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ユージーン・スミスが残したのは写真だけじゃなかった。映画『ジャズ・ロフト』で体感する1950~60年代のNY、異能たちのセッション

2021 年10月15日より、東京・渋谷のBunkamura ル・シネマを皮切りに映画『ジャズ・ロフト』(原題:The Jazz Loft According to W. Eugene Smith)が全国公開されます。ジャズと題名にあるので音楽映画であることに間違いないのですが、その元となる音源を残していたのは……世界的写真家のユージーン・スミス!  音楽評論家の藤田正さんにお話を伺い、注目の映画をご紹介します。
トップ画像 ©1999,2015 The Heirs of W. Eugene Smith.

『ジャズ・ロフト』予告編

あちこちで奇才、異才が集った1950年代ニューヨーク

――ユージーン・スミスは、世界的に知られるフォトジャーナリストです。私たち日本人には、彼が熊本県・水俣で撮影した写真がもっとも知られているでしょう。そのいきさつは、ジョニー・デップ主演で日本でも上映中の映画『MINAMATA-ミナマタ』に詳しい。そんな彼が、ニューヨークで暮らしたロフトでの「ジャズの現場」を撮りためていたと。そして、残したのはそれだけじゃなかった……

藤田 話には聞いていたけど、これほどまでとは知らなかったから驚きました。写真家だからたくさんのフィルムを残しているのは当然として、大量のオーディオ・テープも発見された。1999年にユージーン・スミスの研究者であるサム・スティーヴンソンさんがそれらをスミスの写真アーカイブで見つけたのがコトのはじまりだそう。まず2009 年にスティーブンソン氏による書籍“The Jazz Loft Project: Photographs and Tapes of W. Eugene Smith from 821 Sixth Avenue,1957-1965”が発表され、これを元に公共ラジオ局WNYC とNPR が全10 回のラジオ・シリーズを放送。当時番組の製作・脚本、ホストを務めたサラ・フィシュコさんがこのドキュメンタリーを監督しました。

――以前紹介した『Bille ビリー』や『サマー・オブ・ソウル』も貴重な資料の掘り起こしでつくられた映画ですけど、アメリカでは眠っているお宝資料がまだまだありそうですね。

藤田 そうだね。権利関係の問題で手を付けられていないものや、発見されていない資料もあるだろうね。

話を本題に戻すけど、1950年代~60年代、ニューヨークではジャズが大きく変わろうとしていました。チャーリー・パーカーらによる音楽革命「ビバップ」が切り拓いた「小編成による即興演奏」のスタイルが本場ニューヨークの若いジャズ演奏家に浸透して、「個の表現」の研鑽におのおのが励んだ時代。それまでとは違う音を求めてミュージシャンはロフト・アパートメントのような場所に集まり、セッションを繰り広げていたんです。それを象徴する場所の一つが、ユージーンが住んだ「6番街のロフト The Sixth Avenue Loft」でした。

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©2009, 2015 The Heirs of W. Eugene Smith.

――グーグルマップで調べたんですけど、住所はちょうどチェルシー地区にあたります。

藤田 そうだよ、そこが重要だよ。

――え? なにがですか?

藤田 おいおい、1950年代のニューヨーク・マンハッタンっていったら、アンディ・ウォーホルがいたでしょう。

――ああ! そうですね!

藤田  ウォーホルはアルバム・ジャケットを何枚もデザインしているんだけど、ジャズのアルバムもかなり手掛けてる。『Progressive Piano』(1955年/V.A.)とか、ケニー・バレル『BLUE LIGHTS』(1958年)などが有名。ウォーホルはもともと広告デザインをしていたから、さすがの艶っぽい出来栄えですよ。

――絵画ではジャクソン・ポロックとかマーク・ロスコらのニューヨーク・スクールの動きもありますね。

藤田 音楽に限らず、文学やアートなど、さまざまなシーンの才能が集まって、時代を変える動きがNYのあちこちで起こっていたのがこの時代なんです。そして各分野が単独で存在していたわけじゃなく、互いに影響しあっていた。そこをまずは抑えておかないと!

――はい、考えるだけで、ゾクゾクします。

藤田 そして、チェルシー周辺はいまではおしゃれエリアとみなされてるけど、当時は、マンハッタンのいわば「周縁部」だからね。無名の画家やミュージシャンが大都会に活動拠点を得ようとするのなら、賃料の安い場所を見つけるしかないじゃない。

――たしかに問屋街だったり、かつては工場や倉庫が多かったエリアです。

藤田 ユージーン・スミスが住んだのは、花の問屋街の一角にある商業用ビル。1957年に家族と住んでいたNY郊外の一軒家を離れてひとりロフトへやってきて8年間拠点とします。はじめ、ビルの3階から5階を借りていたのはデイヴィッド・X・ヤングという若い画家で、もともと音楽家志望だった彼がピアノを持ち込んでミュージック&アートのスタジオへと変貌させた。彼もジャズのアルバム・ジャケットを手掛けているよ。

そのデイヴィッドが部屋の又貸しをする。その最初の2人が、映画でも重要な役割を担うホール・オーヴァトンとトランぺッター/ピアニストのディック・キャリー。オーヴァトンのスペースを一部、借り受けたのがユージーンでした。

マッド・サイエンティスト!?  写真家の異常な執着

――「6番街のロフト」にはすごい人たちが出入りしていたそうですね。

藤田 チャールズ・ミンガス(ベース&ピアノ)や、ズート・シムズ(サックス)らビッグ・ネームも顔を出すほどだったというからね。セッションも彼らの目的だろうけど、ま、ロフトにはもう一つお目当てがあったはず。そちらは、映画を観てご確認ください。

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ズート・シムズ ©2009, 2015 The Heirs of W. Eugene Smith.

――ユージーンはロフトに住むようになるや、ここでなにかが起こっていることに気付く。

藤田 そう、はじめは純粋に写真を整理したり暗室作業をする仕事場として借りたのだろうけど、ロフトが特別な「現場」だと気付いた。その嗅覚はさすがのジャーナリストですね。そこから、ロフトで撮影を始めるだけでなく、オープン・リールのテープ・レコーダーを使ってありとあらゆるものを録音する。ふつうに考えれば、完全に違法行為をおこなって、まさに、あらゆるものをですよ!

――異様ともいえる執着は、彼の仕事に対する姿勢からもわかります。

藤田 写真家の仕事術が明らかにされるのも本作の見どころです。常に完璧を求める彼の制作姿勢は、編集部との対立のタネになり、それゆえ専属写真家として活動していた「タイム」誌の仕事さえ失った。まあ、キャプション、レイアウト変更も許さないのは編集者視点からは絶対にありえないけど、世界のトップといわれる人はそれぐらいの意思もないとねぇ。

――映画には、ユージーン自身が被写体となった写真がでてくるので、これってだれが撮ったんだろうって思ってたんです。そしたら、どうもセルフ・ポートレートのようで。下の写真はキメキメ過ぎる!

藤田 カメラを何台も並べて……この1枚からもロフトでの記録に対する周到さが読み取れるね。

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「6番街のロフト」でのユージーン・スミス(セルフ・ポートレイト) ©1959 The Heirs of W. Eugene Smith.

ジャズ・ジャイアントのリハーサルもつぶさに!

――そして、ユージーン・スミスゆえに残された音楽の誕生の現場が映画後半に登場します。

藤田 映画の要となる、ホール・オーヴァトンとセロニアス・モンクによる、名ライブ『セロニアス・モンク・オーケストラ・アット・タウン・ホール』(1959年)のための編曲の打ち合わせ~リハーサル。それが「6番街のロフト」で行われていたなんてね。 ※トップ画像がモンク・テンテットのリハーサルシーン

ピアニストのモンクは、ビバップの最初期からジャズ改革の先頭に立ち続けた一人。オーヴァトンはクラシックが専門ではあるけれど、ジャズのアレンジもこなした。彼らのやりとりを知って、ふたたび完成版のライブ音源を聴くと感慨もひとしおです。

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セロニアス・モンク(左)とホール・オーヴァトン
Photo by W. Eugene Smith, 1959 ©The Heirs of W. Eugene Smith.

Little Rootie Tootie from The Thelonious Monk Orchestra at Town Hall (1959年)/映画『ジャズ・ロフト』で名ライブの舞台裏が明かされる!

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『ジャズ・ロフト』
 10 月15 日(金)よりBunkamura ル・シネマ他全国順次公開
公式サイト : https://jazzloft-movie.jp/
配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム

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