
 JR中津駅で印象的なのは、駅舎前面上部に描かれた駅名と、その下にあるストライプでしょうか。「中津駅 NAKATSU STATION 」と書かれた、鮮やかな朱色の文字、そして、その下の左右に広がった真っ赤なストライプ。
「ほう~っ!」と、心の中で、感嘆の声が漏れます。
 南口の駅前には、ホテルやスーパーのビルが立ち並んでいて、人口八万人の中心地らしい景色です。 
 まずは、今回の旅の第一目標である青の洞門を目指しましょう。早速、青の洞門行きのバス乗り場を確認し、三十分程待ってバスに乗り込みます。
 私は、公共交通機関と徒歩で、ひとり旅をしています。ひとりという適度な緊張感によって、感覚が研ぎ澄まされ、通常なら見過ごしてしまうような小さな出会いに、感動をもたらすのです
 また、自らの足で、見知らぬ街を歩き回ることで、その街の位置的感覚が身体と同化し、あたかも住み慣れた町を歩いているような、親しみを感じます。これらが合わさって、さまざまな「おどろき」となって心に深く刻まれていくのでしょうか。ひとり歩き旅でしか味わえない感覚かな? 
 そのような旅では、バスの時刻やのりばの確認は特に重要です。何故かというと、近年、利用者の減少により、便数が削減されていることが多いからです。一便乗り遅れると、次は二時間後なんてことも少なくありません。ですから、私は旅に出る前に、必ず乗り場と時刻をネットでチェックするようにしています。
 今回は、大分交通・大交北部バスのホームページで、中津駅前の乗り場と時刻表を確認し、スマホのメモ帳に張り付けていました。
 また、乗換案内のアプリでも確認し「え~! どうしよう……」てなことがないようにしています。
 中津駅前から乗ったバスは、小刻みに停留所に停車しながら、市街地を抜けていきます。中津駅前から青の洞門までは、約十三キロ、歩いたら二時間半というところでしょうか?
 窓から見える景色は、いつの間にか田園地帯へと変わり、しばらく進むと右手に山国川が見えてきました。川沿いを上流にさかのぼると険しい山肌が見えてきます。
 青の洞門は、思ったより近くにあり、中津駅を出発してから、約二十五分程度で到着しました。バス停に降りたら、まず帰りの便をチェック。約二時間後か……
 洞門に入る前に、青の洞門について、整理しておきましょう。

青の洞門

 江戸時代になって、新たに堰が造られたことによって、山国川の水がせき止められ、川の水位が上昇してしまいました。
 そのため今までの道が通行不能となってしまったのです。村の通行人は、しかたなく川沿いに屹立している競秀峰という名前の高い岩壁に作られた、危険な道を、鉄の鎖を命綱にしながら通っていました。しばしば、足を滑らせて滑落し、命を落とす旅人もいたということです。
 諸国を巡礼をしながら修行をしていた禅海和尚が、この地を訪れた時、危険な岸壁につけられた道で、多くの人や馬が命を落としていることを知り心を痛めました。
 禅海和尚は、心を定め、自らがノミと鎚を使って岩肌を彫り始めたのでした。(一七三五年)
 その後、禅海和尚は、托鉢によって資金を集め、仲間の石工たちと共に、三十年掘り続けました。そして、一七六四年ついに貫通したのでした。全長三四二メートル(トンネル部分は、一四四メートル)
 当時の通行料として、人は四文、牛馬は八文を徴収し、それを工事の費用にあてていたとのことです。
 明治三十九年に大改修が行われ、江戸時代の洞門の様子は、かなり変わってしまいましたが、トンネル内の一部や明かり採り窓などに、当時の面影を残す手掘り部分が残っています。
 青の洞門という、分かり易いバス停で降りたのは、私一人。バスの過ぎ去る方向を見ると、五十メートル程先に、大きな岩壁をぶち抜いたようなトンネルが見えました。
ーーあのトンネルが青の洞門かな? とにかく行ってみるか。
 山と川に挟まれた、車がやっと二台離合出来るくらいの車道が、トンネルに向かって続いていました。向かって右は崖で、かなり下の方に川が流れています。左側には、すぐ山が迫ってきていて、見上げると急峻な崖が見渡せます。
ーーこの岸壁はすごいなぁ。奇岩が連なっているよ。これが耶馬渓を代表する難所、競秀峰やな。
 トンネルの手前には、休憩所らしき建物があるが、人はいない様子。建物の手前には、「競秀峰めぐり入口」とあり、登山道がつづいているようです。大きな案内図もあり、ここから頂上を目指すのでしょう。
 今でも、江戸時代の旅人が歩いた、この競秀峰を通る道が残されており、そこを目指す登山者も多いとのこと。その日も、駐車場に車を置き、登山道を登って行った数組の登山者を見かけました。
 実は、私も山登りが好きだったので、この競秀峰に登ってみたいなと思い、計画していたのですが、登山動画を見て、そのあまりの恐ろしさに断念してしまいました。興味のある方は、ネット動画を見てみてください。ヨロモタの私は、絶対無理ですよね。君子危うきに近寄らずです。
 青の洞門は、車の通るトンネルの横、川のある側に掘られていました。当時の手彫りの跡が残っているのは、明り取りの場所や、川の上流側の一部でしたが、ノミで掘った跡に指を這わせ、当時の禅海和尚が岩を刻んでいる様子を思い浮かべ、感動しました。
ーー よくぞ、この固い岩盤を手で掘ろうと思い立ったものだなぁ。この岩はすごく堅そうやな。
 川の上流側の洞門出口付近は、当時の洞窟内部の様子が、三十メートルほど残っていて、当時の人々が、薄暗い洞窟の中を後ろから、歩いて来ているような気配と共に、江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を感じました。
 青の洞門については、小学校の教科書で学んだと記憶しています。教科書のさし絵には、お坊さんがムシロの上に正座し、岩壁に向かって一人でノミと鎚で岩を砕いている情景が描かれていました。その頃、私は岩石や化石に興味があり、休みの日には、近くにある崖に行き、化石採取をしていました。アンモナイトや植物の化石がいろいろ出土していたのです。化石がある地層ですから、砂岩や泥岩で、そんなに硬い岩ではなかったと思いますが、小学生には大変な作業でした。一人でタガネと鎚でコツコツと岩を削って化石を探していたのを覚えています。
 そのようなことから、青の洞門の岩を刻んでいる和尚の姿が印象に残ったのだろうと思います。「僕も、一人で岩を刻んで洞窟を掘ってみたいな!」とドキドキしながら想像に胸を膨らませたことでしょうね。懐かしい記憶です。
 洞窟を抜けると、広い駐車場があり、そこには、善海和尚の銅像や、菊池寛のモニュメントが設置されていました。
 菊池寛は、文藝春秋、芥川賞、直木賞などを設立したことで有名ですが、短編小説「恩讐の彼方に」は、この善海和尚をモデルとした作品です。この青の洞門を訪れる前には、ぜひ

菊池寛(著)小説「恩讐の彼方に」

 をお読みいただきたいと思います。

 駐車場の下には、おだやかな流れの、気持ちのいい河原があり、その河原に座って、しばらく競秀峰の奇岩の連なる岸壁を眺めていました。
ーーあ~気持ちがいいなぁ~! 深山緑水の中で心おだやかに過ごす時間はいいなぁ~!
 単眼鏡で、目の前に聳える垂直の岸壁を観察していると、上部に、横に連なる岩の境目が見えます。よく見ると、それは、岩をくり抜いた道でした。岸壁をカタカナの「コの字型」にくり抜き、そこを人が通るようになっているのです。柵も手すりもありません。脚を滑らせたら、そのまま垂直の崖から転落し、おそらく命はないでしょう。
ーーこれだな、動画で見た恐怖のルートは。
 私は、この道を通るとしたら、背が高いので、中腰でここを歩かなければ無理みたい。そんなことは、とてもできそうにありません。腰を曲げて歩いていると、背中のザックが、岩壁に引っかかって、「あれ~っ!」と、下まで一気に空中移動。改めて恐怖が背中を走りました。
ーークワバラ クワバラ。行かなくて正解やったな。行ったら死んでたわ。
 私は、旅に出る前に下調べはしっかりするのですが、動画は見ないようにしています。一度、動画をしっかり見て予習して行ったところ、「あっ、ここだ! ここだ!」とか、「そうそう、こんな感じだったな」のように確認作業となり、感動が薄れてしまったのでした。それ以来、動画は、事前に見ないようにしていたのです。
 ところが、この競秀峰については、いやな予感がしたというか、虫が知らせたというか、動画を見てしまったのでした。そして、その画面には、世にも恐ろしい風景が映し出されていたのです。
ーーこれはいかん。最近、足元も見えにくくなったのに、こんなとこに行ったら最後や!
 と、今回だけは予習動画が功を奏したのでした。
 バスの時刻まで、まだたっぷり時間があります。河原の大きな石に腰を下ろし、クッキーを食べながら、川のせせらぎの、爽やかな音色に耳を傾けます。
 周囲の木々は、紅葉に美しく色づき、いつまでも、この場所にいたいなと思いました。ここから、さらに奥に行くと耶馬渓です。
 今回、旅の計画を立てている時に、ぜひ耶馬渓を歩きたいと考えていたのですが、残念ながら、公共の交通機関が、ほとんどなく断念しました。
 コミュニティバスは、運行しているのですが、極端に便数が少なかったのです。
ーーう~ん、残念やな。車がなくても行けるように公共の交通機関を整備していただけるとありがたいんやけどね。
 チョコクッキーで空腹を慰めた後、駐車場から対岸にかかっている歩行者専用の小橋を渡ります。対岸には、日田住環中津街道があり、交通量が多そうです。
 川沿いの小道を下流に向かって歩くと、「青の洞門対岸のネモフィラ」という場所がありました。
ーー青の洞門対岸のネモフィラって何かいな?
 四月中旬から五月上旬にかけて、青の洞門沿いの山国川対岸に広がる田んぼ一面に、青いネモフィラが咲き誇るとのこと。
 ちなみに、ネモフィラは、森の妖精のような、澄んだブルーの花が咲くそうですよ。今回は時期外れでしたが、次回は、ぜひこの時期に訪れたいものですね。
 さらに下流に向かって歩くと、耶馬渓橋が見えてきました。

耶馬渓橋(オランダ橋:重要文化財)
 一九二三年に竣工した橋で、日本唯一の八連石造アーチ橋、日本最長の石造アーチ橋、日本百名橋の一つで、上流の馬渓橋、羅漢寺橋とともに耶馬渓三橋と呼ばれています。
 地元では、オランダ橋と呼ばれているそうですが、これは、長崎に多い水平な石積みを採用しているためとのこと。
 橋の袂には、「むかえる、さかえる、ぶじかえる」と台座に刻まれたカエルの親子の像がありました。
 青の洞門周囲を一周したところで、ちょうど予定の時刻となり、バスで中津駅に戻ります。

 今度は反対側の北口から出ます。北口駅前のロータリー中央には、「福沢諭吉ゆかりの地 中津市」と説明板があり、ドーンと福沢諭吉像が設置されていました。
 さて、ここからは歩いて巡ることにします。まずは、中津城を目指しましょう。
 いつものように、スマホを取り出し、アプリのジオグラフィカとグーグルマップを起動。
 JR中津駅北口を出ると、すぐ左に日ノ出町商店街のアーケードがあります。残念ながら閉まっているお店が多いためでしょうか、やや暗いアーケードを西方向に歩きます。
 話は、変わりますが、各地のアーケード街を歩いていて、元気がないなと寂しく思います。 私は、地方の特色がある、これらのアーケード街を歩くのが大好きなのですが、シャッターが下りている店が多く残念に思っています。
 大手のショッピングモールは、繁盛していて、人やお店も多く、活気があっていいのですが、どこの地方に行っても同じで、わざわざ行ってみようとは思いません。
 街はずれの広大な敷地に、駐車場と巨大なショッピングモール。できれば、大手企業と古くからの商店が両立するような、それぞれの地域の特色を生かした、街の計画が増えてくることを願っています。さて、話を戻しましょう。
 中津といえば、「中津からあげ」ですよね。市内にたくさんのからあげ店があって、食べ比べができる、と思って楽しみにしているのですが、今のところ、商店街には、からあげ店が見当たらないようです。帰りに、いくつかお店を廻って買って帰ろうかなと思っているのですが、見つからないのですよ。おかしいな?
 アーケード街を最後まで歩き、北方向に伸びる大きな道を進むと、中津城が見えてきます。中津駅から、約千五百メートル、歩いて十七分くらいなので近いですね。 

中津城

 中津城のみどころは?
 中津城は、黒田官兵衛によって築かれた城で、日本三大水城のひとつです。(他の二つは、今治城と高松城)
 中津川に沿って城を建設しており、川から直接、堀の水を引き込んでいます。そのため、河口近くの堀には、海水が流れ込んでいるようです。
 また、築城当時に築かれた貴重な石垣が一部残っており、残存している部分は、石垣としては、九州の城では最も古いものとのこと。
 江戸時代になると、奥平昌成が中津藩主となり、明治維新まで続きました。(場内は、奥平家の資料館となっています)
 城の東側の堀に沿って歩いていると、「黒田時代の石垣」と書かれた標識があります。城の北側の石垣を見ると、黒田孝高の築いた本丸跡と細川忠興の増築跡の石垣が混在しているのを見ることができました。右側の黒田が戦国時代に築いた堅固な石垣と、左側の細川が自然石を使って積み上げた石垣がはっきり分かれているのが良く分かります。
ーーこの北東から見た中津城天守閣は、かっこいいね。どーんと聳えていて、ものすごく迫力があるな。中津のシンボルやね。
 残念ながら、中津城の天守閣は、模擬天守閣とのことで、萩城をモデルにして作られたそうなんです。でも、とてもかっこいいですよ。
 現在の模擬天守閣は、昭和三九年に市民らの寄付で鉄筋コンクリートの奥平家歴史資料館として建築されたとのことです。
 天守閣の中に入り、展示を見学しながら階段を上ります。資料館には、徳川家康から拝領した「白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)」や「長篠の戦い」で使用された法螺貝などが展示されていました。
 天守閣最上階からの、見晴らしは素晴らしく、河口に位置しているため中津市内だけでなく、海まで見渡せる絶景でした。
 中津城というと、黒田官兵衛が、関ヶ原の戦いの最中、座敷に、ありったけのお金を山済みにして、傭兵を募集し、自ら賃金を手渡した話が有名ですが、模擬天守閣の資料館には、奥平家の資料のみで、黒田官兵衛に関する展示はありませんでした。
ーー黒田官兵衛に関する資料の展示がないのはどうしてかな? 中津の歴史としては重要な気がするがな~?
 不思議に思いながら、天守閣の外に出ると、敷地内に、小さな展示室があり、NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」などの資料が展示されていました。
 模擬天守閣を建築する際、旧藩主である奥平家の援助があったとのこと、また、この中津城は、全国の城で唯一株式会社の所有、運営であることなど、珍しいお城でした。
 市民が心を合わせて、中津市のシンボルともいうべきこの天守閣を築いた努力に対して、感謝、感謝です。
 城の北側にある武家屋敷跡を見学し、中津城を後にしました。

村上医家史料館

 次に、来る途中にあった村上医家資料館に向かいます。中津駅から中津城まで歩いている途中に、村上医家資料館があるのをチェックしていました。
 外観は、町並み保存地区によくある江戸時代の商家という感じで、現在の病院とはまったく異なる様相です。中に入ると、商家の和室に、たくさんの展示ケースが置かれていて、ちょっとビックリ。。
 受付には 係りの男性が二名おられましたが、見学者は、なんと私ひとり。
ーーこれは、じっくり説明をきけるぞ! ラッキー!
 説明によると、村上医家は、一六四〇年に初代の宗伯が医院を開き、以来、中津藩の御典医を務めた家だそうです。
 中津藩は、前野良沢や福澤諭吉を生み出したことでも知られていますが、村上医家史料館では、江戸時代に建てられた屋敷を利用し、医家の史料及び人体解剖に至るまでの医学の流れを展示しています。
 村上玄水は、一八一九年に中津藩の許可を得て、九州で初めて人体解剖を実施したとのこと。おどろいたことに、現在に至るまで医家として継続していて、村上記念病院として、この近くで病院を開業されているとのことでした。
 江戸時代から、継続して中津市民の健康維持に努力されてきたことに感動しました。感謝、感謝です。
 江戸時代に実際に使われていた、医院を見学するのは初めて。医療と和室という、なんとも不思議な環境を目の前にして、その当時の様子を想像してみましょう。
 江戸時代の患者さんが、この商家の玄関の扉を開けて来院し、この八畳くらいの広さの待合室に座って待ちます。受付では、どのような人が対応していたのでしょうか? 
 そして、隣のベッドもない普通の和室で、どのように診察し、治療が行われていたのでしょうか? 時代劇などで、漢方医が脈をとって診察する場面は見たことがありますが、蘭方医が実際にどのように治療していたのか、とても興味深いですね。
 医院に入ると、すぐ奥に八畳くらいの診察室と思われる和室があるのですが、その部屋のふすまに、古い書が表装されていました。係りの方が、
「これは、頼山陽の書です」
 と説明してくれました。
「えっ! こんなところに…… いいんですか?」
 複製でもない、正真正銘の、本物の頼山陽が書いた「書」が、普通に、部屋と部屋を仕切っているふすまに、貼られていたのでした。
 誰でも、簡単に触れることができる環境で、頼山陽の書を見たのは初めてでした。
「すごい!」
 私には、何と書かれているかはわかりませんでしたが、じ~くり拝見させていただきました(もちろん、触れたりはしてませんよ)
 次に、上の方を指さして、
「あれは、錦の御旗です。中津藩が、戊辰戦争の時に使ったものです」
「え~っ! こんなところに、普通に置いていていいんですか?」
 本物の「錦の御旗」を見たのは、二回目です。初めて見たのは、何年か前、東京の靖国神社の宝物館である「遊就館」でした。手の届かない高いところに厳重に展示されていました。
 このように、手を伸ばせば触れることができるところで見たのは初めてでした。貴重な史料を身近に感じることができ、思わず感動のため息がもれました。
 多くの博物館や資料館では、展示品と見学者との距離があり、身近に接する機会は少ないのですが、ここでは、至近距離から見せていただくことができたのです。史料館を管理している皆様に感謝、感謝です。
 その他にも、江戸時代に使用されていた、外科治療器具や種痘に使用していた機器などが、数多く展示されており、貴重な資料の数々に感動。恐るべし、村上医家史料館。
ーーそれぞれの器具が、何という名称で、どのような目的に使われていたのか、詳細な解説とともに展示されていたら、最高にうれしいのだがな。
(医療関係者以外は、あまり興味ないかもしれませんね)
 貴重な資料を目にし、思わず長時間滞在してしまいました。見学者は、私一人でしたので、係りの方が、付きっきりで熱心に説明してくれました。
 私も、職業柄、医学史には、興味があったので、前野良沢についても、いろいろ質問させていただきました。
 すると、なんということでしょう。「解体新書」の本物があるとのこと。
 この史料館ではなく、一キロほど北にある大江医家史料館に本物の「解体新書」を展示しているとのことでした。
ーーこれは、絶対行かんといかんな!
 と決意する私でした。
 係りの方と意気投合して、長話をしてしまいました。こういった史料館では、ついつい話が盛り上がって、長居をしてしまうことが度々あります。妻が横にいる時は、あきれられることが多いのですが、今日は一人なのでセーフ。外に出ると、すでに薄暗くなっていました。
ーーこれはいかん! ぼちぼちホテルに行かねば……
 アーケードを通って、中津駅み戻ります。今回も宿泊は、全国チェーンのビジネスホテル。中津駅を出て、すぐ右にあることを確認します。なんと、その途中にスーパーがある。やはり、いいところに建てているなと感心しました。
 私は、コンビニではなく、ご当地のスーパーで買い物をします。ご当地ならではの、メーカーのものや、この地方にしかない食材に巡り合うことがあるからです。スーパーで、いつもの食材を購入し、ホテルに向います。今日は、感動の旅の幕開けでした。明日に備えて、超早寝します。

大分の旅 三日目 宇佐神宮/歴史博物館

 今日は、宇佐市まで足をのばしましょう。宇佐市は、中津市より、ひとつ別府寄りにあります。普通列車で三十分弱と近いです。朝、八時前発の電車に乗るために、中津駅のホームで待っていると、
ーーん? あれは?
 ホームの看板に目が止まりました。
「豊前海おさかな料理研究会」
「中津名物 はも料理 ○○亭」
ーーそうか、そうだった!! 中津は、はも料理が名物だったな。
 いたるところに「はも」の文字がありました。とはいっても、私は、そんなに「はも」は好きではありません。出されれば食べる程度なのでした。それに、割烹や居酒屋にひとりで入るのは苦手なので、今回はパスさせていただきました。太田和彦さんのように、ひとりでふらっと居酒屋に入って、かっこよくメニューを眺めながら、
「ぼ、ぼくにジントニックをください」と、
お店の人と会話ができるといいのですが、私の場合は、ひとりだと手持無沙汰で、なんとも心細くなってしまうのです。
 日豊本線の普通電車に乗って宇佐駅に向かう。二六分で宇佐駅到着。宇佐駅を出て、いつものように振り返って駅舎を見ると、
ーーほおぅ~っ、やはり、そうきたか。
 宇佐駅の駅舎は、宇佐神宮のイメージを演出しているのか、縦横に赤いレプリカの柱が配置され、あたかもかわいい神社のような外観です。地方の特色を生かした装飾を見るのも、旅の楽しみの一つですね。
 さて、ここからは歩き旅といきましょう。宇佐神宮までは、四キロちょい。バスという選択肢もありますが、途中、見たいところがあるので歩くことにしますよ。
 宇佐駅前は、左右に月決め駐車場があり、その周囲にはポツンポツンと住宅があるような、静かな雰囲気。ビルや商店街は見当たりませんーーさて、どの道を歩いたらいいのかな? 大きな道路は見当たらないようなんだけどね。
 スマホを取り出し、いつものアプリを起動。
ーーあ~そうか。駅前を真っすぐ歩くと少し大きな道に出るんやな。よっしゃ行くぞ!
 JR宇佐駅前の道路を西方向に進む。交通量は多いが、歩道があるので安心して歩けそう。
 歩き旅で、一番困るのが、交通量が多いのに、歩道のない道。特に、トラックなどの大型車とすれ違うときは、ドキドキです。その上、トンネルが見えてきたら最悪!
 幸いここでは風景を楽しみながら歩くことができました。歩きながら周囲を眺めると田園地帯の中に住宅が点在しているような、ゆったりした景色が続いています。約二十分ほど歩くと、それらしき説明板が見えてきましたよ。

和気清麻呂 船つなぎ岩

 以下、北馬城地区まちづくり協議会説明板より引用します。
「奈良時代、弓削道鏡は、孝謙天皇の寵愛を受け、権力を欲しいままに、しばしば政治に介入していた。そのうち皇位を狙い、「道鏡を皇位に就けたならば、この国は安泰である。」とする託宣が、宇佐八幡大神よりあったと、偽りの奏上をした。
 当時の宇佐八幡神は、「隼人の乱」「東大寺大仏建立」「藤原広嗣の乱」など、天皇家や国家を守る神として大変崇敬されていた。
 宇佐神宮を、深くご崇拝になっておられた天皇は、道鏡を皇位につけるべきか否か、宇佐神宮からお告げを聞くため、勅使として和気清麻呂(わけの きよまろ)を宇佐神宮に派遣した。清麻呂は、八幡神に真意をお示しになるよう祈ったところ「我が国では、始めから天皇と家臣の関係は決まっていて、家臣が天皇になったことは一度もない。無道の者は早く除け。」という託宣があった。 清麻呂は、それを持ち帰って報告したので、道鏡は、やがて下野国(栃木県)薬師寺に流され、事件は終わる。
 和気清麻呂が、真意を確かめるため宇佐に派遣された際、船を繋いだとされる「船繋ぎ岩」である」
 当時は、この付近まで海だったらしく、宇佐神宮に参拝する際は、ここまで船で来ていたようです。宇佐の平野は干拓してできた土地なんですね。
 また、約二千五百年前、神武天皇東征の際、船を着けた場所だとも伝えられています。
「船繋ぎ岩」は、高さ一メートルくらいの苔むした丸い石柱で、上記の案内板と共に公園として整備、保存されていました。

 目を閉じて
 潮騒の音
 清麻呂が
 船のきしみに
 手をそえる
       秀翁

 はるか昔、孝謙天皇が、道鏡の手練手管によって利用され、国を危うくする寸前、和気清麻呂の、勇気ある行動により、危機を回避したのでした。清麻呂は、道鏡の意に添わぬ託宣を持ち帰って公表すれば、自分の身が危ういことも顧みず、正しい託宣を報告しました。間違ったことを許さない、誠実な心をもった清麻呂らしい行動だと感じました。
 和気清麻呂は、現在の岡山県和気町の出身で、桓武天皇の信任を得て、近畿地方の治水事業や、美作・備前の安定と発展に努めました。
 常に誠実に業務をこなし、平安遷都は彼の立案であったことなどは有名です。
 はるか昔の史跡を大切に保存、整備してくださっている地域の方々に感謝、感謝です。

宇佐神宮

 和気の清麻呂が歩いた道を、清麻呂と共に歩きます。奈良時代の風景を想像しながら、約二十分ほど歩くと、宇佐神宮の駐車場を示す看板が見えてきました。駐車場も広いが、神社の敷地も、かなり広そう。宇佐神宮球場という野球場もあるみたいですよ。
 大鳥居の手前には、SLが展示されていました。九州最古のSLでドイツ製とのことです。
 宇佐神宮は、全国約四万社ある八幡様の総本宮で、神典と神仏習合の発祥地として有名です。
 大鳥居から、左に能舞台や池を見ながら、表参道を歩いているのですが、これは思ったよりかなり広いですね。宇佐神宮が、こんなに大きな神社とは思ってなかったのでおどろきです。迷わないように、スマホの地図を見ながら、真っすぐに参道を進むことにしましょう。
 境内の広さは約十四万坪で、そのほとんどが史跡に指定されているそうです。十四万坪といえば、東京ドーム約十個分ですよ。地方の神社で、これだけの広さの境内を有している神社は珍しいですよね。
 また、イチイガシが群生する社叢(しゃそう)は、天然記念物に指定されています。
 宇佐神宮は、上宮(じょうぐう)と下宮(げぐう)に分けられています。上宮は、七二五年御本殿(一之御殿)造営。下宮は、八二四年に造営されました。
 宇佐神宮本殿は「一之御殿」「二之御殿」「三之御殿」の三棟が横に並んでひとつの本殿を形成しています。
 本殿を横から眺めて見てください。アルファベットの大文字「M」の字に見えませんか?
 これは、「八幡造」と呼ばれ、古い神社形式で、本殿は、国宝に指定されています。
 表参道を突き当たって右に折れると、下宮です。大樹に囲まれ、静寂の中に下宮がありました。まずは、下宮を参拝してから、上宮に向かいましょう。
 下宮を参拝した後、参道に戻って、石段を登ります。宇佐鳥居をくぐり、石段を上っていくと、少しづつ明るくなってきました。
 そして、石段を上り終えた瞬間、息をのむ光景を目にしました。
 薄暗い参道から、石段を上り終えた瞬間、左側から、眩いほどの光を受けました。なんと宇佐神宮上宮の本殿が、朱色に輝いていたのです。その荘厳で美しい姿に、私は、脚を止め、しばらく見とれてしまいました。
 今まで、多くの寺社に参拝してきましたが、このように、あまりの美しさに思わず立ちつくした、感動的な経験は初めてです。参拝者が少なく、ちょうど朝日が、樹間から本殿を照らした瞬間だったのでしょう。写真では、とても伝えることのできない光景でした。

 朝の日に
 まばゆく光る
 宇佐の神
 時を忘れて
 時を過ごす
       秀翁

 宇佐神宮は、八幡大神様(応神天皇)・比売大神様・神功皇后様の三柱がお祀りされているとのことです。宇佐神宮の摂社は九社、末社は二十社あります。
 すべてをお参りすることは時間的に不可能なので、上宮を参拝した後、旅を進めることにしました。
(私は、うっかりして、宝物殿を見学することを忘れてしまいました。また、次回、必ず再訪させていただきたいと思います)
 上宮には、大きなクスノキがあります。ご神木である大楠は、樹齢は約八百年とのことでした。
 宇佐神宮の南には、御許山があり、ここは、八幡神が降り立った地といわれています。その頂上には、宇佐神宮の奥宮である大元神社があるそうです。
 また、周辺には、圓通寺、大楽寺、極楽寺など、数多くの寺社が集まっており、ぜひ再訪したいなと思っています。
 もっと時間をかけて巡りたいな、という気持ちを抑えて、予定の場所に向かいましょう。
 いろいろ事前調査をしてから旅をしても、実際に、その場所に行ってみると、予定の時間では、充分に見ることができなかったり、逆に、思っていたような内容ではなく、予定より早く見学を終えたりすることは多々あります。でも、この宇佐神宮は、大きな誤算でした。
 もっと、もっと時間をかけて、心静かに、ゆっくり参拝させていただきたいところだと思いました。素晴らしい宇佐神宮との出会いに感謝です。

宇佐風土記の丘 大分県立歴史博物館
  
 宇佐神宮から、北西に約四キロメートル、のどかな田園地帯を歩きます。
「えっ! 四キロも離れている所に歩いて行くの? 私は、ムリ、むり、無理!」
 と、ほとんどの方は、嫌な顔をするのではないでしょうか? 雨が降って居たら、私も嫌ですが、そうでなければ、まったく苦になりません。今までに見たことのない景色を間近に楽しみながら、ゆっくり味わえるのです。もう最高!(変なおっさんでしょうか?)
 見渡す限り田園地帯ののどかな道を、てくてく、てく、てく……
 ジオグラフィカとグーグルマップが大活躍。一時間弱で、史跡公園 宇佐風土記の丘に到着しました。ここに大分県立歴史博物館があります。
 この公園は、国指定の史跡の前方後円墳群がある広い公園で、見渡すと、一面の広い芝生の中にポコポコと古墳らしき盛り上がりが見えま
す。緑の広い空間の中に立派な建物がありました。これが、歴史博物館でしょう。歴史博物館の前に行くと、たくさんの子供たちが……
 どうも、小学生らしき団体が入館するところのようです。
ーーこりゃおえん。ちっと時間をずらすかな。
 ということで、公園内の、ベンチに座って、昼食にしましょう。時計を見ると十二時半。昼食は、例によって、いつもの行動食チョコチップクッキーです。
 博物館の前の石段を少し降りると、芝生や木立の間にベンチが点在していました。ちょうど、影になっている絶好の場所を発見! 
 広々とした、史跡公園の中で、ゆっくり食事ができました。気持ちのいい風が吹いて、なんとものどかな雰囲気で疲れもとれてスッキリ!
 この宇佐風土記の丘は、国指定史跡の川部・高森古墳群を中心とした、約二十ヘクタールもの広大な公園です。九州最古の前方後円墳である「赤塚古墳」の他、六基の前方後円墳があります。
 ベンチに座って周囲を見渡すと、いたるところに古墳が点在しているのが分かります。これらの古墳を、すべて見ている時間がないことを残念に思いながら、歴史博物館の入口に向かいました。ちょうど小学生のグループが、ガイドさんと共に、博物館から出て古墳に向かうところでした。
 子供たちと入れ替わりに、館内に入ることにしましょう。館内に入ると、玄関ホールが広く、正面の壁面に、直径五メートル以上もあるような「摩崖仏」が出迎えてくれました。レプリカだとは思いますが、すごい迫力です。
 豊後高田市にある、国内最古で最大級の、磨崖仏「熊野磨崖仏」の実物大模型だそうです。
 隣の展示室に向かって歩き始めた時、急に、エントランスホール内が暗くなり、音楽が流れだしました。何事かと思いながらホールに引き返すと、音楽と共に解説が流れ始めます。
 プロジェクションマッピングと共に、磨崖仏が造られた、歴史的背景を解説する映像が投影されているのですが、これが素晴らしい出来上がりなのですよ。驚きの趣向としか言えません。(詳しく解説すると、ネタバレになりそうなので、やめておきましょう。ぜひ大分県立歴史博物館に行ってみてください)
 素晴らしいプロジェクションマッピングを鑑賞した後、中央の広い部屋に進みます。
 この広い展示室には、豊後高田市にある富貴寺大堂が再現されていました。複製ではあるのですが、とても精密に作られていることに驚かされます。
 寺の中に入ると、金色に輝く阿弥陀如来像が安置され、また、堂内は、色鮮やかな色彩で覆われ、浄土の世界を感じることができます。。
 寺の外に出て、じっくり眺めていると、またまた、音楽と光の変化が……
 この富貴寺大堂でも、プロジェクションマッピングでの解説が始まりました。その声を聴いて、
ーーおっ! 石丸謙二郎さんの声だ!
 そういえば、以前、NHKのラジオ番組「山カフェ」で、パーソナリティをしている石丸謙二郎さんが、
「故郷の大分県の施設のナレーションをしたことがあります」と言っていたのを思い出しました。
ーーこれが、そのナレーションだったのか。ここまで来て良かったなぁ~!
 館内の奥の展示室には、
・古代の仏教文化、信仰と暮らし
・八幡社の総本宮である宇佐神宮の歴史と文化
・国東半島に根付く六郷山の文化
 などの出土品や資料が展示されていました。
 博物館の展示様式は多種多用ですが、この歴史博物館は、鮮やかで変化に富んだ映像技術やメディアを駆使し、とても分かり易く、楽しみながら見学できるように工夫されていました。 博物館スタッフの工夫と努力に感謝、感謝。
 宇佐神宮にご参拝の折は、是非、大分県立歴史博物館にもお立ち寄りされることをお勧めします。

 時計を見ると、もう三時を過ぎています。博物館を出て、スマホのアプリを起動。
「宇佐空の郷」と入力し、歩き始めます。
 ここから約二・三キロメートル、のどかな道を北西に進む。
「また、二キロも歩くんかい?」と言っている人はいませんか?
 途中、宇佐市を流れる駅館川を渡ると、住宅街の中に「戦争遺構巡り基点施設 宇佐空の郷」という大きな標識が見えてきました。

宇佐 空の郷(うさくうのさと)

 空の郷は、市内に残る戦争遺構めぐりの拠点施設として、設置された施設です。
 外観は、レトロでおしゃれな公民館のような建物で、中に入ると男女一名ずつガイドさんがおられました。早速、説明を聞かせていただきましょう。
 一九三九年、宇佐に海軍航空隊が配置されました。ここは特に、一式陸攻に搭載された特攻兵器である、桜花の訓練が行われた舞台ということ。
 滑走路を急遽作ったのですが、平坦な土地で簡単に滑走路ができるだろうと考えていたところ、水田であったため、水路が網の目のように配置されており、これらの排水処理に難渋したそうです。
 宇佐市内には、掩体壕をはじめ、空襲の痕が残る落下傘整備所や爆弾池など、歴史を伝える戦争遺構が多数残っているとのことでした。
 近くにある遺構の場所を教えていただき、巡ってみることにします。
 一式陸攻というと、旧日本軍の代表的な爆撃機ですが、発動機は二発で、爆弾の積載量が少なく、敵機に攻撃されるとすぐ、火を噴いてしまうことから、米軍からは「ライター」と呼ばれていました。あの有名な山本五十六司令官が、南方の戦地を視察中攻撃され殉職されたのもこの一式陸攻です。
 特効兵器「桜花」の訓練を、宇佐でしていたとは知りませんでした。あのような魚雷に小さな翼を付けたような兵器を、開発した技術者もおかしいし、命令した参謀たちには怒りを感じます。とはいえ、今も武力による現状変更をしようとしている国が実際にあることを考えると、人間というのは愚かな生き物だなと感じてしまいます。
 施設を出た所に、古い門柱がありました。これは、この場所にあった、宇佐海軍航空隊の正門の柱だそうです。門柱は戦後、引き倒され埋められていたのを、工事の際に発見し元のところに設置したとのこと。
 門柱と共に、資料館を見ると、海軍航空隊庁舎をモデルに作られたことがよくわかりました。
 資料館の裏の道を、係りの方の説明を思い出しながら歩きます。ごく普通の住宅街の小道を、約二百メートルほど歩くと、落下傘整備所との標識がありました。手前に畑があり、普通の住宅に前後を挟まれた場所です。レンガ作りの二階建ての建物ですが、周囲の壁には、米軍による空襲の際についた、無数の機銃掃射の跡があり、周囲の一般住宅の中で、その一角だけ、重々しい雰囲気が感じられます。
 それとは知らずに、歩いてきたら、驚いて立ち止まってしまうことでしょうね。
 さらに歩くと、耐弾式コンクリート造建物の表示がありました。ここは、受信所、または配水場と考えられている建物で、防弾効果を上げるために、分厚い外壁に覆われ、内部は一段掘り下げられていました。
 空襲から守るため、壁面はかなり厚く、屋根には、土が盛られ草が生えています。空から分かり難いようにカムフラージュしているのでしょう。
 これらの重々しい戦争の遺構を見ると、実際に過去に戦争をしていたという実感が伝わってきます。今も世界の他の国では、戦いが続いています。戦いは恨みを産み、その恨みを晴らすための戦いで、さらに深い恨みが心に刻まれる。戦争では、何も解決できないことを忘れないためにも、このような遺構は大切に保存すべきだと思いました。
 また、宇佐市内には、宇佐海軍航空隊の歴史や宇佐への空襲、宇佐から出撃した特別攻撃隊について紹介する宇佐市平和資料館が開設されています。ここには、映画「永遠のゼロ」で使用した零戦も展示されているとのこと。
 今日の予定としては、次に、この宇佐市平和資料館も訪ねることにしています。
 スマホの地図アプリを開いて、ここから、平和資料館までは、四・三キロメートル。
ーーう~ん、四キロちょっとか、方角は、南西方向。速足で歩いて五十分、往復一時間四十分、見学時間を合わせると、二時間半はかかるな。
 この空の郷から、最寄りのJR駅である柳ヶ浦駅まで、約二キロメートル。
 時計を見ると、なんと四時四十分。
ーーだめだこりゃ~! 行ってももう資料館は閉まってるな。
 非常に残念ですが、帰るしかありませんね。
 暗くならないうちに歩いて、柳ヶ浦駅に向かいたいものです。この柳ヶ浦という名前は、いかにも海軍航空基地を連想する名前ですね。霞ヶ浦とよく似ていますよね。飛行場の中を歩いているような想像をしつつ、約二十五分で駅に到着。
ーー海軍航空基地があったところやから、何かそれらしいモニュメントや駅舎があるのかな?
 期待して駅前を見まわしましたが、特筆するようなものはないようでした。残念!
 でも三十分ほどの待ち時間で、普通電車に乗ることができたのでラッキー!
 柳ヶ浦駅から、十七分で中津駅に到着。
 くどいようですが、中津といえば「中津カラアゲ」ですよね
 自宅の近所にも、中津カラアゲのお店があり、時々買っています。カラッと揚がった砂ずりのカラアゲが大好きで、これがビールにバッチリ!
 中津には数多くのカラアゲ店があり、味を競っていると、ネットで紹介されています。中津のからあげをメインにした映画もあり、見ましたよ。
 それに今回は「中津からあげマップ」なるものをiPadにダウンロードしており、食べる気満々。
ーー昨日は、暗くなっていたので断念したけど、今日は、絶対、食べるぞ!
 と思いきや、やはり暗くなってしまった。
ーー暗くなると極端に見えにくくなるので、正直言って怖い! 知らないところは危ないよな? 段差につまずいて骨折したら、しゃれにならんな。今日も、がまんするか。明日があるさ!
 しかたなく、ホテル近くのスーパーでお惣菜といつものトリスハイボールを買って帰ることにしましょう。明日の、朝食と行動食などもゲット。
 心地よい疲労感と共に、今日も超早寝といこう! おやすみなさい。

大分の旅 四日目 昭和の町

ーーさあ今日は、最も遠い豊後高田市まで足をのばすぞ!
 朝、八時前発の普通電車で、JR宇佐駅に向かう。これは、昨日と同じなので余裕ですね。宇佐駅の朱塗りの柱で彩られた駅舎は、何回観ても美しい。今日はバスで豊後高田に行くので、駅前のバス停まで移動。
ーーあれ? バス停はどこだ?
 駅舎を出て周りを見渡すのだが、バス停が見あたらない。「タクシーのりば」とは、書いているのだが、バス乗り場がない。とにかく周囲を歩き回ってみよう。
 駅を出て左側には、喫茶店や懐かしい感じの食堂がある。その左には、月決め駐車場らしき広場があり、ポツンポツンと車が駐車している。右を見ても、やはり駐車場の広大な敷地があるのみ。
ーー二十分後には、豊後高田行のバスが来るのに……
 背中から冷や汗が出てきた。
ーーそのバスに乗らないと、一時間以上待たないといけなかったような気がしたが……
 こうなったら、しらみつぶしに探してみよう。喫茶店の前から駐車場に入るが、それらしきものはなし。
 次に、食堂の前から左の駐車場に入るが、それらしきものは……
ーーん? あれは?
 駐車場の右端に、ドーム状の屋根の小さな小屋があった。その屋根には、なんと、宇佐駅前バスのりばと書いてあるではないか。それも宇佐らしく、赤く鮮やかに……
「ふう~っ!」と、大きな安どのため息がでました。
ーー今度から、バス停の場所をしっかり予習しておかんといかんな。まいった、まいった。
 ドームの待合所で、豊後高田行のバスを待ちます。数分後、バスがやってきました。
 バスに乗り、景色を見ながら、
ーー宇佐市から豊後高田市まで、どのくらい時間がかかるんやろうなぁ?
 と、考えていると、なんと、ものの十分で到着。
ーー市から市への移動にしては、ものすごく近いな。たった十二分しかたっていないよ。
 終点のバスセンターらしきところに降りたものの、
ーーなんか、シーンとしているな。周りを見ても何もないよ。
 広い運動場に、昔あったような、バスのホームがひとつ、ポツンとあります。そして、乗ってきたバスと少し離れた所に、バスがもう一台止まっているだけ。
 どこにいけばいいのか、さっぱりわからない。
ーー待合室や観光案内所は、どこにあるのかな?
ーーそういえば、もう一人、男の人が降りたが、どこにいったのかな? それにしても、しずかやなぁ。
 周囲を見渡しても誰もいません。ポツンと私ひとりが、古びたバスセンターのホームに立っているのです。
ーー映画の、こういうシーンでは、風が吹いてきて、落ち葉が飛んでくるんだろうな。
 こういう時は、困った時に、頼りになる、例のアプリ、ジオグラフィカとグーグルマップを起動。それと、iPadに入れている「豊後高田トリップガイドマップ」を表示させよう。
 ここで私がどんな格好で歩きまわっているか、旅のスタイルを紹介しましょう。
 背中には、モンベルの二十リットルのザック。これは、登山用で超軽量。ザックの中には、
・折りたたみ傘(傘をさした時にザックが濡れないよう、やや大きめ)
・ストック(山道や不安定な場所用)
・ウインドブレーカー(超軽量タイプ)
・モバイルバッテリー(スマホを三回充電可)
・各種接続コード
・サングラス(ボーズのスピーカー付きサングラス)
・LEDライト(超明るい、充電式)
・ICレコーダー(ソニー製高音質ステレオ録音可、風防付き)
・行動食(チョコクッキー)
・救急医療用品(カットバン、薬:頭痛薬、整腸剤)
・レジ袋、ティッシュ、タオル、マスク
・お茶(五百ミリリットル)
・雨天用ザックカバー(ザックに付属)
・ザックの左肩ベルトには、スマホやICレコーダーがセットできる小物入れを取り付けている。
 アウターとして、コロンビアのベストを着ている。そのポケットには、
・単眼鏡(遠距離用と博物館などで使用する近距離用)
・ルーペ
・小銭入れ、財布
・超軽量首掛けバック(iPadの他に、入場券やパンフ類の小物を入れる)
 いつも、このような恰好で歩き廻っています。若いころから、登山が楽しみでしたので、極力軽量、小型のアイテムを常に持ち歩く習慣がついているのです。
 衣類は、かさばるのでお困りの方が多いのではないでしょうか? 私は、登山用の圧縮袋に入れて小さくして持ち歩き、今回のように連泊する時は、ホテルで洗濯するようにしています。
 これらの工夫によって、重い荷物を転がすこともなく、どこでも身軽に歩き回ることができるのです。
 話を、豊後高田バスセンターに戻しましょう。とりあえず、観光の中心地と思われる昭和ロマン蔵に行ってみましょう。
 ここには、駄菓子屋の夢 博物館や昭和の夢町三丁目館などの面白そうな施設が集まっているみたいです。
 誰もいないバス停のホームから、グーグルマップの指示に従って、バスで来た方向に向って歩きます。バスの駐車場を出た所を右折し、少し歩いて、また右折。普通の住宅が並んでいます。住宅地を抜けて、またまた右折。少し歩くと、左に古い商店街が見えてきました。
 商店街の入口上部には、「豊後高田 昭和の町 駅前商店街」と、私が子供の頃みたような、アーチ状の門の装飾が見えます。
 その下には、「祝昭和の町 生誕二十周年」との横断幕が……
ーーあ~! これだな。昭和の街並みは。懐かしい商店街だなぁ。
 ふと右を見ると、きれいな「バスセンター」なる看板の建物が……
ーーあれ? バスセンター? 僕が降りたのもバスセンターじゃなかったかいな? でも、このバスセンターは近代的で綺麗やなぁ。ちょっと覗いてみようか? 帰りの時刻も確認しとかんといかんしな。
 不思議に思いながら、待合室のような部屋を通って奥に入っていくと、少しくらい雰囲気になってきて……
 前を見ると、なんと先ほど降り立った、古びたホームがあるではないか。
ーーなんだ。こうなっていたのか。えらい遠回りをしてしまったよ。
 思わす、苦笑いをしながら建物の外に出ました。 グーグルマップの画面を見ながら、まあ、このようなことは、私の場合、よくあることで、街の散策の一つだと思っている次第です。
 これが、もし団体行動であれば、皆さんからの冷ややかな視線が気になり、精神的ストレスとなるのでしょうが、ひとり旅では楽しい経験のひとつになります。
 まずは、懐かしい商店街を歩いてみることにしましょう。

豊後高田 昭和の町

 豊後高田市の昭和の町は、昭和三十年代当時の、活気と賑わいある商店街を再現させた、温かくも懐かしい町です。
 商店街を歩いていると、子供の頃を思い出し、ほっこりした気持ちになってきました。
 まるで昭和の、あの頃にタイムスリップしたような感じがしてきます。
 子供の頃は、スーパーやホームセンターのような大型店はなく、八百屋、魚屋、電機店、洋装店、米穀店など、個々の専門店を巡りながら、お母さんと一緒に買い物をしていましたよね。
 母さんは、必ず買い物籠を抱えて、それぞれのお店で買った物を入れていました。お肉屋さんでは、店員さんに「かしわを二百グラムください」などと言うと、竹の皮で包んで、その上から薄い紙でさらに包み、ばらけないように輪ゴムで止めたものを渡してくれました。
 その頃は、お肉屋さんで買う肉といえば鶏肉で、「かしわ」と呼んでいました。若鳥は高いので、時々しか買ってもらえませんでしたね。「かしわ」というのは、今でいう親鳥です。牛肉や豚肉は、めったに食卓にのることはなく、何か特別な日にしか食べることができなかったように思います。そして、肉といえば、たいていはクジラの肉でしたね。カレーライスやすき焼きも、クジラの肉を使っていました。クジラの肉を食べると、歯の間にスジが挟まってしまって、なかなか取れなかったのを覚えています。なぜか、クジラの肉は、魚屋さんで売っていました。
 八百屋に行くと、ニンジンや芋などは、そのまま買い物かごに入れてもらっていましたよ。
 八百屋さんのお店の前には、木の箱が並べられていて、季節の旬の野菜が売られていました。野菜を入れた箱の後ろに、一本十円とか書いた木札を立てて、値段を表示していました。。
 だから、「きゅうりが出だしたね」とか「なすびは、もう終わりかな?」などと近所の主婦同士で話していたのを覚えています。
 旬の野菜を食べるというのは、昔はごく普通の生活だったのですね。今は、いつでもスーパーに行けば、トマト、キュウリ、ナスなどがありますが、昔は、夏にしか店先に並びませんでした。
 私も自宅の小さな庭で、野菜を作っていますが、夏には、きゅうりやナスが食べきれないほど収穫できます。その時期は、毎日、きゅうりやナスの料理が続くことになります。いろいろ工夫するのですが、だんだん飽きてきて、「もう、きゅうりは見たくない!」となるのです。もったいないことですが、旬の野菜をそれだけ食べていると、もう冬にきゅうりを食べたいとは思わなくなりますよ。だから、たくさんの石油や電気を使って季節外れの野菜を作らなくてもいいのではないのかな? などと考えたりします。
 それに、一度に何日分も買いだめたりはせず、ほぼ毎日買い物に行っていたように思います。その日に食べる分量だけ買って、買い物籠に入れていました。今のように、発泡スチロールのトレイやビニール袋、レジ袋などは皆無でしたね。その当時の方法に戻せば、エコになるのでしょうが、人間というのは、便利で楽なことを覚えるとなかなか元にはもどれないのでしょう。母との買い物を、懐かしく回想しながら、ゆっくり歩きます。
「○○ラジオ電気商会」と看板のある、懐かしい雰囲気のお店がありました。ショーウインドウには、ソニーの大きな文字。なんと縦看板にも特大のソニー。
ーーあの頃のソニーは、勢いがあったなぁ~! トリニトロンカラーテレビは、世界をおどろかせたよな~。トランジスタのソニーだったよな~。私の小学生の時持っていた、カセットテープレコーダーもソニー。高校時代のステレオラジカセもソニー。ウォークマンもソニーの独り勝ちだったよな。
 メイドインジャパンが、誇りだったあの頃。街中には、ナショナル、サンヨー、東芝、シャープ、日立など、いろいろなメーカーの小売店がひしめいていました。
 今、自分が持っている電気製品を見ると、気が滅入ります。アップルのアイフォン、iPad、スカルキャンディのイヤホン、ボーズのスピーカー付きサングラス、全部 メイドイン米国。
ーーあっ! 違う! ICレコーダーはソニーだった。
 ほっとして歩みを進める。商店街の端まで行って、今度は、反対側のお店を見ながら戻ってきました。
 この豊後高田昭和の町は、二〇一七年に、アジア都市景観賞を受賞したとのこと。
 アジア都市景観賞とは、アジアの人々にとって、幸せな生活環境を築いていくことを目的に、アジアの優れた景観をアピールし、他の都市の模範となる優れた成果をあげた都市・地域・プロジェクト等を表彰するものだそうです。
 その他にも、サントリー地域文化賞、JTB文化交流賞、地域づくり総務大臣表彰など多くの賞を受賞しているそうです。(すごい!)
 町全体で、取り組んだ成果が、でているわけですね。素晴らしいことだと思います。旅の者としても町の人々の努力に感謝、感謝です。
 そういえば、昭和の街並みは、映画のロケ地にもなっています。映画「ナミヤ雑貨店の奇蹟」の舞台ですよ。「ロケ地ガイドマップ」には、ロケ地十七ヶ所を、写真と撮影時のエピソードを交えて紹介しています。
 豊後高田に来る前には、ぜひ映画「ナミヤ雑貨店の奇蹟」をご覧になってください。
ーーさて次は、ミュージアムを見学するかな。
 バスセンターのすぐ近くに、昭和ロマン蔵があります。この建物は、明治から昭和にかけて、大分県を代表する「野村財閥」が、昭和初期に米蔵として建てた、旧高田農業倉庫だそうです。
 駄菓子屋の夢博物館は、この建物の中にありました。博物館の前には、ボンネットバスや、オート三輪の他、昭和初期に走っていた自動車やバイクが、数多く展示されていて懐かしい。
 私は、小学生の頃は瀬戸内海の島に、よく遊びに行っていました。そこには、ミカン農家をしている叔父夫婦や従妹がいて、オート三輪に乗って、ミカンの収穫を手伝っていたのでした。だから、ミカンの収穫作業は速いですよ。専用のハサミで実の少し手前を切り、ミカンを手に取ってから、さらにヘタの根本からきれいに切りなおします。収穫したミカンは、首から下げたカゴに入れ、いっぱいになったら、オート三輪の近くに置いているキャリーという大きな四角いプラスチックの箱に移し替えます。時々、キャリーを納屋までオート三輪で叔父たちが運んでいました。そんな作業を従妹と話をしながら、終日楽しんでいました。
 その時に、このオート三輪の荷台に乗っていたので、それを思い出し、とっても懐かしく感じてしまいました。でも、もう少し荷台は大きかったようなきがするのですが……
 まあ、子供の頃の記憶というのはそんなものなのでしょうね。
 中に入ると、そこは駄菓子屋になっていました。懐かしいお菓子や玩具が並んでいます。奥に進むと、ブリキのおもちゃ、映画のポスターなど、昭和の生活用品が、所狭しと展示されていて気分はもう子供時代にタイムスリップ。ひとつひとつ当時を思い出しながら見ていくと、結構時間がかかるものですね。
 さらに奥に行くと、昔の教室が現れました。木の机や椅子、脚で漕いで音を出すオルガン、懐かしい教材など、よくこんなにたくさん集めることができたなと感心します。
 この建物の中には、昭和の夢町三丁目館も併設されています。
 ここは、映画「オールウェイズ三丁目の夕日」の世界。壁に空いた穴をのぞいたり、トイレの中に入ったりすると、いろいろな声が聞こえてきました。照明も、朝や夕方などに変化し、さまざまな景色に移り変わります。
 懐かしいものを、じっくり見ていると、時間がたつのを忘れてしまいます。時計を見ると、もうお昼になっているではないですか。
ーーザックに入れているクッキーを食べるか? ん? いや、何かここで食べる物があったぞ! 豊後高田は、そばの産地だそうですぞ。
 そうなると、ぜひ観光パンフレットに掲載されていたそば屋さんに行ってみないといけませんよね。iPadを開き、そば屋さんの位置を確認。
 商店街入口を過ぎて、右折したところに、高田そば「翔」がありました。
ーーここだ、ここだ。
 豊後高田そば認定店。そば打ち名人 、達磨の高橋邦弘氏のそば打ち職人養成を受講し、そば打ち三段を見事取得、認定店となったそうです。
 早速、お店を覗いてみました。お店はまだ新しく、清潔な雰囲気。カウンターに五席、四人掛けのテーブルが四席くらいだったでしょうか?
 お客さんは、一組いましたが、空席はたっぷりあります。四人掛けのテーブルに案内されて、メニューを思い出します。入ろうと決めている時は、前もってネットでメニューを確認しているのですよ。メニュー表が見えにくいので、苦肉の策です
「海老天ぷらそばのセイロをお願いします」
 少し待つと、美味しそうな、おそばのセットが運ばれてきました。
 早速、そばをすすります。
 細麺でコシがあり、美味しい! 大きなえび天を口に入れると、「カリッ!」と、いい音がして、良い香りが口中に広がりました。そば湯をいただきながら美味しいものを食べた後にのみ得られる満足感を味わいました。そこでしか味わえないものを頂くのも、旅の大きな楽しみですね。
 お腹も落ち着いたので、散策を再開しましょう。昭和の商店街を、再び、ゆっくり歩きます。それぞれの店舗ごとに、いち押し商品が、あるようなのですが、私は、よくわからないので、お店には入らず、昔ながらの店舗外観のみ、楽しませていただきました。
 商店街のはずれにあった昭和の町展示館に入ってみました。ここは旧大分合同銀行だった建物を利用しているとのことで、渋い建物の中に、懐かしい生活用品が展示されていました。
 豊後高田には、摩崖仏や、多くの歴史的建造物があるのですが、残念ながら、歩いて巡るのは困難ですので、今回は、この辺で失礼することにしましょう。

 歩くたび
 初めてなのに
 懐かしい
 高田の町の
 昭和の街並み
       秀翁

 あのバスセンターに戻り、待合室を通り抜け、朝降り立ったホームに立ちます。
ーー朝、ここに降りた時は、右も左もわからんかったけど、半日ウロウロしたおかげて、バッチリこの付近の地理が頭に入ったな。なんだか、高田の町がとても身近になったような気がする。これが歩き旅のいいところだな。
 豊後高田の町に別れを告げ、宇佐駅に戻ります。JRで中津駅に戻ると、ちょうど三時になっていました。
 まだ、時間があるので、福沢諭吉記念館に行こう!
 福沢諭吉記念館までは、約二キロ弱。アプリを起動し、中津駅北口から北方向に向かって歩く。妻と一緒なら「え~っ! また歩くの?」と、苦い顔をされそうです。
 今回は、左のアーケード商店街ではなく、駅前から、広い道を、ひたすら真っすぐ進みます。途中から道は細くなりますが、気にせず直進し、グーグルマップの指示に従って左折すると、道はもっと細くなってきました。やや不安を感じながら、やっと車が一台通れるくらいの路地を歩いていると、
「目的地に到着しました。お疲れさまでした。」と、いつもの明るい声。約二十分で到着。
 そこには、土色の土塀で囲まれた鉄筋二階建ての建物と、茅葺の古い民家がありました。立派な石の門には、「福沢諭吉旧居」と書かれています。
ーーこれは、立派な記念館だな。旧宅も残っているとは、すごい。ぜひ見学させていただこう。

福澤諭吉記念館

 正門から敷地内に入ると、左に旧宅、右に記念館があります。まずは記念館を見学させていただきましょう。
 記念館に入ると薄暗いので、足元注意!
 記念館の一階は、時系列に福澤諭吉の一生を辿った解説、二階には、福澤諭吉の、様々な側面にスポットを当てた展示となっていました。
 展示品としては、さまざまな書簡や肖像写真、福澤諭吉使用の羽織、「学問のすゝめ」初編 端書、初編 初版本(復製)などがありました。
 ここで、福沢諭吉について記念館で学んだことを紹介しましょう。
 福澤諭吉は、一八三五年に下級武士の次男として生まれました。一歳の時、父と死別。母子六人で中津に帰郷しましたが、貧しい少年時代を過ごしたようです。
 一八五四年、十九歳の時、蘭学を志し、長崎に遊学。翌年からは、大阪の緒方洪庵の適塾で勉強しました。
 一八五八年、藩命により、江戸の中津藩 中屋敷で蘭学塾を開いたのですが、これが慶應義塾のはじまりとのことです。
 一八六〇年咸臨丸で渡米。ヨーロッパ諸国を歴訪し、社会の制度や思想などの知識を深めました。その後、「学問のすすめ」など、数々の著書により西洋の考え方を広めたとのこと。
「学問のすゞめ」:全一七編
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」の書き出しで知られる福澤の代表的著作。
 当初は福澤が中津に洋学校(中津市学校)を開設するに当たり、中津の若者のために書いたものでしたが、やがて大ベストセラーとなり、一七編まで合わせて、三四〇万部が出版されたそうです。
 以前、大阪にひとり旅した時に、緒方洪庵の適塾は見学しました。大村益次郎や橋本佐内など、幕末に活躍した多くの若者が勉強した場所です。福沢諭吉もあの適塾で学んだのだと、彼らの熱意に感動しました。

福澤諭吉旧居
 福澤諭吉が、一歳六ヶ月の時、父が急死したため、母子六人で、大坂の中津藩蔵屋敷から、中津に帰って来ました。
 最初に住んだ家は、現存していませんが、宅跡として整備され見学することができるようですので、そこは後ほど見学することにしましょう。その後移り住んだ家が、現在残されている福澤旧居です。
 記念館を出て、庭を挟んで前にある、旧居に移動。かやぶき屋根の古民家と瓦屋根の土蔵がありました。こじんまりとした民家は、質素な生活が想像されます。 
 土壁の土蔵には、二階に格子窓があり、この窓際で、福沢諭吉は勉強をしていたとのことでした。土蔵の窓を眺めながら記念館を後にします。
 道を挟んだ反対側は広い駐車場になっていて、福沢公園となっていました。公園の右隅に説明板があり、福沢先生旧宅の図とあります。それには、福沢諭吉が幼少の頃、住んでいた家の跡と記載されており、家の輪郭が、石で型どられていました。
ーーさあて、まだ外は明るい。しつこいようだが、中津といえば、「からあげ」。中津からあげを、ぜひ食べてみたいものだわい。中津に来て、からあげを食べずに帰ったら、悔やんでも悔やみきれんわい。(ちょっとおおげさやったかいな?)
 公園のベンチに座って、これから、どの店に行くか決めよう!
 まずiPadを取り出して「中津からあげマップ」を拝見!
 中津からあげは有名なので、市内のいたるところに、からあげのお店が、あるのだと思っていたのですが、そうではなかった。
 居酒屋や食堂に、それぞれの味を工夫した、カラアゲがあるのであって、持ち帰り可能なからあげ店が、多数あるのではないようです。
 私は、ホテルで食べたいので、持ち帰り可能なお店を探しました。中津駅北口の近くに、一軒あったので、そこで買うことにしましょう。
 てくてくと来た道を戻って、駅近くのテイクアウト専門店に入ります。こじんまりとしたお店ですが、先客がいて、繁盛している雰囲気満載です。お店の中は、美味しそうなからあげの香りが満ち満ちていて、私の鼻は、ヒクヒク状態。
 大きなメニュー表があるので見てみます。
--う~ん。だいたいどこも同じかいな。特に変わったカラアゲはないみたいやな。
「砂刷り、もも肉、なんこつを二つずつください」と注文して待ちます。
 熱々のからあげを手に、ルンルン気分。ついでにスーパーで、必要物資とトリスハイボールを買って帰りましょう。
 お風呂に入って汗を流し準備完了! 一日、歩き回った後で、こうして汗を流し、リラックスした格好で、誰の目も気にせずホテルでの食事ができる、もう最高!
 部屋の中は、からあげの匂いでいっぱい、いっぱい!
 トリスハイボールを「ぐびっ!」と一口飲んで、思わず声がでる。
「うまい!!」
 次に、いよいよ待望の中津カラアゲを口に入れます。
「あれっ?」
「この味……」 
「まさか……」
ーー美味しいけど、これ、いつも四国の自宅で食べている味や!
 なんと、自宅の近所にある、中津からあげの店の味でした。どうも、チェーン店のようですね。
 最大限に膨らんでいた期待感は、シューッとしぼんでしまいました。でも、とっても美味しいカラアゲなんですよ。
ーーう~ん。こんなことがあるんやなぁ~ それにしてもやな~ う~ん……
 カラアゲや野菜サラダの食事を終え、今日も超早寝でした。

大分の旅 五日目 大江医家史料館

 今日は大分の旅の最終日。小倉港でのフェリー乗船は、二一時。それまで、かなり時間があります。かなり、かなり時間があるのです。
 毎度のことですが、フェリーを利用した旅の場合、いつも最終日の過ごし方に思案します。
 午後五時までは、ミュージアムを見学し、有意義に過ごせるのですが、五時以降が、行き場所がなくなってしまい、身の置き場所に苦労するのですよ。
 居酒屋にでも入って、お酒を飲みながら、店の人と話ができればいいのですが、これが苦手ときているんですよね。ひとりで飲んでいると、どうしても手持無沙汰になってしまうので、縄のれんをくぐることが億劫になります。(トホホホ)
 さあ、今日は、どんなことになるのでしょうか……
 そういえば、じっくり見学したい史料館を残していました。大江医家史料館です。
 中津藩では、九州で最初に人体解剖を行ったと、村上医家史料館で学びました。その人体解剖の話に戻りましょう。
 学生時代の教科書で、杉田玄白と前野良沢が、辞書もない江戸時代、苦労してオランダの解剖学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」として、日本で初めて解剖学所を出版したことを学んだ記憶があります。日本人なら、誰もが知っている話ではないでしょうか。
 また、杉田玄白は、その後「解体新書」翻訳中の苦労話や、刊行後の蘭方医学の動向について書いた「蘭学事始」を出版し、名声と富を得ました。
 このことにより、「解体新書」 杉田玄白というイメージを、多くの人が抱くようになったのです。
 ところが、事実はかなり異なっているようです。歴史小説の作家の中で、緻密な資料集めを徹底的に行い、史実に基づいた内容で有名な、吉村昭が「冬の鷹」という小説を書いています。

吉村 昭 (著) 「冬の鷹」

 中津を訪れる際には、ぜひとも、この小説を予習として、お読みいただきたいと思います。簡単に内容を紹介しましょう。
 前野良沢は、長崎に留学した際に入手した、オランダの解剖学書「ターヘル・アナトミア」を、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周らと、三年五カ月かけて翻訳し、「解体新書」を出版しました。
 しかし、発行時に翻訳者として記載されたのは、杉田玄白他数名となっていた。前野良沢の名が、世に知られるのは「解体新書」の翻訳作業の困難な様子を記した、杉田玄白の「蘭学事始」が世に出てからでした。
 前野良沢が「解体新書」に自らの名を出さなかったのは、その翻訳の不完全なことを自覚しており、それを恥として、許すことができなかったためと言われています。
 杉田玄白は「解体新書」を世に出したプロデューサーであり、中津藩医であった前野良沢が、真の翻訳者だったのです。
 このような歴史を念頭に史料館を見学することにしましょう。

大江医家史料館

 大江医家史料館は、代々中津藩の御典医を勤めた、大江医家の旧宅と史料を中心に、中津の医学・蘭学の流れがわかる史料館です。有名な「解体新書」の刊行など、オランダ語の医学書の翻訳から始まる蘭学者の誕生、中津における、種痘の実施に関する資料や器具などを展示しています。
 また、敷地内には薬草園も設置されているとのことです。この中津市にある二つの医家史料館は、医学・蘭学史の関係では、日本有数の施設と認知されているそうですよ。

 JR中津駅北口を出て、少し西に進み、寺町をゆっくり歩きます。約二十分で到着。外観は、村上医家史料館と同じような旧家です。中に入ると、係りの女性が近づいてきて、
「ちょうど小学生の団体が来ているので、裏の薬草園でお待ちいただけますか?」とのこと。
 途中、史料館の土間を通る時、二十名くらいの小学生が熱心にガイドの方から、説明を受けているのが見えました。
ーーそういえば、私もこの話を勉強したのは、小学六年生くらいだったかな?
 史料館裏には、約百坪くらいの薬草園があり、植えてある種類ごとに解説板が添えられていました。
 それらの薬草と説明を一つ一つ見ながら待っていると、約三十分程たって、中に案内されました。男性のガイドさんが、
「肌寒い外で待たせて申し訳ありません」
 と、しきりに誤っておられたので、こちらこそ恐縮してしまいました。女性のガイドさんに、「中で、一緒に聞いてもらってもよかったのに……」と話をしていました。
ーーそうよね。あの時、一緒に説明を聞いた方が良かったかな? まあ、こうやって段取りを話し合っていくのがいいのかも……
 早速、館内を見学させていただくことにしましょう。
「解体新書」の展示コーナーに行きます。手を伸ばせば、届きそうな普通のガラスの展示ケースに、無造作に展示されていました。
ーーえ~っ! こんなに明るい、普通の部屋に展示している。いいのかな?
 しかも、ありがたいことに、その「解体新書」のコピー本が、展示台の上に置かれ、自由に見ることができるのです。
ーーすごい! うれしい!
 胸ポケットからルーペを取り出し、詳細に見ていきます。
 現在、私たちが使っている解剖学の本とは、精密さは異なっていますが、かなりリアルな図が描かれていました。
 医療職という仕事がら、どうしても骨や筋肉に興味が集中してしまいます。まずは、骨について記載している、ページを探します。そこには、やや大雑把な全身骨格の絵が描かれていました。その中の、大きな骨については、名称が記載されていましたが、現在使用されている用語とは、かなり異なっていました。筋肉については、詳しい解説は、ほとんどありませんでした。(コピーされていたのは、原本の一部のようですので、原本には、詳しい解説があるのかもしれません)
 解説文も大きな文字で印刷され、江戸時代の書物というのは、医学書でもこういった形式なんだなと興味深く感じました。
 以前、本居宣長や松浦武四郎の記念館を見学したことがあるのですが、そこで展示していた書物には驚きました。現代の新聞の活字のような、極めて細かな文字で手書きで記録していたのでした。そのあまりの緻密さに「これは、どんなペンで書いたのだろう。この時代の人は、どんな視力をしているのだろう!」と妻と驚きあったのでした。
 その手書き本と比較して、あまりにも大きな文字だったので「もっと詰めて印刷できないのかな」と不思議に思ったほどです。当時の印刷技術の限界なのでしょうね。
 これが「解体新書」の内容なのかと、おどろく限りです。これが当時、画期的な書物だったのかと思うと、江戸時代の西洋医学が、いかに普及されていなかったのかが理解できます。
 漢方医学が、スタンダードだった江戸時代、五臓六腑の実際とはかなり異なる、腑分けの図が一般的だった時代。医学の進歩に貢献した人々に対して、感動と感謝の気持ちが沸いてきました。
 史料館の主な展示物
 解体新書
 重訂 解体新書
 和蘭全躯内外分号図
 華岡青洲画像
 華岡青洲所診画帳
 大江雲沢塾入門帳
 大江医家医則など           

 初めて「解体新書」を見ることができた感動を胸に、中津駅に戻ります。
 時計を見ると、十二時を過ぎていました。小倉行の乗車券を買って、次の普通電車は、一時過ぎ。
ーー少し時間があるので、腹ごしらえしておくか。
 待合室の椅子に座って、コンビニで買ったおにぎりにかぶりつきます。おにぎりを食べながら、中津、宇佐、高田での風景や感動を思い出し、少し寂しい気持ちになりました。
ーー耶馬渓には、ぜひ行ってみたいし、宇佐神宮は、もっとゆっくり時間をかけて巡りたい。豊後高田は、郊外の寺院や摩崖仏を見て回りたい。今度は、妻と来ることにしよう。とにかくこれは、そのための下見なんやから……
 おにぎりを食べ終えると、中津駅の南口と北口に出て景色を網膜に焼き付けながら、心のなかで「また来るからね!」と中津に別れを告げました。

 電車で約一時間、二時過ぎに小倉駅に到着。
 JR小倉駅から、グーグルマップの声を聞きながら、目的地に向かいます。目的地は、ゼンリンミュージアム。
 小倉駅からは、約一キロちょっと。街歩きを楽しみながら向かいましょう。小倉駅前に立って振り返ると、JR小倉駅の大きく開けた口の中に、吸い込まれるように、モノレールが入っていくのが見えます。
 最初に見た時は、SF映画に出てくる、未来都市のようで、感動してしまった。(田舎者で、すみません。)
 駅を出ると、すぐ繁華街で、モノレールの下を大きな道路が、駅から真っすぐに通っています。そして、その大通りと平行に、商店街が並んでいるのです。
 たくさんの人に混ざって、商店街を通ってみましょう。細い道の両側に、さまざまな店が、ひしめき合っていて、行きかう人も多く、さすが北九州小倉だなと驚きます。
 繁華街を抜け、右折すると、橋が見えてきました。そして、上方を見ると紫川の対岸に巨大なビル。どうも、ミュージアムは、このビルの中にあるようです。四国とは、ビルの大きさもデザインも異なり、見上げると首が過伸展して指がしびれそう。
 ビルの一階にある案内図で確認して、奥のエレベーターに乗り込みます。
 地図のミュージアムですから、もっと小規模で地味な、資料館のようなものを創造していたのですが、おどろきましたな。大きなビルのワンフロア全体がミュージアムになっているみたいなんですよ。さっそく行ってみることにしましょう。
ーーゼンリンは、儲かっとるんやなぁ~!
 と、思いつつ受付に行きます。

歴史×地図のロマンの世界へ!
ゼンリン ミュージアム

 エレベーターを降りると、正面に受付があり、優しそうなお姉さんが座っていました。
「ミュージアムを見学させていただきたいのですが、音声ガイドを利用させていただけますか?」
「音声ガイドの機器は、展示室の入口に設置していますので、ご自由にお使いください」
 ミュージアムは空いていて、私以外の見学者は、誰もいないようでした。ミュージアム内は、壁面に様々な地図が、豪華な額で展示され、美術館のような雰囲気。
 館内は、三つのコーナーに分かれており、約百二十点の地図が展示されています。

A 世界の中の日本
 紀元前から十五世紀ごろまでの人々の営みや世界観を映す地図の紹介。黄金の国ジパングが世界地図に書かれはじめた。
B 伊能図の出現と近代日本
 実測による正確な日本地図がもたらす日本の近代化
C 名所図会(ずえ)・観光案内図・鳥瞰図の世界
 交通の発達による観光の一般化により広まった鳥瞰図や観光案内図を紹介

 それぞれの地図について、詳しく音声ガイドで解説しているので、世界の中で日本がどのように認識されてきたのか、詳しく知ることができます。
 珍しい地図を一点一点、解説を聞きながら見学しました。解説が面白く、地図をルーペで拡大して見ながら眺めていると、ついつい時間がたってしまいました。(そうそう、ルーペも貸出しているとのことでした)
 古地図は、豪華な額の中に入れられているのですが、地図自体が芸術品のようで、とても美しく、ついつい見入ってしまうのです。
 世界地図は、書かれた年代によって形や、国の名勝などが、目まぐるしく変化しています。それぞれの時代の代表的な地図のほとんどを見学することができます。詳細を述べることはできませんが、小倉を訪れた際にはこのミュージアムを見学していただきたいなと思います。超オススメです。
 最後に、美術館仕様のコーナーを終え、明るい大きな部屋に移ります。
 広いコーナーの床面一杯に、原寸大で展示されていたのは「伊能中図」でした。
ーーあ~、これが伊能忠敬の日本地図か。すごく正確だな。
 壁面には、あのシーボルト事件で、幕府が押収した、伊能忠敬の日本地図が展示されていました。ちょうど係りの人が来たので質問させていただきました。
「この地図は、シーボルトが、帰国する際に、船に積んでいたものでしょうか? たしか、台風により船が破損し、そのため、積み荷を改めた際に、発覚した、国外持ち出し禁止の、あの地図なんですか?」
 係員は、
「ここに展示しているのは、残念ながら、複製なんです。でも、このゼンリンミュージアムの保管庫には、正真正銘、本物の、その時の地図があります」
「台風で、地図が汚れていたりしていないのですか?」
「いえ、とても綺麗な状態で保存されていましたよ。この複製と同じ状態です」
 と説明してくれました。
 シーボルトが、国外追放になった原因のひとつの、あの、伊能忠敬の地図が、ここにあるということ、その複製を見て、感激、感動。
ーーここに来て、よかった!!
 私が、このゼンリンミュージアムを見学したいと思ったきっかけは、一冊の小説でした。
 それは、平岡陽明さんが書いた「道をたずねる」という小説です。ネタバレするので、詳しい解説は、控えさせていただきますが、幼馴染との友情、家族愛、夫婦愛に溢れた物語です。 小説を読み終えて、初めて、これは、あの「ゼンリン」の話だったのか、とおどろきます。
 北九州を訪れる際には、ぜひ

平岡 陽明(著)「道をたずねる」

 を事前に読まれることをオススメします。
 ゼンリン ミュージアムには、喫茶コーナーが設けられています。時計を見ると、四時半を回っていたのですが、受付の方が、
「よかったら、喫茶コーナーで休憩して行ってください」
 と勧めてくれたので、お言葉に甘えて、休憩することにします。
 地図や解説が興味深く、あっという間に、時間がたっていましたが、ちょっと疲れたかなと思っていました。超サービス価格の、コーヒーを飲みながら、喫茶コーナーの係りの女性に、小説を読んできたことを伝えました。とても、喜んでいただき、
「私も、あの小説は大好きです。他にも、ゼンリンをモデルにした小説があるのですが、ご存じですか?」
 と言って、本を持ってきてくださいました。

小森陽一(著)「インナーアース」

 忘れないように、写メを撮らせていただきましたよ。(帰ってから、早速、読んでみました。ゼンリンと地下空間の話は、とても面白かったです)
 受付の女性、資料係りの男性、喫茶室の女性、皆さん「ゼンリン」を愛し、誇りに思っている気持ち、よくわかりました。素晴らしいことだなと感激。良いミュージアムだなと感謝です。
 ゼンリンミュージアムのある建物・リバーウォーク北九州の1階には、地図デザインのグッズ専門店マップデザインギャラリー小倉があります。
 ここでは、ミュージアムで歴史と地図のロマンの世界に触れた後の、おみやげにピッタリな、日本の古地図やゼンリンの持つ地図情報を使用し、デザイン化した、さまざまなグッズが販売されています。
 実は、ゼンリン・ミュージアムの入場券には、おまけが付いていて、このミュージアム・ショップで記念品をいただけることになっているのでした。折角なので、ショップに寄って帰りましょう。ビルの1階に降りて、同フロアで、多くのお店が並んでいる、ショッピングモールに行きます。
 ところが、ショッピングフロアのドアを開けてびっくり。
ーーこれは、す、すごい! すごすぎる!!
 ずっと上まで吹き抜けになっている広大な空間に、大きなクリスマスツリーが光かがやき、ここはもう異空間。生演奏の中で数多くのショップが、個性的な光線を発していた。
 ビルの一階にあるミュージアムショップと、なめていたことを反省しました。
 喫茶コーナーの女性が、
「私が、ご案内しましょうか?」と申し出てくれたのを、
「いえいえ、大丈夫ですよ」
 と言ったことを、この時大変、後悔したのでした。
ーーそうか、そういうことだったのか。
 ゼンリンミュージアムショップを探して、
 うろうろ ウロウロ
 ヨロヨロ モタモタ
 おっさんが歩き回ります。
 フロアの中は若い人たちの熱気と歓声、そして、光輝く数多くのショップ。
 ここかな? と思って店に入ると、おっさんとは無関係と思われる品々がいっぱい。
 それでも、なんとか見つけることができ、大きなため息がでました。
 引換券と交換に、何やら、地図の書かれた飾りをいただきます。それだけで帰るのも、ちょっと恥ずかしく、いろいろ、見るふりをしながら、じわじわと出口の方向に進み、失礼しました。
 迷いに迷い、ショップを出て外の空気を吸い、ほっと一息。
 ところが、
ーーあれれ! 暗くなってる!
 暗いと周囲が極端に見え難くなるので、背中から冷や汗が……
 それでも、何とか歩けるのは、小倉の街が、とても明るいからでしょうか?
ーーこれなら、大丈夫かな?
 とりあえず、超強力LEDライトを取り出し、道を照らしながら、小倉駅に向かいます。
ーーやっぱ、大都会は明るいなぁ~。
 心配したほどではなく、スムーズに小倉駅に到着。
 時計を見ると、六時を過ぎていました。結構、長い時間ビルの中で、うろうろしていたようです。
 乗船は、九時。時間はまだまだ、た~っぷりあります。とりあえず、何か食べておくことにしましょう。あてもなく、駅の地下に降りると、都合よく、ラーメン屋が目につきました。中に入って、とんこつラーメンを注文。普通に美味しかった。
 私は、うどんには目がないのですが、ラーメンは、あまりお店に入ったことはありません。腹が膨れたところで、これからの準備に取り掛かります。コンビニに行き、紙パックのワインと、音をたてずに食べれる、おつまみ、お茶、を買います。後は、お土産。頼まれていた「通りもん」を買って、準備完了。
 暗くなっているので、再びライトをザックから取り出し、小倉港に向かいます。途中までは、動く歩道のある、整備された歩道橋が続いています。歩道橋を降りると、暗い人気のない歩道です。ライトで足元を照らしながら慎重に歩きます。フェリー待合所まで約十分。見慣れた待合所に入り、一番後ろの、端のベンチを陣取ります。
 まだ、乗船まで時間があるので、私ひとりのようです。先に、乗船手続きの用紙に記入。これが、かなり難儀なんです。ルーペで確認しながら一字一字記入します。眼が悪くなって、こういう作業が最も苦痛になりました。
 さ、これでもう何も困ることはない。
 小倉のフェリー待合所は、松山のようなターミナルではないので、こじんまりとした感じ。受付があり、その前にベンチが並んでいます。私は、受付から一番遠い端っこに座ることにしました。
 ベンチに座って、紙パックのワインを開けます。ストローを差し込んで飲んでいるので、周囲から見ても、ただのジュースに見えるでしょ。ストローで、ちびりっとワインを味わい。思わず笑みがこぼれます。ビーフジャーキーをつまんで口に入れ、もう一つの準備。ブルートゥースイヤホンを耳に装着。スマホのアプリを起動し、オーディオブックでの読書モードに入ります。
 ちびりちびり、ワインを飲みながらの読書はいいものです。気が付くと、いつの間にか、紙パックワインが二本目になっていました。今度は、白ワインなので、チーズタラにおつまみを交換。やはり、赤ワインには、魚系統は合いませんね。
 時間は、経つもので、いよいよ乗船です。
いつものことですが、フェリーに乗りながら、ーーあ~あ、これで旅も終わってしまうのか……
 と、なんとも寂しい気持ち。青の洞門、宇佐神宮、豊後高田の昭和の町、解体新書などが、少々、アルコールが入って、いい気分になった頭の中をかけめぐります。
ーー今回も、いい旅だったなぁ。
 こうして、いい旅ができたことに、感謝
、感謝です。
 ヨロヨロモタモタ、ヨロモタ旅は続きます。

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