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【小松理虔】漁業に見る被災地復興の課題(2020年4月号より)

ゆるい関わりが、困難を社会に開く


 震災・原発事故から9年。本格操業再開を目指す福島県漁業の現状と、そこから見える被災地復興の課題について、いわき市小名浜在住の地域活動家・ライターである小松理虔さんに論じてもらった。

 2020年3月11日で、あの東日本大震災から9年となった。「復興五輪」が開催される年であり、来年の「震災10年」につながる大事な一年となる。常磐線全線開通を3日後に控え、いつになく印象的な3月11日になるのかと思いきや、ここにきてのコロナ騒動。追悼祈念式典も多くが規模縮小を余儀なくされた。
 福島県の追悼祈念式典も、内堀雅雄知事以下限られた数名が参加するだけの「コロナ対応」となった。新型コロナウイルスに対する言いようのない不安を抱えつつ、しかし、午後2時46分ばかりは心静かに迎えたい。そんな人が多かったのではないだろうか。
 やはり、9年経っても3月11日は心がざわつくものだ。メディアは「忘れない」と美しい言葉を並べるけれども、あの日のことを忘れられるはずがない。何より残念だったのは、政府があっさりと政府主催の追悼祈念式典を中止してしまったことだ。政府がどのような姿勢であの震災を受け止め、これからの復興をどう考えるのか。その姿勢がはっきりと示される祈念式典になると思っていた。
 コロナ対応で難しくなるのは誰もが予想できた。けれど、あれほどあっさり中止にしてしまうとは思わなかった。インターネット中継などをうまく活用すればできない式典ではない。むしろ、コロナの流行で家での生活を余儀なくされている日本全国の子どもたちに、震災と復興のいまを伝える大事なチャンスになったはずだ。中止という判断には、政府が震災をどう捉えているのかがにじみ出ていた。残念で仕方がない。
 さて、本項では、漁業を中心に、筆者の暮らすいわき市の復興の現状を見ていきたい。まずここ最近の気になる動きを紹介すると、3月11日の4日前の3月7日に制定された「いわき市魚食の推進に関する条例」であろう。今だに原発事故の影響下にある福島の漁業。水揚げ量は未だに震災前の2割程度に止まり、福島第一原発から出る「トリチウム水」の扱いでは非常に難しい局面に立たされている。大きな課題が手つかずのままだが、この条例は、苦境の続く浜通りの漁業にあって大きな希望になりうると感じている。
 具体的な中身は、毎月7日を「魚の日」として市全体が一丸となって魚食の推進にあたるというもので、今後、それなりの規模の予算が割かれ、様々な取り組みが行われることになっている。3月7日は「さんがつなな」が「さかな」を連想させることから条例の制定日とされ、実際、大きなイベントも予定されていた。コロナウイルスの感染防止のために中止となってしまったが、毎月定期的に魚食が推進されるので、魚食の普及と拡大、水揚げ量の増加に期待がかかっている。
 もうひとつポジティブなニュースがある。国の原子力災害対策本部が2月25日、福島県沖で漁獲される「コモンカスベ」の出荷制限を解除したことだ。原発事故後に本県の海産魚介類は43魚種が出荷制限の対象となったが、これですベて出荷が可能となった。
 このコモンカスベという魚については、中通り、会津地方の読者には説明が必要かもしれない。コモンカスベは、見た目は「エイ」によく似た魚。底引き網漁でよくかかり、ほとんどは煮付けで食べられる。トロトロっとしたゼラチンと程よく乗った脂身があまじょっぱい煮汁とよく合う。スーパーや鮮魚店で見かけたらぜひチャンレジしてもらいたい。規制がすべて解除されたことで「本操業」への道筋も見えてきた。漁業復興のための下地は、整えられつつある。

漁業復興阻むトリチウムと賠償


 ただ、話がすんなり進むかといえばそうではない。大きな課題が、筆者の見立てでは二つ、立ちはだかっている。一つは、福島第一原発で生成され続け、保管場所がなくなっていると言われている「トリチウム水(処理水などと呼ばれるが筆者はトリチウム水とする)」の処理の問題。もう一つが、漁業の自立を阻んでいる「賠償」の問題だ。これから順を追って見ていくが、筆者は決してこの問題の研究者ではない。地元で水揚げされる魚が好きで食イベントなどを主催する程度だが、まさにその地元の生活者の目線で、この問題を見ていきたい。
 まずはトリチウム水の問題だ。この問題は、よそのメディアでも非常に大きく取り扱われているため、関心を持ってチェックしている人も多かろうと思う。原発から排出される汚染水は浄化装置などを使って放射性物質を除去できるが、浄化装置でも取り除くのが難しい「トリチウム」を含んだ水が溜まり続けている。それがこの「トリチウム水問題」だ。
 トリチウムは放射性物質の一つで、福島第一原発構内のタンクに溜まり続けている。トリチウム水のタンクは約1000基、119万㌧保管されているという。東電の試算によると2022(令和4)年夏に満杯になるそうだ。
 このため政府の有識者会議が処理方法を検討。処理水を希釈して海に流す海洋放出と、蒸発させて大気に拡散させる水蒸気放出を提言する報告書をまとめた。特に海洋放出は、世界中の原発で行われており、確実に実施できるとしている。一方で漁業者は、風評被害が再燃するなどの理由で、この海洋放出を拒み続けている。それがこの問題の大まかな経緯だ。
 筆者はトリチウム水の海洋放出には現段階では反対の立場だ。賠償が長引き、漁業の自立が遠のく。漁業の自立が遠のけば、後継者がさらに不足し壊滅的な状況になってしまう。観光や地域づくりにも影響してくるだろう。
 筆者の暮らす小名浜は、漁業と観光業が基幹産業のひとつだ。できるだけ長く地元の漁業が持続し、子どもたちやいずれ生まれるかもしれない孫たちにも地元の魚を食べさせたいと思っている。1年でも早く漁業の自立を目指すべきときに、これまでの復活劇をスタート地点までひっくり返すような選択は全く支持できない。
 この問題の最大のポイントは、流すか流さないのかの決定権を漁業者が握っているかのように「見せている」構図そのものだと筆者は感じている。本当に漁業者が決定権を持っているのなら、漁業者の選択を後押しすべく、国や県が時間をかけてもさらなる用地取得を目指したり、ほかの処理方法を模索すべきだ。福島県漁連は、当初から「氷土壁やサブドレンを容認するからトリチウム水は海に流さないでほしい」と一貫して主張してきた。それを後押しすべきだろう。
 反対に、流すか流さないかを決めるのは「国」だというのなら、政府が責任を持って賠償案や再生案を提示し、丁寧な合意形成の上で、国が国民や関係各国に説明をすべきだ。国に「海洋放出したい」という欲が丸見えなのに、「漁業者に丁寧な説明を」などと言っているのが問題なのだ。漁業者に任せるなら任せる。国が責任を負うのなら負う。どっちつかずの態度で時間切れを待つつもりなのが見え見えなのだ。
 地元紙福島民報も、社説で「具体的な風評対策さえ明らかにしていない中での言及は、あまりに無責任だ。汚染水タンクの保管が2年後に限界になるのを口実に政府本位で期限を設け、時間切れで方針受け入れを迫る事態は断じて許されない。時間をかけて国民の理解を広げ、負担を分かち合う手だても講じた上で最終判断してしかるべきだ。政府が県内各地で始めた提言内容の説明に対し、県内放出に反対する意見や慎重な判断を求める声が相次いでいる。風評は本県だけの問題ではない。意見を聞く対象は全国に範囲を広げて当然だ。政府が時間を費やし、取り組むべき課題は多い」と厳しい論調でこれまでの流れを批判していた。
 このような声は、今になって発せられているわけではない。もう何年も前から言われていることだ。それでもなお打開策を講じるわけでもなく、国として責任を負うわけでも利害の調整をするわけでもなく、漁業者に責任をなすりつけてきたのが国である。ここにきて茨城県の漁連もトリチウム水の海洋放出に反対の声明を出したが当然だろう。 
 つまり、このトリチウムの問題は「合意形成プロセスにおける不作為」にある。メディアをみると、トリチウムの安全性や風評の問題にスライドしているが、他国は流している、トリチウムは安全だと言うほど漁業者を追い詰め、より「容認できない」状況にさせてしまうだろう。そのような記事ばかりを読めば「廃炉を邪魔してるのは漁業者だ」と感じる人も出てくる。漁業者が容認できない背景もしっかり取材して報じるべきではないだろうか。
 このトリチウムの後には、中間貯蔵施設の問題や高レベル廃棄物の処理、最終処分場の問題など、解決しなければならない難しい問題が山積している。トリチウム程度の問題でここまで揉めてしまうようでは、先々に不安を残すことになるし、もし仮に今のまま強引にトリチウム水を放出すれば、大きな傷が残ることになる。その傷は、長期的に見たとき、これからの廃炉の速度を遅らせることになると筆者は懸念している。しっかりと利害の調整を行い、福島の漁業の自立を見据えた再生案を、国には提示してもらいたい。

課題が多いほど孤立する当事者


 もう一つ考えなければならないのは「賠償」だ。筆者は、この「賠償」が漁業者の自立を阻む壁になっていると感じている。一言でいえば、賠償があることが漁業者を救いもするが、漁の回数を減らし、水揚げを阻んでしまうというジレンマがあるのだ。漁業者には東電から休業補償が支払われる。漁に出なくても水揚げがなくても賠償が支払われるので、一部の漁師にとっては漁に出る理由がなくなってしまうというわけだ。
 もちろん、今でも福島県産の魚は価格が安定せず震災前の価格を下回っている魚種も多いと聞く。一定の補償は必要だろう。問題は、賠償が、漁業を活性化させるものではなく、生活補償のようなものになってしまっていることだ。震災前のようにガンガン漁に出て水揚げしたいという漁師と、今のままのペースで漁は続けるが賠償が切れたら廃業するつもりだという漁師が、同じ制度のもとで漁業を営まなければならないというところに課題がある。
 トリチウム水の放出によってどのような影響が予想されるのか、その場合の対応策はどのようなものを国として用意しているのか、将来的にいかに賠償を脱して自立を図っていくのか、詳細を詰めなければならない課題は少なくない。賠償のある漁師と、福島県産の鮮魚を堂々と扱いたい水産業者との認識の違いも大きくなっている。同じ水産業同士での軋轢を作ってはいけない。再生プランや賠償のあり方などについて、国があてにならないのであれば、「県」がリーダーシップを持って独自に再生案の策定などに力を果たしてもらいたい。
 間接的にでも漁業・水産業に関わっていると、まだまだ復興の道半ばであることを強く実感する。たしかに大きな魚市場ができ、冷凍設備なども震災後に完成した。沿岸部には屈強な防潮堤が完成し、海沿いの街には新しい住宅地ができた。けれど、それらはあくまで「ハード」が整備されただけだ。容れ物の「中身」がまだない。それでも行政的には、復興は完了したことになるのかもしれない。復興を実感できている人と、まだまだ再生の途中だという人たちの認識も大きくなる。
 以前は同じ「被災者」として一体感を持って取り組めたことも、課題がさらに難しいものとなり、一般の人たちからの関心が薄まれば、よりその課題は当事者だけに背負わされることになる。「漁業者の問題は漁業者が解決すべき」、「被災地のことは被災地で考えるべき」と切り離すような感情も生まれるだろうし、課題が難しくなるほど、「素人には関わりにくい」、「当事者性の強い人や専門家がしっかり考えてほしい」と思う人も多くなるだろう。
 このように、課題が多くなるほど、外側からの関わりしろが作りにくくなり、それに伴って当事者が孤立してしまうわけだ。漁業者が置かれている状況が、その最たるものだろう。

カギを握る「共事者」の関わり


 そんな中で筆者は、ゆるい関わりを取り戻すことが必要だと感じている。「当事者」とされる人たちの関わりや「専門家」や「支援者」だけでなく、自分は直接被災していないという人や、漁業とは直接関係ないと思っている人たちにも、「自分ごと」として感じてもらえるような仕組み、関わりがあるはずだ。トリチウム水の放出について、知り合いの漁師から、こんなことを告げられたことがある。「福島の復興に大きく関わることを、漁業者だけじゃ決められない。国の責任でやってほしいし、国民みんなで考えるべき問題じゃないか」と。
 課題が大きいほど社会で支えなければいけないのに、課題の重さが関わりにくさを生み出す。SNSには当事者に憑依して異論を排除する声が投稿され、賛成・反対で二分化される。その裏で、当事者はさらに孤立する。孤立した声はますます聞こえにくくなり、関心の低下を生み、課題の解決を遅らせてしまう。まさに孤立のスパイラルだ。
 スパイラルを脱するために必要なのは、当事者性の高さや専門性にとらわれない道だと思う。ふまじめで個人的な興味や関心、参加のためのハードルの低さや、誰もがワクワクするような魅力的な場。それらが、既存の当事者の枠を超える新しい関わりを作り出す。筆者は、そのような部外者の関わりを「共事」と呼んでいる。当事者として対峙しているわけではない。けれど、関わりがないわけではなく事を共にはしている。共事者がもつ「ゆるさ」が、困難を抱えた人たちの新しい依存先になるかもしれない。当事者は課題に接近する。共事者はむしろ距離を取り、ふまじめに自分の関心や興味で動く。
 当事者だけでなく「共事者」も、復興のカギを握っている。徹底して寄り添うか、絶対反対か。様々な課題が二分化されるなか、共事的な「わずかな関わり」を許容することが、当事者の困難を社会に開き、新たな関わりを作る回路になるのではないか。廃炉までの道は長い。震災復興をめぐる課題を、広く社会に開くような議論をこれからも作っていきたい。


 こまつ・りけん 1979年、いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト(地域活動家)として、地域に根差したさまざまな活動を展開している。『新復興論』(ゲンロン叢書)で第18回大佛次郎論壇賞を受賞。編集・ライターとして関わる「いわきの地域包括ケアigoku」で2019年グッドデザイン金賞受賞。
twitter:https://twitter.com/riken_komatsu




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