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小説「ポプラで待ってる」

 ドア閉まります。黄色い線の内側までお下がりください。照りつけるプラットホーム。今日も明日も明後日もおそらくこれから先、半永劫的にものを乗せたその箱は肉塊を錘として次の目的地まで運ばれる。ガタンゴトン。ガタンゴトン。そこにはモラルと生活に摩耗された、無意識の死を選んだ玄人達が形骸をなして混在している。顔の節々には残酷にも一刻一刻と刻まれたであろう決して逆らえない、不可逆的な時間という刻印が彫り込まれている。肉体と精神とがどんどんと距離をとる。ガタンゴトン。ガタンゴトン。なぜなら心は決して運ばれはしないのだから。どこに置いてきたのだろう。それとも誰にも見えない金科玉条なものとしてどこか遠くに隠しているのだろうか。置いてきたというのなら私が感じるこの蟠りはなんだろうか。囚われた心は暴君として姿を変え君臨し、肉体という領地を制圧する。

 先程まで車内を一瞥していた余裕もなく彼女の頭の焦点は崩れていった。治外法権もへったくりもない。まるで己の澱みに溺れ、沈んでいくかのように呼吸が苦しくなっていく。降りたい。少しでも動いたら吐いてしまう。吐いてしまったらどうしよう。
 ガチャ。その刹那、ギアが変わる音が脳裏に嚆矢として突き刺さる。抑えていた澱みが今にも溢れんとするばかりに活発になる。不快の波がとめどなく彼女を包み込む。気持ち悪い。動悸が上がる。包摂しきれなくなった体が反射的に呻く。二回嘔吐く。好奇の視線が彼女の身体を嬲りだす。目をつむるしかない、逃げ場にすら逃げ場を失った彼女が焼石に水のごとく重なる。頭が真っ白になっていることすら意識できない。
 いつものことながら瓦解した彼女は目的地よりもはるか手前の駅で下車した。ホームに出ると、四方からは蝉の忙しない鳴き声が混じり合い、その音はさながら小節をなしていない児戯な音楽家のようであった。
 この日は俗に言う猛暑日で、彼女の住む世界町は全国で二番目に暑かった。
 「し、篠雪さん?」
駅のホーム、蝉の殷賑をかきわけた方から彼女は声をかけられた。伏せた顔を呼ぶ側に向ける。彼は屈託がありすぎてその責務を放任したような強引にも近い微笑で話しかけてきた。
「や、やっぱり篠雪さんだ。雰囲気がその、似てる人がいらっしゃるなって思ったんですよ。なんか急に声かけてすいません。お疲れ様です。」対し、彼女は社会的な顔をつくり、建前な話をする。
「あー薫、お疲れ様。そろそろ会いたいなって思ってたんだよ。奇遇。」
「本当ですか、奇遇ですね。」
「風邪大丈夫なの、ちゃんと食べてる?また痩せたんじゃない。」
「この前は急に休んでしまってすいません。はい。食べてますよ。篠雪さんも家に帰ってちゃんと寝てください。いくら仕事とは言っても事務所で寝るのはちょっと。いや、人の私生活に口出す権利なんてないですよね。すいません。」
「いいのいいの、私休みだったから入れたし。じゃあ次からは薫の家に泊めてもらおっかな。」
「篠雪さん家遠いですもんね、僕はいいですよ。ポプラからも近いですし、すぐそこなのでいつでも待ってます。」
 この会話には抑揚がなければ終止もない。いわゆる心がない。そこにはこう言えばこう返すというプログラムのような定石があるだけだ。
 彼とわかれた後、彼女はトイレに直行し嘔吐した。それは吐くことまでが決まりきった毎度の筋書きのようなものだった。今さっき会話したはずの内容がぼやけている。何を話したんだっけ。湯掻いた記憶の輪郭はボヨボヨな稜線を描き、笊から流れ出る水のように彼方へと落ちていく。
 私は仕事に行かなければいけない。そんな現実が日照りの空とともに、空々とした彼女の胃を締め付けた。
 篠菱雪が働くポプラまでは彼女の住む世界町から電車で乗り継いで片道約一時間半はかかる。往復で考えると一日の八分の一を費やしたことになり、更に彼女は発作が起こるであろうことを想定し、仕事は正午からであるのに三時間前の九時には家を出るという始末である。
 吝嗇家の彼女は買った単行本をいつも何冊か持ち歩いているが、結局発作が起こってしまうためそれを読むことはなく、いつも徒爾に終わってしまう。 
 先日駅で偶然会った謙虚で色白で細身の青年は、同じくポプラで働いている花崎薫という大学生で、どうやら彼女が降りた駅の辺に住んでいるらしい。
 彼女は嫌な雨が染み込んだTシャツを透かすように冷房を浴び、各駅停車に揺られ擦られなんとかポプラへと向かうことができた。
 その日は珍しく雨が降った。干天続きだった町に降り注いだ慈雨は彼女の内奥の蟠りを一つの意味ある直線として結実させつつあった。
 「あら雪ちゃん今日は早いね、おはよ。」
そう言って話しかけてきたのは雪の上司である内山太であった。野太い声に頓狂で視点がまったく定まっていない斜視な眼に、大きな図体の割には小さな口をパクパクさせて話す外貌はさながら出目金魚である。
「おはようございます。」
彼女は無機質に近いあいさつをした。
「あれびしょびしょ。篠雪ちゃんて意外と多汗症?ふふ。でも篠雪ちゃんはさ、肌が白くて透明で綺麗だし、見ているだけで清涼感があるよ。十代に見える。名は体を表すっていうけどほんとだよね。俺なんて太って呼ばれてなかったらここまで太ることはなかったと思うんだよ。これは一種の先入観だよね。怖いねえ。あぁ腹減った。」
 彼女は先入観という言葉に痛く共感を覚えた反面、弁駁したい気持ちになったが抑え、気持ちを遮断することでにこやかに応えた。
「内山さんはそのままでいいと思いますよ。もし内山さんガリガリの痩身で太ですなんて言ったら、それこそ滑稽で目に余るものがありますよ。だから絶っ対に痩せないでくださいね。」
絶対に痩せないでくれ。それだけは彼女の本心から出たものだった。
「篠雪ちゃんは優しいなぁ。ほかのやつなんて僕のことを陰で金魚って呼ぶんだよ。篠雪ちゃんは優しい。」
 なんと愚かな口述か。この世に純然たる優しさなんてないのに、大抵の優しさなどというものにはどこか同情めいた慰藉や自意識が介在し、利害関係のない相殺的優しさなどはまず第一にないのだ。ただ例外はある。それは母性であり、母性といっても血の繋がった、一般に母性がくすぐられるなどと言った表層的な薄い代物とは一線を画すものとだけ言っておく。しかしそれにも限度がある。限度を超えた優しさは毒となりその身を侵食する。つまり、母性を除いた純然な優しさとは普通の対人関係ではまず生まれないものなのである。なのにこの金魚面は安安と。魚心あれば水心。この金魚に対してだけには間違っても水心は生まれないだろう。と彼女は思った。
 「雪ちゃん、この仕事これからしてもらえる。ぎょめんね。」
殺意を超えた虚無が彼女の眼交を通過した。室内に無尽に流れるABBAのGimme!Gimme!Gimme!がそれをより一層具象し、何倍にも増して虚無を感じさせる起因となった。この日は二十二時手前に仕事を終え、自宅に着いたのは日付が変わる頃だった。
 彼女の家は鄙びた世界町の郊外に位置づけられたところにあり、平屋で、何もないことだけがあるようなそんな空疎な家だった。母親と二人暮らしで、いつも疲弊してこじんまりとした母の顔を見ると、その生活がいかに糊口をしのぐ生活かということが伺えた。父親は彼女が物心つく前に離婚していた。理由は明確には触れないが、父の彼女に対する性的暴行であったとも言える。
 母親は平日、近くのネジ工場で蝉が鳴き出し鳴き終わる頃の時刻まで働いていた。片親とはいえ彼女の母の彼女に注ぐ愛情には並々ならないものがあった。  
 元々父方の祖父が今は当然無いが、老舗問屋の家系だったため比較的裕福であり、彼女の欲しいものは大体なんでも手に入ったし、彼女がしたいことはなんでもした。しかし財のほとんどが酩酊になった父の酔代で消え、彼女が裕福だったのはそれ以前のほんの一時の所産に過ぎなかった。それでも母は生活の窮を直視しないようにしているのか物質的な愛なのか、なけなしのパート代から彼女にものを与え続けた。
 中学に上がる頃一度、彼女は母に『なんで私の物ばかり買うの。少しは自分が欲しいものも買ったらいいのに。』と言ったことがあったが『雪ちゃんの欲しいもんがお母さんは欲しいんや。』と言われて爾来、彼女は物を欲しがらない子供へと成長した。
 それは高校になると更に強くなり、極度に物を忌み嫌い、蛇蝎視するようになった。私が存在しているから母親はこんなにも難行苦行しなければならないのではないか、私という物質そのものが浪費の根源なのではないか。そんな偏った思想は人間という存在までも物質と認識させ、人間というものほど悪魔な浪費家はいないと決めつけた。同時に希死念慮の沼へと足を忍ばせ始めたのもこの頃からであった。しかしいつも天気の話や何が食べたいかを自分のためだけに話す母の笑顔に誓ってそんな事は到底打ち明けられるはずもなかった。
 しかしはたから見ればそれは少し吝嗇なだけの実質、堅実でしっかりしたお嬢さんという無名無実な外郭だけが独り歩きした。そんな彼女を母は誇りに思ったし、たとえ彼女が非を犯してもきっと何か彼女なりの理由があるのだろうと決して彼女を責めることもなく、相手側に非があると決めつけた。なぜなら母親にとっては一人娘である雪だけが唯一の生きがいであったから。良くも悪くもそんな利他的な母親だった。
 非というのは彼女が高校時代、閉鎖された空間、いわゆる教室という一箇所に人間というものが蝟集する状況に不快を覚え、耐え切れなくなり教室を無断で飛び出し、そのまま何も言わずに早退したという事である。そんなに浮き彫りにする話でもないと思うが、彼女にとっては克明な事件であった。それは始まりでもあり終わりでもあった。自分でもコントロールできない何かが体内で萌芽し、発育されていくのを彼女は緊緊と感じた。
 爾来彼女は不登校になり、元々友達の少なくなかった彼女の家には度々複数の生徒が訪れた。しかしそんな行為が彼女を希死念慮の深淵部へと浸させた。               
 私は今こんなにも多くの人の有限な時間を費やしてしまっている。彼女には他者の時間という観念すらも浪費とみなすようになっていた。
 しかし友達というものは時として非情で付和雷同な生き物であって、それは日和見という花を開花させた。兎角、複数というものが良くなかった。一人が行くのを辞めた途端それは伝染していって、しまいには誰一人として来なくなった。時間が経つにつれ彼女の存在は忘れられ、チャイムもすっかり鳴り止んだのであった。
 しかしそんな薄っぺらい人付き合いをしてきた自分を彼女はこの時ばかりは喜んだ。それまでのフラストレーションが弾けたとでも形容しようか、とにかく彼女は自分を取り囲むものや環境から脱却したかった。それは明確な理由は無いが心機一転引越しをする時の感覚に似ていた。彼女は高校2年の冬、学校を中退した。
 それからというもの、存在という名の吝嗇と生活という名の吝嗇との相剋な戦いがはじまった。元々親思いな彼女は自分が無為徒食な生活を送ることを許すことができる訳もなく、働いた。無想にさえなればきっと症状は無くなるに違いない。しかし事実、その場しのぎにすぎない処世術では彼女の捩れた精神は直ることもなく変形したままだった。だが必死に働いた。高校を辞めて三年、四年、五年と月日は荏苒と流れるように過ぎた。それは彼女が成人してから幾年が経ったのか定かではないほどに。
 どうして彼女がわざわざ一時間半もかけて郊外電車にまで乗ってポプラに通うのか、その理由は至極当たり前のものであった。電車が混まない、人が少ない時間帯に出勤できるといった理由もあったが、単純に高校時代の友人に会いたくなかったからである。それに彼女には忘我になる自信があった。旧友に会いたくないといった時点で自意識が露呈してしまっているような気もするが、彼女にとっては学校を辞めたという行為自体が、己を苦しめる閉鎖的環境、すなわち学校という妄念を断ったという事実が、彼女を少々過信させすぎた。しかし自業自得という言葉はこの際もっとも相応しくないだろう。なぜなら彼女は優しすぎたのだから。
 ピンポーン。ピンポーン。久しく聞くことのなかった音が部屋中を響動めいた。家具がが少ないためかその音はよけいに増幅して聞こえる。こんな夜中に誰だというのか。彼女は訝りながら脱ぎかけの衣服を慌てて着直し、待っている訪問者のためではなく、就寝している母親を起こさないために脱衣所からそっと玄関へ向かった。しかしその足取りはあまりにも無駄がなく快活で、さながら予定していた来訪を迎え入れる様にも見て取れた。
 今では珍しい閂型の施錠を開けると、そこには街灯に照らされて一層青白くなった青年が申し訳なさそうに佇立していた。
「あ、こ、こんばんは。来ちゃいました。」
彼の丸い水晶のようなその大きな二重の目は見ていると自然に吸い込まれてしまいそうな何か呪詛的なものを感じる。彼女は普段人間に感じている嫌悪感なる類のものを一切感じていなかった。それは決して恋慕でも情欲でもない純粋な好奇心に近いものであり、またなにか歪な繋がりのようなものでもあった。あぁ、なんて綺麗な瞳をしているのだろう。舐めたらどんな味がするんだろう。
 彼女は家に居る分には症状が軽く寛解で、どこにでもいる快活な女のようであった。それは己を蝕む桎梏が少ない環境にあるからであって、はたまた忘我を試みている証拠でもあった。自我の脱却こそが症状の緩和に繋がる。そう考える彼女であったがしかし、油断して雑踏や密室になど押し込まれるとすぐにまた吐き気等の症状が現れるのであった。
 彼と目を見合わせているうちに彼女の脳内でGimme!Gimme!Gimme!が際限なく流れ出した。ギミギミギミアマ~ンアフタッミッナ~イ、ウォンサムバディヘ~ルプミチャ~ザシャドザウェ~イ。どこか耳に残っていたこのメロディを普段音楽を嗜まない彼女は素直にいい曲だと思った。彼女は当然歌詞を知る由もなかったのだが、どこか親近を覚えるのであった。
「こんばんは薫、いらっしゃい、入って。」
彼女は流動的に返答した。
 予想していないなかった流れるような受け答えに、逆に彼が尻込み、素っ頓狂うな、ひょっという顔になった。彼の本能が一瞬歓迎を躊躇させ、寸分の間が生じた。しかしすぐに若輩特有の良からぬ思想が彼を微笑ませ、「や、夜分遅くにすいません。おじゃまします。」と好青年風な返答した。
彼は篠菱雪で手淫したことがないでもなかった。そして二十一歳にして尚、きおとこであった。
 紺碧の空。彼の手先。鋭利に光った銀色のそれが彼女の目にやけに染みた。

♪~私が求めているものは真夜中過ぎに傍にいてくれる男
  私の心の闇を追いやる手助けをしてくれる男
  私が求めているものは真夜中すぎに傍にいてくれる男
  暗闇から連れ出して夜明けに私を連れていって
 
 その日花崎薫は病院に行くために駅に向かっていた。照りつける日差しに彼は成す術もなくどこまでも受身な体面はその順応さと同量に、むしろそれ以上にやましい横溢とした反骨の色を忍ばせているようであった。受身すぎるということはつまり相手に絶対的な内奥の自分を見られないように守る自己防衛本能に長けているか、はたまた相手を自分より下に見ているために本心を見せたところで自分の意図するところを理解されるはずがないという諦念、もしくはただ混沌とした自分の心中を上手く言語化することが出来ずなんだこいつと思いながら愛想で誤魔化しいる、といったいずれも自分を過信しすぎて見繕った自意識の肥大が根源なのである。そんな恭順な受身とは違った彼の用意周到な自意識は過剰を極め、そのどれもを含ませているようであった。
 謀反を企図する策士のごとく隠しきった彼のたなびく雲のような腹蔵。それは雲一つない今日の空に似ていないようで似ている。熱感したコンクリートが彼の歩行を速めた。
 駅に着くと彼は、高熱とした雑踏の中に佇むひんやりとした冷たい蒼白を見た。彼は一目にそれが篠菱雪であることがわかった。逡巡する暇もなく彼は彼女に話しかけた。一瞬彼女は怪訝そうな、かといって怒りとはまた別種のなんとも名状し難い表情を見せたが、それはすぐにいつもの微笑へと変わった。
 たわいもない会話に当然花が咲く訳もなく、それは同じ職場でたまたま働いているというだけの関係性を尚更浮き彫りにさせた。ハローグッバイな関係。どこか即物的ないやらしさを彷彿とさせなくもない。唯一点の曇を除いては。                              
 それは彼女が終盤に見せた、なにか見えない敵から逃げるような去り方、そして突発的で焦点がほぼ合っていない流し目であった。
「さよなら。」
 普通、尋常な人であればここで一つの違和感を感じるだろう。しかし彼はなぜかその行為に一種の愛着を抱いた。それがなぜだか、どこから来るものなのか、この時彼にはわからなかった。それは決して愛とか恋といったちんけな代物ではなく、場合によってはそんなチープなものをも凌駕する破竹の勢いを秘めていることを彼はまだ知らない。
 それは連帯という名の降雨を浴びても酸化しない鎖。切っても切っても切り離せない鎖。最新の鎖。ハローグッバイじゃない鎖。
 「花崎さん、どうぞ」
待合室で一時間ほど待っていると自分の名前が呼ばれ、診察室と書かれた鈍いドアを開け部屋に入る。ドーベルマンを誇張して描いた滑稽絵のような様相で気難しそうな中年男性が、ロココ調の椅子に鎮座していた。
 ドーベルマンが彼のさっき書いたアンケートに沿って、簡単に質問していく。「はい、こんにちは、暑いねぇ、でもこの部屋空調効きすぎだよね、ははは、どうもはじめまして精神科医の志村です。」
 矢継ぎ早に話すドーベルマンの句読ない抑揚にまみれた話術に彼は辟易した。同時に自分にはない大胆さに敬虔に近い感情を抱き、なぜ今会ったばかりの人
なのにこんな感情になるのかを彼は考えた。まさか知り合いじゃないよな。遠い親戚とかだったらどうしよう。もしそうだとしたら自分が精神科に通っていることがばれる。お盆に帰れないじゃん。田舎はすぐ情報が伝播するからな。人の不幸は蜜の味、田舎の飯は美味いからな。いやまさかそんなはずはない。それともあれか、たまたまどこかで会ったことがあったのか。
 彼の止まらない分析は自分がゲイなのではという料簡にまで発展させた。しかしそのいずれも違うということがすぐに判明した。
 イギーポップにそっくり。
発明に近いその閃きは彼のもやもやを正鵠に射ぬいた。もはや説明するのも野暮ではあるが、現在の彼を語るには避けては通れないものなので少し補足説明をするとしよう。
 神経に過敏な中学生や高校生というのは大体学校や家庭という身近に対し何らかの抑圧と反骨を抱いている生き物だ。彼もまたそんな思春期に身を投じた一人であった。彼のそんな抑圧や反骨は犠牲というよりかはるかに自虐に近いものであり、エゴのようなナルシズムで包被された彼の心はそんな環境に陥っている自分に愉悦を感じさせた。いつしか同情されている自分を客観視している自分にエクスタシーを感じるようにさえなった。それはまさに騎虎の勢いであって、彼が跨った自虐的ナルシズムという名の虎を誰も止めることはできなかった。ガァァオ。ガァァァ。グォォ。ガァァオ。中二の雄叫び山に轟。盆地だからその声がよく歪んだというのは嘘。
 そして彼は必然的にパンクロックの虜になった。パンク特有の破壊衝動や初期衝動はもちろんのこと、上手いのか下手なのかよく分からない巧拙な楽器隊、アドリブのようで弥縫的ペテンな歌詞。それのどれもが自分のドロドロとした心中を表面化に押し出し具現化しているようであり耽溺した。特に自己否定的な行為姿態に強く共鳴を受けた。彼は今まで混沌としていたものが一つの形あるものに結実したことで自分が肯定されたような気持ちになった。パンクは頭がいい人にしかできない高尚なものだと思い、それを知っている自分は秀でていると本気で思った。彼はPatti SmithのEasterというアルバムのジャケットで何度手淫したかわからない。パンクロックの副作用で同級生たちが聴いているものがひどく幼稚で稚拙なものに感じた。全て毒だと思って一度も聴くことはなかった。テレビにそれらの毒が映ったときは目をそらして一点を睥睨し、般若心経を心中で唱えた。自分が毒に浸されていることも知らずに無知な少年は無知の知を知らないのだ。そして安直にソクラテスを持ち出す私は無知の無知のムチムチなのだ。
 閑話休題。
「花崎さん、花崎さん、」
遠くで誰かが呼んでいる。あれなにしてたんだっけ。そうだ、イギーポップ。彼は病院にいることを思い出した。
 「うん、アンケート拝見しました、なるほどねぇ、そっかぁ、現在進行形学校にはいけないと。」
「―――はい。」
「うん、現在進行形電車にも乗るのも辛いと。」
「―――はい。」
「逃げ場がない空間が怖いと。」
「―――はい。」
「じゃあさ、どうだろ、今僕と話している現在進―――」
意識が遠くなる。先ほど浴びすぎた日光が体に馴染まずに彼の輪郭を揺曳する。それに過敏に使いすぎた頭が加算され意識の外部へと彼を誘う。
 刹那の気絶。人間は夢を見ている時自分が夢を見ているとはあまり思わない。しかし感覚的に何か違和感は感じているのだ。それを夢だという感覚はあるのかもしれないが証明する要素がその時には無い。専らそれを言葉で説明するのは難しい。花崎薫は薄れていく意識の中、薄れていく志村の顔を面白いと思った。
 十畳ほどの寂びな一室。一見どこにでもでもあるような畳張りの和室。物という物がなく、日本人なら多方このような簡素さに尖った気持ちを沈ませることができる。しかしなぜだろう妙に落ち着かない。違和感すら感じる。自宅じゃないから落ち着かないのか。いや違う。この部屋にはなにかもっと原初的に違う部分があるのだ。
 しかしそんな考えを忘れさせるようにどこからともなく現れた、左褄を取った様な和装の若い鼻梁の通った、華奢ではないが嫋やかで綺麗な女性が彼を見て何かを言っている。物言う花とはこのことか。彼は訳のわからないことを事を考える。
 「ちょんちょん、ちょんちょん、ちょんちょんちょん。」
女は擬態語なのか擬声語なのかよくわからない掛け声とともに着物の裾を捲くり始める。
「ちょんちょん、ちょんちょん、ちょんちょんちょん。」
四方から囃子の音が鳴り出した。女の衽から垣間見える雪白な肌が、彼のリビドーを高めさせ、違和感、疑念を無かったものとさせる。
 女は誘発的に手招きし、催眠術をかけられ猿のようになった彼は手のなる方へ猿臂を伸ばしふらふらと歩む。女が艶かしくねっとりした口をつかって指示を仰ぐ。
「お兄はん、ちょんちょん。」
「ちょん、ちょん?」
「ちがうちがう、ちょんちょんや。」
「ちょんちょん。」
「せやせや、ええかんじや。そのまま続けておくんなまし。ソーレっ。」
 彼は言われた通りちょんちょんを囃子の調子に合わせて唄う。
囃子のビートが彼の参加により加速する。彼女は彼と一定の距離を保ちつつ踊る。両手をひらひら宙に合わせながらベタのように踊る。
「ちょんちょん、ちょんちょん、ちょんちょんちょん、ちょんちょん、ちょんちょん、ちょんちょんちょん。」
ビートは留まることを知らない色欲に侵された若気のようにどんどんどんどん速くなっていく。
 そのまま女は慣れた手つきで近づいた彼を仰向けにした。彼は思いのほか強い力で倒されたためにその女にある種の狂気を感じた。女の目は充血して真紅に染まっていた。そして裾を捲くり上げた女が彼の眼前に雪白の脚を跨げた。眼と脚のコントラストが彼を完全なものへと昇華させる。女は着物の下に何も召していない。彼のリビドーは絶頂を迎えるが如く発展し、ちょんちょんの掛け声に合わせちょんちょんがちょんちょんする。
 さらに女はその上で屈伸運動を始め、今にも顔に触れそうなぎりぎりの不即不離なところで顕な陰部を上下に反復させた。
 彼は一瞬なんだこれと思ったが興奮した。
顔面すれすれで静止し、空気椅子の様な姿勢になった女は何やら眉に皺を寄せ、うーんと唸りだした。
 いつの間にかあれほど活溌だった囃子の音も鳴り止んでいた。彼はそれに微塵も気づくことなく、囃子という対抗が無くなったせいか先程よりかは少し小さな声でちょんちょんちょんと、分娩に苦しむ親牛を励ますような気持ちで掛け声を続けた。
 「手前味噌やさかい堪忍な。」
女がよくわからない全く筋違いなことを少し恥じらいを織り交ぜた表情で言った。彼もよくわからないが咄嗟に味噌と味噌が掛かっていて上手い、とこれまた筋違いな解釈をした。
 めりめりめり。女の菊門から黒色に近い潤み色な花が芽を出した。排泄という行為それ自体があたり前のように彼の眼前で行われ、避けきる時間があっただろうに満更でもない彼は、それをパブロフの犬さながらに額で受け止めた。もうちょんちょんなんて言っている場合ではなかった。彼が唯一心配した臭いは不思議と感じなかった。感じようとすれば感じられたのかもしれない。それほど描写は鮮明だった。
 「お兄はん、わてよう止まらへん。」
女の艶かしい声と同時に休止していた囃子がまた鳴り出した。あソーレっ。
「みんでえ、ちゃう、こんなんちゃう。」
そんな言葉とは裏腹にとめどなく流れ咲き乱れる花々。ちょんちょん、ちょんちょん、ちょんちょんちょん。
 彼の頭は重量に耐え切れず、今にも脳天に穴があいてしまいそうになった。重い、重い、もう限界。
 刹那、彼の精神を度外した習慣という第二の天性がそれを察知する。
あれ、そういえばこの部屋出口ない。どうやってきたんだっけ。あれ、てことは逃げ場がない。嘘、気持ち悪くなったらどうしよう。
 途端、彼は荒れ狂う波濤のような発作を全身に感じた。頽瀾に脅かされた頭は真っ白になり、知らない人と一室に閉じ込められたという思考が弥漫した。そして眼前にいる女に一切のいやらしさを感じなくなった。
 考えるな、考えるなそう思うと尚更考えてしまう彼の頭はもう歯止めの効かない滑車であり、助けてくれ、助けてくれと腰元まで裾を捲し上げた半裸の女に哀願した。女の腿には彼のにぎった跡がつくほどであった。顔面糞まみれの男の懇願はカオスの塊。
 しかし自分が脱糞した事が原因でこんなにも悲痛な叫びをしていると思った女は、少しの申し訳なさと憐憫の情を抱き、「お兄はん、はじめてやったに、少しやりすぎたさかいね。堪忍な。わてあのままわてのあまちゃん見せて踊らそ思っててん、けどなんやお兄はんの顔見てたら腹痛なってきてこれは我慢できへん、でるおもったさかい手前味噌で堪忍してと訳もわからんこというてまった。そしたらもう仰山でてしもて、ほんまお兄はん堪忍して。」
 彼は堪忍もなにも論点が違っている、糞はいいんだよ、糞はと、囚われた頭なりに思ったが、そんなことよりもまず女が自分に同情してくれているという快感が堪らなく彼の五臓六腑を刺激した。このまま愉悦に浸っていようと思った。
 女はそんな彼の醜態に目もくれず、自分の話ばかりする主観的な女の様に話し出した。
「わてかてこんな仕事を生業にしたくはないんじゃ。せやけど父母もわてが物心つく前に戦死してしもて、残されたわてと弟は身寄りがないさかい、家も全部燃えてしもうた。戦争孤児ですけ。そいしたら旅芸人としてここらを練り歩うしかなかったのですけ。」
 彼は何が繰り広げられているのかがわからなくなってきた。彼の頭は物質的質量超過と、思考的質量超過とでパンク寸前だった。重い。苦しい。もう駄目だ。あぁ潰れる。
 その時彼の頭上から光が射し、光芒な直線を描き彼の体を照らし出した。燦然たる輝き。目が眩むほどに眩しい。
 彼は眩しさに耐えかねて目を開けると、先程アンケートを書いた待合室の片隅にある長ソファに氷嚢を乗せられて仰臥していた。
 「花崎さん大丈夫ですか。さっき倒れたの覚えてますか。」
初めて見る看護師のような白衣を着たスタッフに肩を支えられながら、彼は重たい意識を起き上げ始めた。
 彼はわざと深刻な面持ちを作って、「何も覚えていません。何も。」と十分な間と抑揚を付け、背徳に似た何かを感じながら言い捨てた。
 「あ、あの」彼は初対面の人と話すならこのくらいといった雰囲気と口調でスタッフに質問した。
「僕ってその、なんでしょうか。」
それは自分がどうしてあんな夢を見てしまったのか、自分はなんという病気なのか、はたまた花崎薫という人間そのものの存在を聞いたのか、頭の中でそれらが錯落し、結果そのどれをも聞いたような気持ちになった。
 スタッフは挨拶をされたら返すのが当たり前でしょといった屈託の無い表情であくまで業務的に「ん、多分熱射病ですよ。」と答えた。
 そうじゃないんだ。僕が知りたいのはそんな事じゃないんだ。僕は何なんだ。なんで気持ち悪くなるんだ。これは甘えているだけなのか。業苦なのか。
 彼の中で煮え切らない何かが頭を反復する。同時に囃子もリフレインする。病院にいるからいつもより少し具合悪いフリして、話をして哀れみを買う。愉悦を感じる。違う、違うんだ。本当に具合は悪いんだ。彼のこの気持ちを言葉にするのは筆舌に尽くし難い。ただ彼は同情されるという形でしか自分の存在を肯定することができなかったのかもしれない。
 彼は思った。仏や神といった人間を超越した媒体でも決して介する事の出来ない僕だけの気持ちがある。これはその病気になった当事者にしか分からない、念仏を唱えたって、十字架を切って懺悔したって、神社に参拝したからって、寺社で供養したからってこの気持ちはこの気持ちのままなのだ。宗教とは不健康な健康な人が行うこの世の妄染なのだ。彼はまだ冷めきえない頭のまま妄心的な事を考えていた。
 言葉とはその人が本当にそう思っているいないに関係なく相手に伝えたその瞬間から言葉になる。ならば彼のように考えに考え抜いても言う言葉が見つからず、見つかっても自分の心中の淀みとして留めておく。これは空想に過ぎないのではないか、ならばこの病気も空想なんじゃないか。彼はそんな逃避を繰り返していた。
 事実、言葉に収まらない何かが花崎薫の体に症状として現れる。それは言葉の枠を超越した真理の形状にどこか似ていた。
 そうだよ知っているよ。言われなくても知ってるよ。僕は普通の事をするのが難しいよ。彼は自分の自分に問いかけた。
 でも今までにこの事を誰にも言ったことはないし、言える訳ないから言わなかった。だから僕は普通に友達も出来た。彼女だって出来た。それで何が問題なの。みんなと何が違うの。何も違わないよ。
 彼は今まで自分の中にある症状を架空の産物として切り取ることで生活してきた。いわば見て見ぬふりというやつだ。症状を自分と切り離し、別個に考える事で生活に支障がない風に装った。一番同情すべきは自分自身であったのに。ただそんなつけやきばも刃は時間とともに錆、襤褸が出る。逃げ場のない状況での止まらない吐き気、動悸、焦燥感。広場恐怖。強迫観念。予期不安。
 それは大学をも疎かにさせた。大学では無頼を装うことで自主休講という行為を正当させていた。友人は彼のことを大学生という名前に甘んじたモラトリアムか何かと識別した。彼は思考での処理に限界を感じ、どうしようもなくなり今日本日近くの病院に趣いたわけであった。
 簡易的な再診を終え、待合室を見るとソファが空いていなかったため、彼は観葉植物が並ぶ奥に向かい、窓に背を向けてある三つの長椅子が空いていたのでうち一番手前の椅子に腰を下ろした。会計を待っていると隣に人なる圧を感じ一瞥すると案の定誰かが座っていた。三つあるのになんで真ん中に座ったんだろうと思ったが瞬間、そんなことはどうでも良くなった。
 綺麗な万朶の枝のように垂れ下がった豊富で艶のある黒髪が顔の稜線をなぞっている。その線があまりにも濃いため顔はよくわからないが、良い女性には間違いない。彼は緊張でお腹が痛くなった。
 なぜ三つあるのに彼女は真ん中に座ったのか、反対端が空いているのに。彼はこう解釈した。もしかしたら僕に少し気があるんじゃないか。少なからず好意は抱かれているんじゃないか。証拠に彼女はさっきから日記帳のようなものに何かを書いている。日記なんてのは普通一日の終わりに書くものであろう。今書くということはつまり、今日僕に会った事に際し我慢ならぬパトスが生じ、一日の終わりに書くという日々の習慣に抗い、彼女は筆を取らざるを得なくなった。そうだ。そうに違いない。
 彼は自惚れという言葉では収めきれないほどに自惚れている。ことにこの病気の根源をたどるならばこういった類のものなのかもしれない。精神科の患者という共通事項が彼に連帯感を高めさせ、彼の自意識という琴線を触発させた。
 当然彼女は彼に好意を持ったとか、彼から出るオーラにどこか恋着を感じたとかいった理由で彼の隣に座ったのではなく、唯几帳面な彼女は日記を書くのにテーブルが必要で窓下にある窪みがそれにちょうど良かったからである。そしてその窪みが真ん中の椅子の上にあったから真ん中に座ったというだけだった。
 そんなことは全く思考の範囲外である彼は、彼女から発せられる甘い匂いと自分から発せられる苦い自意識に酔い浸っていた。
 しかしそんな遊戯は束の間、彼は彼女の名前が呼ばれるのを聞いて寝耳に水が入った。彼は自分の耳を疑った。並びに反芻した。飲み込めない。それは彼女の黒を潤色とした外貌からは決して想像することができない事だった。
 彼女の口からはなんと活溌で、小気味好い返事が聞こえた。「はいせんせい、今行きまっす。」
 彼女は彼に一視もくれることなく日記帳を丁重に両手で持ち、スタスタと診察室へ身を委ねた。
 床に落とした無数のスーパーボール。力学を無視し、慣性に逆らい何倍もの勢いで弾けるスーパーボール。痛くない。何も痛くない。何も。僕は何をしているんだろう。
 彼は斜交いにある窓から外を眺めた。混雑するビル群の隙間から沈む夕日を見たが何とも思わなかった。
 
 食べてないから大丈夫。自分を諭しながら彼は電車に乗り込み、病院からは自宅まで一駅なのですぐ最寄りに着いた。今日の晩飯の事を考え憂鬱になりホームをブラブラと猫背で蹌踉していた。ゴミ袋って捨てられるために生まれてきたんだよなぁとか、パセリってまだ添えられているという矯飾があるだけ存在意義があるなあとかぶつぶついいながら。
 駅の改札を抜けた先、低い建物と植え込みの樹木しかなく見通しはいいが蝉と大学生の声が混じり合い駅前は喧囂い。三段程の高低の低い緑階段下のベンチに見慣れた顔の女性がぽつねんと座っているのが見て取れた。彼はぼんやりしてはっきりとは分からないが、階段を降下していないこの距離からでもそれが篠菱雪だということが分かった。
 彼は先程会った時の彼女の無感情さから自分は蔑視されているに違いないと考えた。病院での出来事が彼をより殻の奥へ退嬰させた。ここで下手に出て行って呼び止めたら二の舞になるに違いない。それにベンチに座っているということは誰かを待っているんだ。よし、バレないように帰ろう。
 高い自己防衛本能を持つ彼は注意深く彼女の方を見ないように見、緑階段を下りるのであった。
 「あれ、薫~。かおる。おーい。」
彼女の澄み良い声が藪坂駅に木霊する。
 ばれた。でも嘱目していたのになぜ。彼は自分が近視なのを忘れてはいない。コンタクトを付けるのを忘れていたのだった。当然彼から彼女の視線が見えることはなく、彼女から彼の視線は丸見えだった。
 どうせ躱されるんだから思ってること全部言ってしまおうと自棄的になった彼は思ったことを切口上で全部言った。
「あ、篠雪さん!お疲れ様です。また会いましたね。奇遇ですね。さっきも言いましたね。デジャブ。あれ。なんで最寄り違いますよね。あれ。どうされたんですか。」
 嫌われていることすら嫌われました。などと彼は意味のわからない事を思い、彼女と目線が合わないように背後の樹木に目をやった。彼女は少し微笑み、軽く口を開いた。
 彼女の答えはこういったものだった。薫と駅で別れた雪はこの日体調が悪く別れた後どんどん具合が悪くなりなんとかポプラには着いたが内山太を見て更に悪化。今度一緒にデートをするという口約束を条件に早退を受け入れてもらい帰ろうとしたがポプラから雪の家まではかなりの距離があり体力的に厳しさを感じここにいれば薫が帰ってくると思い待っていた。
 これを聞いて彼は二つの感情を抱いた。一つは午前中篠雪さんに会った時、篠雪さんが無感情、感じが悪かったのは僕に対してではなく、ただ体調が悪かっただけという喜び。もう一つは篠雪さんと金魚との関係性への嫉妬。彼は自問自答した。金魚が篠雪さんを度々口説いているのは垣間見ていたが。まさかもう付き合っていないよな。いやあくまでデートと早退の等価交換なわけで、功利的な関係だろう。それに金魚を見て具合が悪化したというのはまぁ篠雪さんの脚色かもしれないがまず篠雪さんは金魚に好意を抱いてはいないだろう、専ら僕には関係のない話だけど。すぐに関係を閉ざし疎遠にしてしまう彼の悪い癖である。
 だんまりしている彼を見て間に耐えられなかったのか彼女は続けて話をした。
「それでさぁ、さっき薫の家この辺だって言ってたじゃん。私ん家遠くて体調的に今日帰れそうもなくて。もし良かったら今晩泊まらせてくれないかな。」
彼女はなんの誇張もなく率直に自分の心中を舒懐した。本当に電車にはもう乗れそうもなかった。
「も、もちろん。いいですよ。」
彼は思弁を介さず直線的に言った。
「ほんとに。ありがとう薫。私断られたらどうしようと思ってた。」
「言ったじゃないですか。いつでもどうぞって。」
 彼女は彼の優しさの裏側に潜む欲望を感じながらそれを野放しにした。なぜなら彼女にも彼相応に並ぶ欲があり、またとないチャンスにある決行へと結びつけようとしていたのだから。
 しかしここで薫と雪の欲を混同させてはいけない。なぜならそれは片一方は自己肯定からくるものに対し、一方は自己否定からくる破壊的なものなのだから。たとえば足を負傷したとする。薬石を投じれば治る怪我ならその処置で治癒する。しかし薬石だけでは治らないと判断された場合やむなく足を切断する。結果治癒する。筋道が違えど両者治ったということに関しては同じである。
 彼はどこかこの世を通過した様な彼女の冷ややかで切れ長な二重を見て似ていると思った。
 「おじゃましまーす。」
普段捻くれた男の帰りを待つだけの一部屋に馨しい声色が響き渡り、家具達も驚いているような類があった。しかし何を隠そう一番驚いているのは花崎薫であった。自分を含め従業員が五人しかないポプラだがそこで篠菱雪は看板娘であった。美人というのもあったが、彼女がいるとどこか場に花が生まれ、アロマを焚いたような和やかな気持ちになった。また気もきいてまめで、仕事も如才なく出来た。そんな彼にとって見ているだけで実態がなかった彼女が今、目先にいる。しかも二人きりで。音楽を聴いてフラストレーションを凌駕することだけが幸福だと感じていた彼は、幸福の実質のようなものを目の当たりにし、彼の簡単な常心は軽く絶頂を迎えた。
 「鍵掛けとくね」その一言が近い未来を決定した路線のように彼の脳を走らせた。ぽっぽー。玄関先で彼は接吻しようかなとまで考えた。考えただけであった。他人の決定だけで生きてきたようなこの男が、人との相互的な関係で自分を創り上げてきたこの男が、そんな自主的な雄心全くなかった。全ては症状を悟られないように彼が仕組んだ自己防衛線。彼にとって自分を晒すということは症状を打ち明けるということで、自分すらこの痼疾を見て、見ぬふりをしている彼にとってそんなことは毛頭出来なかった。そんな男がポプラで仕上げた謙虚で気の大人しい自分像を今更変えることは到底不可能であった。
 「ぐ、具合大丈夫ですか、横になりますか。」
部屋に入るや否や彼はしまったと思った。本当に思ったことをそのまま口にしてしまったと思った。誘っていると思われたくないがために言うまいとしていたことを鍵を閉めた彼女に調子づけられたせいか、ひょいと言ってしまったのだ。
彼は本当に彼女の具合を一応は心配していた。が、それはあくまで口実にしか過ぎず本当は自分がいつも使っているベッドに横になって欲しいという彼自身の希望でしかなかった。
 しかしこれに対し彼女はなんら訝りを見せず、従順な犬のように「ありがとう、ちょっと借りるね。」と言ってベッドに腰を下ろし、横になるなりすやすやと眠りについた。
 彼は点綴とした物に溢れてはいるが要所要所はきちんと整理されているこの部屋を一望し、最後に篠菱雪を加え案外悪くないなと眼福した。
 
 篠菱雪は眠ってなどいなかった。普段自分の家でさえ寝付くまでに軽く二,三時間は掛かり眠りも浅いノンレムな彼女が、他人の家になど来て早々に眠ることなど出来るわけもなかった。彼女は考える時間が欲しかった。本当にこれでいいのか、やはり自分は間違ったことをしようとしているのではないか。
 今まで逡巡としないために閉じ込めておいた本心が深淵から時が来たかとばかりに這い出て来るのを彼女の身体が過敏に感じ取った。
 久しぶりね。貴女って軽薄なのね。そんな事を言われるような気がした彼女は、やはり自分が受け入れることでしか解決できないこの事象を無沙汰の邂逅に喜ぶ少女のように、はたまた人柱を受け入れる悲哀な少女のように抱き締めるのであった。
 一時間とも経たずむくりと起きた風に起きた彼女は薫がいないことに気づき、細めた目を元に戻した。狭くも広くもない一人で生活する分には申し分ないフローリングの部屋を見渡す。入ってきた時はベッドにしか目を呉れなかったために分からなかったが、右手の壁には眼鏡をかけたオールバック、手に花を持った男がふにゃりとしているポスター。仰向けに倒れた天使の様なものが頭を抑え悔恨しているポスター、床に立て掛けられた上部に出っ張りが一二個付いている反射しないような黒地に白いボディの楽器、それより少し細長く出っ張りが四個付いた反射する白地に白いボディの楽器。左手には壁一面を覆う程の棚があり彼女が全く知らないCDやレコードが櫛比と並べられていた。天井がそこまで高くないため思いのほか大きくは見えなかった。しかしすごい量なのには間違いなかった。彼がこの大量の物に囲まれながら生活をしていると思うと彼女は狼狽し、馬が合わないなと思った。同時に普通に遊びに来ていたらすぐ帰るだろうなとも思った。
 薫がにゅるっとドアを開けて入ってきた。
「あ、起きました?ちょうど良かったです。大丈夫ですか。こ、これ家にある物で作ったんですけど良かったら食べませんか。」
彼は自分の家にいるのに好きな子の家に赴いた少年のようにどぎまぎしながら言った。
 彼は自分の作ったお世辞にも見た目がいいとはいえない炒め物を、彼女に振舞うという、人に何かを奉仕するという初めての羞恥に近い感情と、自分が作った物が彼女の口を介して胃袋に運ばれ、体内に吸収され彼女の血となり肉となり、不用なものは排泄物として彼女の肛門を通過するという生命の純然たる活動にエロティシズムを超えた何かを感じた。
 ただそれは生物学的な事にではなく、あくまで自分が手を加えたものというところがネックだった。
 僕は彼女にとって不用なものに過ぎない。今日だってこうして目の前にいるのは彼女がたまたま具合の悪くなった近くに住んでいたという偶然に過ぎず、僕じゃなくても良かったのだ。彼女は僕に会うために来たのではなく僕の家に体を休めるためだけに来たのだ。宿泊施設として僕は利用されているのだ。
 そう思うと彼は萎み、一気に加速した熱が冷めるのを感じた。そんなすぐに浮き沈む自我に嫌気が差した。
 彼女は人の作るものは美味しいと言って白飯と一緒に健啖家のように沢山食べてくれた。同じおかずをつつき合うという間接的な行為にすら彼はもう何も感じなかった。
 どうせ僕なんて。それが彼の決まり文句であった。一度籠ってしまった殻を突き破るには並々ならない行為が必要だ。彼はこのまま酒でもひっかけて自虐的ナルシズムに溺れたい気持ちであった。病気と家庭環境が彼を相当な捻くれ者に仕立て上げたのには間違いなかった。いや、家庭環境がと言った方がこの際適切かも知れない。そんな時彼は決まって音楽を聴く。彼女が居る手前もあってか無作為的にCDを手に取り、コンポにかけて流した。
 お決まりの思考に身を閉ざした彼に食後、彼女が口を開いた。
「薫ってお酒飲める人?」
 彼は彼女と気持ちが通じ合ったように感じ嬉しくなり、普段全くお酒を飲まないのに、まぁ友人とかが来たら嗜むくらいにと体言を吐いてしまった。
「なら買ってくるからちょっと待ってて。」
そう言うなり彼女は立ち上がり部屋を出て行こうとした。
 そのあまりにも機敏で無駄のない動きに、お酒を買いに行くという行為は何かのカモフラージュでしかなく事実、彼女の隠した本当の目的があるようにも見て取れた。それは今日駅で偶然会った時に感じたものと同類のような感じであった。
 別れを告げられたような不安に陥った彼は迫真に迫る探偵のような決定の口調で「場所分かるんですか。」と聞いた。
 彼女はここに来るときに見かけたから分かるという風に微笑で応えた。垂れ流しにしていた音楽が静かな夜を皮肉にも賑やかにさせた。
 流れる音楽が孤独な各々の輪郭を浮き彫りにするのです。

♪~Bye Bye ベイビー・ブルー サヨナラ、ね
私の影と 淡い恋のブルー
パダン… パダン… パダン…

 彼女は吐いた。近くのコンビニに着くや否や吐いた。
 まただ。まただ。まただ。まただ。繰り返される因果な柵。終わりの無い徒労の日々。捨てきれない自分の自分。そのアンヴィバレンスな関係に彼女は目を潤ませた。あの部屋はものが多すぎる。しかしその想いは一層彼女の決心を頑ななものにさせた。
 薫に頼みたいことがあるの。素面ではとても言えない心の弱さが彼女に飲酒を強要させる。彼女は普段一滴もお酒を飲むことがなかった。これは単に彼女が吝嗇というだけではなく、酒癖の悪かった父親に対する嫌悪感からくるものだった。いつも酔ってはあらゆるものに当り散らしていた父親。それは時として部屋の物だけでは収まらず彼女の躰にも及んだ。
 まだ童子だった彼女はどうして父親はこんなに不条理な暴力を振るうのか幼心なりに考えた。そしてそれは父親を酔わせるお酒というものがあるからいけないんだ。またその怒りの矛先となるものがあるからいけないんだと彼女なりに原因と結果を断定し、まだ本質を充分に理解できない年齢だった彼女は潜在的にものに対する違和感を覚えた。
 今から十三年前、年が明ける頃だったか、尋常でない程吹雪いたある冬の日。その日彼女の母はいつにも増して小さな背中を丸め、ストーブに皺皺の手をあてがっていた。
「雪ちゃんもこっちおいで。暖まるよう。」
 彼女は幼稚園最後の年、何処からともなく降っては積る雪を見ながらぼんやりと、唯だらだらと過ごしていた。
「雪ちゃん、リンゴでもむこうか。」
母は笑ってはいたが、単純の寒さからくるものなのか哀絶からくるものなのか、その凄惨な背中は隠しきれずに震えていた。
 雪が6歳になる年の事、一家は春を迎えることなく離縁した。
 
 私は伝える事を放棄しようと思いつつ伝えたい念に駆られています。しかし事実私自身も分かりきっていない事を第三者に聞いてもらうのはあまりにもおこがましく、傲岸不遜ではないかとも思っています。エゴイズムではないかとも思います。しかし篠菱雪、花崎薫という人物を生み出してしまったのは何を隠そうこの私なのですから、私の手で終止を刻むしかないのです。人間とは何か自力ではどうしようもない不遇や苦悩に陥った時、そこから新たな思想や文化の萌芽が生まれます。苦悩とは精神の深さだというのが伺えるでしょう。しかしそれは時として、極まれば極まるだけ他者や神という超抽象的概念ですら介さない、決して当事者にしか分からない痛み苦しみといった苦悩、懊悩、呻吟、苦渋が生まれてしまいます。これを言語や、まして文化や芸術にする事は本来不可能なのです。なぜなら自分でももう取り返しがつかないくらいに難解に入り組んでしまっているのですから。おそらく私がおかしいのです。私が考えに到達していないだけなのです。しかし現代の自由すぎる思想はそれをどこかしらの規定のパラダイムに当てはめた様にすることができるようになっています。私は考えるゆとりがありすぎる今の時代が怖いのです。文化が膨張し、自由が攪乱し、皆が皆違ったことを考え、自然と同じような者同士が蝟集する。その中でまた善悪が生まれていく。この違和感、共感、違和感は久遠に存在するような気がします。これは決して右翼的な考えからくるものでも左翼的な考えからくるものでもありません。パラダイムシフトをしようといったエポックメイキングな野望もありません。なぜなら、こんなちんけな考えなど散々に謳われていますから、私がどうこう言ったところでは既視感しかないでしょう。故にふとした気まぐれな好奇の心から食べては見たがやっぱり美味しくなかった。もう二度とあの店には行かないだろう。そういう風に思って頂けたらいいのです。嬉しいのです。近づいてはいけません。私は狂人です。いや奇を衒っているだけの鼠輩です。ここまで私の稚拙な文にお付き合い頂いた貴方に懺悔すると共に、終わるのか分からない彼らの最後を見届けてやってください。
 
 二四時間消えることのない人工的な光。それは自然への犯行、いや反抗か。忘れようとしていた自分の自分が過去の記憶を伝い、化粧した彼女を塗り替えた。悪魔でも近寄らせないその絶対的な空気と密度。
 彼女はこの店に火を付けようかと本気で思う。レジカウンター上に常設されているケースを始め、雑誌等が飾られた壁面のラック、食品が縦並びして陳列された中島。飲料類や冷蔵系の棚は壊しがいがありそうだ。バックヤードも忘れてはいけない。店内のものを全部破壊して、最後に茫然自失とした店員を殴って最後に火を付ける。燃え盛る炎の中、彼女は過去の走馬灯に思いを馳せる。
彼女の頭を記憶の輪廻がメリーゴーランドのように巡り始める。数ある馬のうち白馬に乗馬する彼女。馬の頭はメッキが相当剥がれていて、生前は悍馬であったことが伺える。店内にはスメタナ作・連作交響詩『わが祖国』第二曲『モルダウ』が流れる。
 「あぁいい事なんて一つもなかったなぁ。」
「そうね。きっと貴女は人間に向いていなかったんだわ。生まれ変わったらそうねえ、鳥にでもなりましょうよ。」
「こんな事して生まれ変われると思っているの。残念だけど来世は無いわ。餓鬼か畜生がいいとこよ。それに苦しむのは慣れてるの。」
「それは貴女だけでしょ。本当の私はとても繊細で豪奢で強欲なのよ。昔、色々欲しいものを買ってもらっていたみたいに。」
「昔の話じゃない。それに欲しいものなんて一つもなかった。けど貴女みたいなのが長生きするのよ、結局。」
「なにを言っているのかしらの、私が長生きするなら貴女だって長生きするじゃない。」
「私はだめよ。貴女を捨てたもの。」
「じゃあこうして話しているってことは、やっぱり貴女。」
「貴女といると―――」
 違和感。誰かが私の体に触れている。直感的に凄い力だ。いや揺すられているのか。
「―――さん、――さん。」
「――さん、――雪さん、――篠雪さん、篠雪さん。」
 彼女は夢から覚めたのかこれから夢が始まるのかわからない感覚に体だけが素直に反応した。傍には必死の顔をした青年。
「よかった、なんか様子がおかしいと思って後を付けたんです。そしたらコンビニに入ったと思ったら全然トイレから出てこなくなって。体調悪いって言ってたから心配になって。出てきたと思ったらここにずーっと立ってたんです。大丈夫ですか。」
 『ボインでゴーイン』『淫語堕天使四苦ファック』『団地でイって五〇万』『僕はドビュッシー』。
 彼女は眼前に陳列された絢爛な雑誌を一目し、これは夢だと思うことにした。
「薫これ好きそう。」なんでそんなことを言ったのか。久々に口を開けた、なんとも頑是無い子どものような根からでた言の葉は彼女を少々高揚させた。
「な、な、なにを言ってるんですか。ボ、ボ、ボインよりドビュッシーですよ。」
彼は自分でも何を言っているのかわからなかった。それは自然の返しとも言うべきか、彼女のあまりにも屈託の無い明鏡止水な眼差しに本心を溢してしまった。溢れるとわかっていても止められなかった。一回溢すと溢しぐせが付く。いつもの篠菱雪とはどこか違う人と話しているようだった。
 お酒を無事購入した二人は薫のアパートに足を早めた。この辺は雑木林が密集していて、彼らが歩いている舗装された一本道以外は自然のままに、両側にびっしりと竹林が並んでいた。外灯が少なく、仄黒い竹一つ一つはどこか人影に見えて気味が悪かった。また首を傾けると竹の梢から生い茂った笹が風によく揺れ、その動きはさながら彼岸獅子が月光に照らされ舞っているようであった。意表を突いて。
 「よく一人で通りましたね。」
「うん、さっきはちょっとね。こんなに木が黒いとは思わなかった。」
「この辺黒猫とか普通に出るんですよ。」
「なんか幽霊みたいな切り口だね。黒猫可愛いじゃん。」
「幽霊かもしれませんよ。なんか黒猫は不吉っていう昔からの先入観があります。」
「先入観ねぇ、私もあるかな、そうゆうの。」
「先入観ってなんなんでしょうね。僕はトラウマと非常に密接している気がします。」
「虎と馬が黒猫と?」
「篠雪さんってそういう事言うんですね。」
「人間なんてそんな一面的じゃないの。薫が知らない私、いっぱいあるよ。」
 確かに彼は彼女のことを背光効果的に考えていた。ポプラでの非の打ちどころのない彼女の枚挙が彼の目に映る彼女の全てであり、それが一層怠惰な生活に色を添えていることは確かだった。しかしまだ知らない一面があるという彼女の自己分析が、彼を単純な天然から発したものではない彼女から醸し出された才媛といういやらしさに感じさせた。
 「確かに、人間の深層心理ってのは厄介なもので自分でもわからないことがたくさんありますよね。」
「いや、単純にその人その人によって自分の見え方は違うでしょ。たまたま薫とは仕事上の立場だったからそういった所しか見えてなかったってだけのことだよ。」
 彼は衒学的に対抗しようとした所、余計に自分を小さくしてしまい竹藪の中に入り混じって消え去りたいと思った。しかし彼の発言はあながち中らずと雖も遠からずなもので、聞いた彼女はドキリとした。自分が考えていた事が見透かされたようで彼女はとっさに突慳貪な応答をしてしまった。隠微の気まずさから彼女は「今日は飲もうよ。」と会話を一方的に終止させた。
 薫が酔う前に話を着けなければいけない。マスト。マスト。マスト。それだけを考え抜いた彼女の思考は因循な土着の権力者のようであった。
 帰宅早々、乾杯もそこそこに缶の半分を飲んで勢い付けた彼女は、彼に突飛もなくことを言い放った。
 「あのさ薫、真剣に聞いて欲しいんだけどね。」
暑さがまだ残っている部屋に二人の熱感が加わりより暑さを感じる。開窓した窓からは、葉と葉とが擦れる音がうっすら聞こえる。全てが八日目のように鳴き止んだ蝉。遠巻きにマフラーを改造したバイクの音が己の力を誇示するように高鳴る。それは絶対にたこ焼きだって、たこは八本だもん。前後の脈略が全く分からないがおそらく無意味な何の生産性も無い会話が表の路地から聞こえてくる。声の数からしてカップルだろう。いつもなら聞こえるか聞こえないか分からない絶妙なバランスでうるっせえと言うが、今日は特別彼女が来ているし、なんだか深刻な場面なので言わない。
「私を殺して欲しいの。」
 何処からともなく現れた一匹のヒグラシ。網戸にぴたりと張り付いて、求愛を求め鳴いた。その妙に腹の白く、緻密な繊維質を見てうるせえと思った。

 ここ二三、彼は頭痛に冒されていた。病院で処方されたゾルピデムは入眠までを記憶できないほど怪しい眠りにつかせた。彼はちょっとした好奇心から一度にそれを何錠も飲んでみた。寝起きはそれは最悪であった。読んでも読んでも全く頭に入ってこない活字。彼は本を読む達であった。本といっても漫画がその殆どであり、つげ義春と高橋留美子が好きであった。大学が哲学関係だったため、哲学も少々齧ったりしていた。とはいってもほとんど学校には行っていないためその知識は一知半解なものであった。
 文字がぼやけているのか目がかすんでいるのかわからなくなり読むのをやめたくなる。読んでも読んでも吸収されないという焦りが、彼をますます蜃気楼のような焦燥の深部へと慫慂させる。
 篠突く雨の日。彼は部屋の窓から町並みを鳥瞰してみた。雨が束になって遠くの景色を鈍らせている。ザザザアアアアアア。昼間から空濛としたそれが彼の内々の琴線に触れた。彼はちょっとした事ですぐ琴線に触れるナイーブな二十一歳。
 僕はもう。彼は何を思ったのだろうか。手短に着替を済ませ、久々の外出。向かったのは彼の通う大学であった。
 歩いてる道すがら彼はあの日のことを思い返していた。殺して欲しい。それは彼にとって身近のようで一番遠いそんな微かな言葉であった。
 あれから三日経つわけであったが、篠菱雪とは以来一回も連絡をしていなかった。相手との相互的な関係で自分を取り繕ってきた彼ですらこの時ばかりは事実を簡単には飲み込めず、反芻した。しかし誰かに何かを求められるといった経験が皆無に近しい彼は、自己存在証明に似たものを感じ、全身に血が再び煮え滾って捲土重来していくのを体感した。僕は生きていていいんだ。篠雪さんに必要とされている自分は社会にとって生産能力のある有義な人材とに錯覚させた。彼にとっては彼女の死の理由などは正直どうでも良かった。どうでも良いというのは語弊で、ぼんやりとしていて覚えていない為それがどうでも良いという感情に塗り替えさせたのかもしれない。
 事実あの後、どうしていいか分からない彼は飲むに飲んでベロベロになり、飲み慣れていないせいで悪酔いし、というよりかはそういう状態になることを望み、彼女も彼女で酔っ払っていて、理由を聞いたような聞いていないような曖昧模糊な状態になっていた。そして明け方、彼女は始発が動いたと言って何も無かったかのように、来た時と同じ姿のまま帰っていったのであった。
 大学に着いた彼は教務課に向かうため、傘を差しながらとぼとぼと歩いていた。前方から何も考えていないような茶髪の、談笑に夢中でへらへらした女の群れがアルマゲドンさながらに横一列を成し、彼を避けることなく通過する。彼の肩に接触した女の傘の雨粒が、反発からはじけ、彼の右半身に散布した。こんな奴らと同じ大学に通っていたのかと思いながら避けると余計に虫唾が走った。よく見ると似たような矯飾な奴らがおとこおんな無際限にいるではないか。馬子にも衣装とはよく言ったものでこういう連中は馬子にも失礼だと彼は腹心思った。
 人間はなんて傲慢で残虐かつ非道な生き物であろうか。利己的すぎるとそれはサルだし、利他的すぎると自分を見失う。彼はそのどちらもを兼ね備えかき混ぜた生き物であった。しかし多かれ少なかれこういった卑しい考えを誰でも腹蔵に秘めているもんではないだろうか。
 彼は散々喝破した気分になり、それでもなお自己肯定と自己否定の間に介在している自分を感じた。
 彼の通っている大学は元来、切り崩して埋め立てにした山の絶巓に建てられたため道中の坂は険しく、足が重くなる。建物が視界に入ると同時に、坂の勾配も徐々に上がって行き、僕は今何をしているんだろうと毎回思う。学生達はそんな大学までの道のりを登山と呼ぶ。阿呆らしい。
 そんな登山の最中、彼にべらぼうに話をかけてきた男がいた。
「花崎じゃん、お久し。」
男は褐色の頭に、蛇が達磨の目からくにゃりと顔を出した和柄のtシャツと、レギンスのようなぱつぱつのスキニーを履いていてそれが更に体格のシルエットを悪くしている。ボロ傘を差し、いつもカットインのブーツを履いていてどうやらそれはボブ・ディランを意識しているらしかった。しかしそれは単に好きなブランドの服とコラボしていたから好きになったという極めて副次的なものであり、根っからのファナティックなファンではないようだった。すべての線が細く、浅黒くてもぐらのような外貌をしていた。
 「なんだ生きてたんじゃん。ライン返せよな。お前妖精って呼ばれてんぞ。」
全てが浅く作られた偽物のオーラが凄いこの男は、同じ哲学科三年の根津白夜という一言で言うならば奇矯なやつだった。それは格好だけではく言動もおかしかった。
「托卵って知ってるか、花崎。」
こちらに主導権を握らせない話術が根津の常套手段であった。
「あのな、托卵っていうのはな、鳥いるだろ、鳥が他の鳥の巣に自分の卵生むんだよ。そんで自分はその後知らん顔してその巣の親鳥に育てさせんの。」
 彼は何と返答すれば良いか分からず、うんとだけ言った。
「俺も母ちゃん途中から違うだろ。だから本当は根津じゃなくてモズなんだよ。」
 これは一体喜怒哀楽のどれに当てはまるのか、彼は全く見当がつかない。しかし根津は笑って話しているから喜か楽なのは確かだ。いや、でも人間は表面上は笑っていても心で泣く生き物だ。根津のそれもそう類のものであるかもしれない。彼はラインを返信しなかったことに少し罪悪を感じ、謝りたくなった。スタンプだけでも返せば良かった。無料の。
 根津改めモズは大雨の中傘を閉じ、逆さにし、柄の部分をマイクに見立てて突然歌いだす。
「あなたとい~たぁこ~ろ~は~わらいさざぁめ~き~だれぇもが~しあわせに~みえていたぁけ~ど~」
こいつはいつも変わらないなと彼は根津を見て微笑ましくなった。
「花崎も一緒に歌え。歌え。」
「歌えって、僕歌詞全然知らないよ。」
「知らねえのかよ、名前一緒だろ。いいから合わせろよ。ほら、っはい。」
理不尽である。名前が同じだからといった理由で知っているのが当たり前だと思った根津の思考回路が解せない。根津という苗字の人間が全員同じ思考を持って共有しているとでもいうのか。けれども小さい頃、昭和の名曲特集のような番組で何度も見ていたのが頭の片隅に残っていて歌えた。
「「ひとは~ひととぉ~わかぁれて~あとでぇ~なにを~おぉ~もぉ~うぅ~、とりはぁ~とりとぉ~わかぁれて~くもに~」」
「なんだよ、めちゃめちゃ知ってるじゃねえか。どういう謙遜だよ、ばか。」
「杉田かおるって最近全然見ないな。何してんだろう。」
「そんなのしらねえぇよ。でもどっかで生きてんだろ。それだけは間違いねえ。」
「そうだな。どっかで生きてんだよな。間違いない。」
「へっ。雲からな。いくぞっ、そいっ。」
「「くもにぃ~~なぁる~~くもにぃ~~なぁるぅ~~~、わたしのこころぉがそらならばぁぁ~~~かならずましろなとりがまうぅぅ~~~とりよぉ~とりよぉ~とりたちよぉ~~、とりよぉ~とりよぉ~~とりのぉ~うたぁぁぁ~~~~~」」
 激しい驟雨のために彼らの歌声はほとんどかき消され、浮世は夢のごとく束の間の合楽となった。
 雨は一向に止む気配を見せず、さっきよりも加勢した大きな粒は傘からはみ出た彼の一部分をさらって地面へと落ち、浸透した。さよならだけが人生だとはよく言ったもんだなと彼は何故か根津の穴のあいた傘を見て思った。
「その傘じゃ差しても差してなくてもあんま変わんないんじゃない。絶対風邪ひくよ。」
「馬鹿野郎。これは傘じゃなくてマイクだから風邪ひかねぇ。」
 彼は根津と談笑した後、教務課へ行って事を済ませ、どこか心の支えが取れたような心得顔で坂を下るのであった。自分は今までこの世の妄染に身も心も服従し、それらの桎梏から今やっと解き放たれたのではないかとまで思った。何より気分がいい。今ならどんなに嫌なことがあっても許容してしまう気がする。  
 前方から何も考えていないような茶髪の尻軽風女が彼を避けることなく通過する。よく見ると可愛いかもなんて思った。女に気を取られぼけっとしていた彼は足元のぬかるみに気づかずにはまり膝下を泥で染めた。いいよいいよ全然いいよ、むしろグランジ、グランジ。さっきとは裏腹に従容な彼は女にこんにちはぁなどと距離と音量が全く合致しない喧しい声で挨拶した。女は彼を瞬時に訝って傘を改めて深く差し、そそくさと驟雨の中へ消えていった。まだ完全な夜ではない日没前に光る外灯が彼を世界から孤立無援の感傷に浸らせた。
 篠雪さんに会いたい。篠雪さんだけが僕の生きる道標だ。篠雪さんのためなら僕はなんだって出来る。さてそろそろ行きますかぁなどと普段は絶対にしない喝を入れて彼は篠菱雪の家に向かうのだった。

 お酒の力があったとはいえ自分があんなにも胸襟を開いて話したのはいつ振りだろう。彼女は底知れぬ幸福感とともに、彼の当然のように困惑した顔を思い出し、慙愧したい念に駆られた。
 あれは私ではないのだ、私という体を仮床にした化身なのだ。どうせ死ぬのだから恥などはないのだ。そう思うことで心が軽くならないでもなかった。
 しかし彼は承諾してくれたのだから驚きだ。彼女も起承転結で言うところの結の部分しか言っていないのに首肯した彼にすこし拍子抜けしたほどだった。本当に彼は人を殺すという工程とその後を分かっているのか。いまのところ殺人を犯した後に未来はない。彼の返事にはどこか勢いで刺青を入れる若者のような顧みない若気の発心があるように見えた。しかしそれはあくまで導入の部分、いわゆる起でしかなかった。急な転調。僭越な振舞。キスキスキス。
 どっちからいったのだろう、覚えるまでもないことだったのか、突発的なことだったのか決定の部分以外欠落しているが、彼女は唇と唇とが触れ合ったのをついさっきの事のように覚えている。紅く火照った肌に、幻惑的な目、彼女を魅了するには充分であった。いつもの彼女ならここで落城する事は無かったかもしれない。しかし嘱託依頼という自分と自分の合致する本心、最後の邂逅が彼女を素直な性欲へと導いたのであった。
「かおる、別にいいよ。」
幻惑には幻惑で対抗した。吸い付きが更に紅潮を増し、欲情を持ち上げる。
「っ、痛い、跡残っちゃう。」
彼は唇を強く噛む癖があった。しかし普段忘れ慣れている彼女にとって彼との思い出など容易く消せるということであり、どうせ死ぬのだからという嘱託依頼によって出来た、魔法の言葉に似たそれは日頃の不可能を可能にする魔力を秘めていた。吝嗇など本当はどうでもいいのではないかと自棄するまでに彼女を発展させた。
「今度は私の家に遊びに来てよ。その時に、ね。」
 彼女は昂ぶる気持ちを抑えきれずにその場の勢いで彼の腕に地図を書いた。彼を何処までも繋ぎとめたく思った。だがこれは酔いという一時の欲求に過ぎない。
「いい、世界町で降りたら、左手にカラオケハウスがあるの、T字路になってるからそこを右に曲がってひたすら歩くの。そしたら神妙通りっていうアーケード街があるから入って抜けると仮設で建てられた様な陳腐な時計台があるからそこをまた右ね。一応書いとくけどあとは流れでわかると思う。篠菱って表札があるからね。」
 一方的な会話。女はいつもこちらの都合を顧みない。
彼のかいなはびっしりとマジックで地図が書き示され、さながら片腕芳一と化した。
「篠雪さんぁ、僕はぁ、本気ですよお、篠雪さんの頼みならぁ、断る理由が無いですよぉ、綺麗だしぃ、可愛いしぃ。」
理性の崩壊。
「はいはい、ありがとう。ほんとは酔っ払ってない時に聞きたかったよ。ちゃんと証拠にそれも書いとかなくちゃ。」
「はいぃ、書くますよお。」
 彼はもう片方の真っ白なキャンバスを差し出す。
「どれどれ、これでよし、篠雪さんの願いを叶えると、忘れてたら帰って思い出せるね。」
「僕と付き合ってくださあい、ぷひいぃ。」
「ふふ、私を殺してくれたらいいよ。」
「わかりました。僕は一度決めたらやる男ですから。任せてください。」
 後は彼がどう思ったかに懸かっている。彼の会話こそが一時の発言に過ぎないのではないか。何故にあの時はあそこまで自分を慢心させたのだろうか。お酒は飲んでも飲まれるなと母がよく言っていた事を思い出し、死んだら母は一人になるんだよなと悔恨と憐憫の情が今までになく彼女に押し寄せた。私が居なくなったら母はどうなるのだろう、そんな事を日頃から考えては行き着く末路に思考を急停止していたが、この時ばかりは目をそらすことが出来なかった。母は私が死んだらおそらく後追いするだろう。それほどに私は愛情を受けている。それは自惚れではなく別に痛いほど感じていた。しかしその優しさが余計彼女に気を遣わせることになった。私のためだけに生きているような母の自己犠牲的贖罪のような人生は私が作り出してしまったいわば過分な奢侈なのだ。彼女の思考暴徒は私がいなければ両親は離婚することはなかったのではという帰結にまで発展した。
 一家の元凶を全て背負ったかのような彼女の心持は、ものという概念と敵対する事でかりそめの平和を案じてきた。だがもうそれは土崩瓦解するにはいくらの時間もかからないものと成り果てた。吝嗇は身を梅毒のようにゆっくりゆっくり蝕み、人間をすら汚染されたものとみなし、閉鎖環境を悪魔に捉え、彼女の歪んだ精神は今にも昇華寸前だ。もはや彼女は忘我などといった自制が織り成す技ではなく、自暴自棄のように自尊を無くした売女に近い心境であった。どうせ死ぬんだから、彼女の心が窮屈な獄舎から片顔を出す。薫と接吻がまったく恥じらいなく無機質な行為へと正当化される。どうせ、死ぬんだから。彼女が死んだら母はどうなるか、薫はどうなるか、そんなの私には関係のない事。私は何もかも忘れた。何も知らない。私は頑是無い子どものふりをした老獪な獣。昨日は前世で明日は来世よ。これはアルコールの作用からくる失態などといった申し開きでは通用しないほどにどろどろとした毒が彼女の全身を回っている証なのであった。
 
  彼は何か刃物とか買ったほうがいいのかなと思った。手持ち無沙汰でいっては申し訳ないし、これといってお土産というテンションでもない。いま彼と彼女を繋ぎとめているものは嘱託殺人という赤い糸なのだから、そのくらいの狂気があったって大丈夫だろう。それに今行ったら夕飯時には向こうに着いてしまい、篠雪さんはおそらくまだ仕事で帰っていない。根本が人見知りな彼は、彼女の住所から察するに親や兄弟が出て来た場合を杞憂し、取り敢えずホームセンターに行って雨が止んでいなかったら近くの公園の屋根つきベンチで彼女の帰る時刻まで過ごそうと思った。はたして篠雪さんは突然の来訪に驚くだろうか。そんな楽しみもあってか彼は少し浮き足立ちながらホームセンターへ向かった。
包丁でいいのか、ロープの方が致死能力が高いんじゃないか、などと考えているうちにホームセンターに着いた。意外と充実しているコーナー。大中小のハンマーや大型ペンチ、トンカチも何十種類もあった。のこぎりまで大中小取り揃えてある。包丁にも万能包丁から出刃包丁、薄刃包丁に刺身包丁とたくさんの種類があった。彼は一番切れ味が良さそうな、牛刀包丁を購入した。殺傷能力が高そうな鋭利なデザインに惹かれて買った。
 僕は本当に人を殺すのか。彼は自分が向かっている成り行きにあまり目を当てないできたが、事の重大さをだんだん感じてきたのであった。あの日彼女を見送った後、彼は両腕が真っ黒なことに驚き、一方にはタトゥーのような記号が櫛比に描かれていた。もう一方には篠雪さんの願いを叶えると書かれていた。全く記憶にない彼は一瞬刺青を入れられたと思ったが、よく見るとマジックで安心した。油性だった。ヘナタトゥーのような跡が残った。
 これは篠雪さんの家に行っていいってことだよな、そしてやるしかないな、そう確信したが一応は連絡を待ち、彼は何の連絡もない三日の無沙汰から重い腰を上げ、書き写したメモを片手に彼女の家に向かっているということなのだった。
案の定雨は止まない。さっきよりは小雨にはなったが、それでも傘なしでは歩けないほどには降っている。
公園のベンチに向かった彼は屋根葺きにもかかわらずびたびたになった椅子に腰掛けるのを躊躇い、牛刀包丁を入れていた袋で等閑に椅子を拭いた。ちょうど日が沈んだ時分。軽く後五,六時間はここにいなければいけない。一体何をしたらいいのか、普段外に長時間いる事があまりない彼はアウトドアの過ごし方に関してはボンクラで暗愚だった。
 しかし雨のせいで外気がだいぶ下がり、八月なのに心地よく過ごせるのは有難かった。クーラー病になりかけていた彼は自然の恩恵を感じ、森羅万象と叫ばずにはいられなかった。雨というフィルターがあると彼は何でも叫べる確変に入るらしかった。僕は自由だ。なんの社会的拘束がない、モラトリアムなんてちっさいちっさい自由に過ぎない。そして僕をつなぎとめる自由の綱こそが篠雪さんなのだ。早く会いたい。自分を肯定されたい。まだ五分と経っていない。彼は出尽くした。
 ベンチに座っている女性が一人いる。彼は興奮していて全くそれに気がつかなかった。我に帰った時、牛刀包丁の思ったよりの重さに少し不安になった。そんな苦悩の顔で包丁を見つめる彼を彼女が凝視する。彼は彼女を一瞥する。狂人と思われたに違いないと思った。実際包丁を抱えて森羅万象は狂気の沙汰である。
  声をかけたのは以外にも彼女の方からであった。
「雨止まないですね、困ったなぁ、お兄さんも雨宿りですか。」
「あ、雨止まないですね、そんなとこです。」
会話を掘り下げられない事と疎遠にしてしまう彼の得意が露出した。
「もしかして上の大学のひとですか。」
「ううん、違いますよ、僕は大学生じゃないですよ。」
彼は嘘は言っていない。先ほど退学届を出したばかりだったのだ。
「わたしは上の大学のひとなんです。小さい傘しかなくて、さっきみたいな豪雨が来たら嫌だからここで雨宿りしてました。」
「そうなんだ、よかったら僕の傘貸しましょうか。それよりは多分でかいし。」
「え、いいんですか、今日大事なゼミの集まりがあって、助かります。」
 彼が差し出そうとした時立ち上がった彼女の顔に外灯が丁度灯り、光のせいか余計に病弱な白い顔が露わになる。
あれ。あれ。あれあれあれ。この万朶のように垂れ下がった豊潤な黒髪。この意外にもハキハキした曇りのない口調は間違いない。正面からは見た事なかったけど病院であった子だ。うわぁどうしよう。病院一緒ですねなんてデリカシーのないことは言えないし。僕はモラルの男だから。彼は逡巡した。
 「あの、何処かでお会いしたことありますか。」
聞いて来たのはまたまた彼女であった。
「いやぁ、どうでしょうね。あるような気もするしないような気もします。」
格好を付けるモラルの男。
「わたしはあります。精神科で会いました。」
 彼女の快活な言葉の矢は建前という世界を度外視して、彼の胸を真っ直ぐ正鵠に射抜く気持ちのいいものであった。
「あ、あー、あの病院、通ってるんですね。」
「はい、もう通ってから三年になります。わたしパニック障害なんですけど、なかなか良くなったり悪くなったりの波があって。」
 何もかもを包み隠さずに曝け出す彼女をかっこいいと思った。デリカシーが無いとは思わなかった。そしてこんなところで共鳴してしまう自分がいた。
「人生いろいろありますよね。」
あまり食いついてパーソナルな部分に触れてもまずいと思い、慌ててニヒルを装った。
「ですね。また病院で会うかもしれないですね。その時は声かけてもいいですか。」
 屈託のないというのはこういう事を言うのであろう。彼女の話し方といい仕草といい、彼は聞かれたら何でも言ってしまいそうな気持ちになった。
「じゃあまた病院で。」
そう言うと彼女は背丈に合わない大きな傘を開いて、にこやかに会釈して登山を始めたのであった。 
 同じ病に罹っているといったものから来る連帯感は並々ならないものだった。ましてはそれが精神病で痼疾とあらば何か、ただならぬ繋がりを彼は感じざるを得なかった。
 傘を貸したことでより逃げ場を失った彼は雨を止むのをしばらく待ち、二十二時前に止んだので駅に向かったのであった。考える時間があったせいか彼の心にも少し余裕が生まれた。


 水滴がついて乾きっていないチャイムを押す。中の方でドタドタという音が聞こえる。彼はさっきベンチを拭くのに袋を使ってしまったために裸で牛刀包丁を持つしかなかった。電車ではズボンのポケットに入れ、はみ出てしまった分はTシャツで隠してきた。包丁にばかり気を取られていたせいでズボンの汚れは気にならなかった。
 予定していた来客のような彼女の歓迎に彼は少し戸惑いながらもやっと会えたという安堵感からか口を緩めた。戸締りのために閉めた鍵が横木だったため少し驚いた。家に来た時鍵閉めるねと鍵に非常に過敏に食いついていたのはこの為だったのかもしれないと思った。
 「どうしたのその足」
彼女は手にした刃よりも先に彼の泥だらけの衣服に注視を当てた。知っていてあえて逸らしたのかもしれなかった。
「これですか、さっきぬかるみにはまっちゃ、いやグランジです。グランジ。こういうファッションです。」
「そうなんだ、よく分かんないけど。私昨日薫の夢見たよ。」
「どんな夢ですか。僕も見ましたよ、篠雪さんの夢。」
 夢など見ていなかった。ただ本題に入るのに怖気付いて話をそらすことに徹底したかったために出た咄嗟の嘘だった。だが嘘とは人間だけに許された言わば人間の特権であり、嘘も方便ではないか。彼も彼女も真っ当に人間だということは間違いない。
「薫もみたの、どんな夢。」
「僕もみたんですよ、篠雪さんのはどんな夢ですか。」
実際に夢を見ていたならば我先に話したくなるのが普通である。どんな夢と聞かれ即興の空想に乏しい二人はなにも思いつかずにどうぞどうぞの堂々巡りをしていた。
「んーなんか忘れちゃった」
めんどくさくなったのか彼女は戯論に終始を打った。 驚かせようと忍ばせていた彼も尻すぼみし恥ずかしくなってそれをポケットに隠した。
でもこれって座った時、陰部に刺さんないかなと思った。やっぱり出しておくべきだとも思った。が一度入れてしまった物を抜くことが母親もいると聞いていた手前、躊躇わせた。
 彼女の部屋は玄関を入って正面突き当たり右側にあった。ドアにはローマ字でYUKIと書かれた小さなドアプレートが掛けられてあり、意外と子供っぽいなと良い意味で思った。
 中に入るとカモミールのいい匂いが充満していて、それだけで彼は卒倒しそうになるほどだった。篠雪さんが育った部屋と考えないようにすればするほど考えてしまう彼の脳は止むを得ずやらしい方へとシフトチェンジするのであった。
 「何か飲むでしょ。」と彼女は家族のようなトーンで話しかけた。親近感に溢れかえった彼は「なんかのむ」と聞き取りにくい喃語口調で答えた。
 彼はその間牛刀包丁の置き場所を考えた。肌身に置いていたらいつか刺さる。かといって出すとなるとさっきの空気的にも隠した方がいいらしい。とりあえず彼はベッドの下に牛刀包丁を速やかに収納した。
 ごめんねお茶しかなかった、と言って冷茶を持って来た彼女はどこか人妻風を匂わせた。大きなつり目の左目下にある泣きぼくろがさらにコケティッシュな一面を花開かせる。
 この濃度の高い匂いは一体何処から来ているものなのだろう。ベッドからのような気もするし、カーペットからのような気もする。いや部分的なものというよりこの部屋全体が濃密な香りで満たされている。それは目を瞑ると忽ちに乳母に包まれた赤子のような安堵へと彼を誘うのであった。
しかし不思議に思うことが一つだけあった。それはこの部屋が殺伐としていて物が無さすぎるという事だった。大きな家具はベッドと丸い卓上テーブル、衣装箪笥だけのこの部屋を特徴付けるものはもはや匂いだけと成り果てた。散らかりようのないこの部屋の実に空疎で、ないことだけがあるような形態が彼に何処か異世界を感じさせる起因となった。彼女が常日頃呼吸をしている空間に居るという事柄だけで彼の呼吸は乱れ、発作に近い感覚へと埋没しそうになる感覚を無理矢理意識で押し殺す。並びに篠雪さんになら何もひた隠しにする必要はないのではないか、全てを述懐してもいいのではないかといったエゴイズムに似た、惻隠されたい彼の底意は止まることを知らない騎虎の勢いで疾走するのであった。彼女の秘密を掌で転がしているような稀覯が彼の邁進を殊更誘発させた。彼女の生死が今自分の手中に収まっているということよりも、彼女を惻隠の情で満たさせる事に精励を上げることで彼の心はいっぱいであった。  
 「この前は酔っ払っちゃって記憶失くしてすいませんでした。」と彼は真面目な顔つきで話した。
「全然大丈夫だよ。私もあんまり覚えてないし、でも薫があんなにお酒弱いとは思わなかった。」
「ぼく何か変な事しませんでしたか、大丈夫ですかね。」
「何もしてないよ、すぐ寝ちゃったから。」と彼女は自分に返しているのか彼に返しているのか曖昧に言った。
「手の地図がものすごく分かりやすくてぼく方向音痴な方なんですけど一歩も迷わずに来れました。」
彼は四,五時間公園で時間を潰した事は口が裂けても言わずにあくまでスムーズに来れたという事だけを強調した。
「でもまだうっすら残ってるね、油性で書いたから。」
彼の両腕はまだ薄らとインキが滲んでおり、地図の方はぐちゃっと形崩れしていて原型は無かったが、片一方の文字の方にはまだ字がにわかに読めるくらいに残っていた。
 篠雪さんの願いを叶えると書かれたそのかいなを二人とも見、やはりあの事は現実であったのだと再確認するのであった。この時二人が考えていた事は多少の違いがあるとしてもあらかた大同小異なものであったに違いない。嘱託殺人の需要と供給が歪な線を描いて結ばれていくのを犇犇と感じるのであった。   
 「篠雪さん、その、この前ぼくにお願いしたじゃないですか。えっと」彼は汚れたかいなを見つめながら声は彼女の方へと向けて話した。
「うん、やっぱり覚えているよね。お願いしたよ。殺して欲しいって。」
彼女の挙措を失うこともなく自然体な返しのため変な空気にはならなかった。「ぼくは篠雪さんのお願いを聞きました。だから今度はぼくのお願いを聞いて欲しいんです。」
 彼は自惚れたいだけだった。自分の話を聞いて欲しいだけだった。篠雪さんになら自分の醜い醜態の部分も話せる気がした。嘱託殺人するんだから、僕は本当にするのか、するんだから少しくらい良いよなという彼の欲が横溢する。しかし彼の苦心は相当なものであることは間違いない。今まで目を逸らしてきた病気を僕はどこまで晒すことができるのだろう、彼は怖かった。
 「お願い?私に出来ることなら力にはなるけど」
口には出たものの彼女は攻守が一気に逆転した状況に切り替えるのに時間を要した。
「お願いというか相談です。ぼくポプラ辞めようと思ってます。」
何拍かの間があった。
「そっかぁ、薄々感じてはいたよ、薫辞めそうだなぁって。体調悪いの?」
 予想だにしていなかった返答に彼は少し面食らった。感じていて更に体調の良し悪しを聞くということは彼は完全に切り離すことができずにいた症状をポプラでも出してしまっていたという事だった。自分でも気付いていた。当たり前に出来ていた事がどんどんどんどん出来なくなっている。焦燥感、こうしなければいけないという強迫観念、もう自分は生きている事が親不孝なんだという希死念慮、それらがパニック障害という彼の核を通して四肢五体に症状として凝集する。
 「やっぱり、体調悪そうなのバレてたんですね。」
「うーん、ここんとこずっと顔色悪かったからどうしたのかなぁとは思ってたよ。」
 微々な精神の変化に気付いてくれた彼女を彼はやっぱり如才ない人だなぁと思った。エゴイズムなのは知っている。だけど、僕は寂しいんだ。誰も僕を分かってくれる人なんていないんだ。僕だって僕のことがよく分からないんだから当然、他人なんかに分かるわけないだろう。そう思っていた彼にとって病気を見せてしまった事で少し吹っ切れ、自分と症状が繋がった感触がした。ただしそれは先に会った病院が同じ彼女に触発されただけの中身のないいたずらなものに過ぎなかった。
 「篠雪さん、ぼくパニック障害っていう病気なんです。」
彼は堂々と言えば何ら忸怩などないのだと先の流れに追従するように言った。
 彼女は青天の霹靂を食らった。まさか彼も。そう思うと彼に対する感情が撹拌してよく分からない心が現れた。
「え、あそうなんだ。それはどういった病気なの。」
咄嗟に自分も同じ病気だということを隠した。
「密閉された空間、電車とか教室とかにいると吐き気だったり動悸、息切れがあったりしてそれが最近酷くなってきて。」
 彼女は愕然とした。今自分と話しているのではと錯覚させるほどに、彼の一挙一動が全て自分の化身であるかのように感じ、彼の苦しみを誰よりも分かる彼女は彼を今すぐ抱擁したい気持ちになった。
 彼女の少し眉間に皺を寄せた愁眉を見て、彼はもっと同情されたいと思った。
「ぼく大学も辞めたんですよ。発作が辛いし、このままだと唯々学費を杜爾にしてしまうと思って。」
 愉悦に浸る至福の一時。お風呂に久々に浸かった時のあの極楽。いや違う、僕はそんな刹那的な快楽に溺れたくないんだ。本当に苦しいんだ。何故同情されたいと望むのか。彼は毎夜毎夜、幾度となく懊悩、呻吟してまくらを濡らしたことか。
 彼は自分が今生きていることは親がいてこそ初めて成り立っているものである事を痛いほど重々承知している。学費から生活費から全て親に払って貰っている罪悪感。何も出来ない劣等感。懶惰というレッレルが彼の本質をさらに隠すものとなった。彼の両親達は知っていたのだろうか、精神病という名前に過敏に反応し、彼同様に見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。
 彼にこの病気が現れたのは十歳、小学二年生の頃だった。給食を食べていた彼はお腹がいっぱいになり、少し残してしまった。それを見た担任教師は全部食べるまで座っていなさいと高飛車にものを言った。その刹那彼は給食を全部食べなければいけない、残してはいけない、という思考に横領され、残してしまったらどうしよう、全部食べても吐いてしまったらどうしようという強迫観念が彼に住み着きだしたのだった。爾来彼は給食を食べると気持ち悪くなり、嘔吐という行為に悪魔的な恐怖を感じるのであった。それは教室だけに留まらず、電車にいる時、自分を拘束していると感じる密閉空間にいる時にここで吐いてしまうんじゃないかという予期不安が彼の第二の天性になってしまったのだった。
 「薫がいなくなるの寂しくなるなぁ、でもちゃんと休まないとね。」
彼女は今、連帯という切っても切れない鎖に繋がれた事を確信した。それはとある理論にまで及んだ。呪詛的な目、白い手首、整った輪郭の全ては私の化身、薫は私の化身だったのだと彼女は繰り返し腹中で反復した。私が今までに忘我といって忘れようとしてきた本当の私、つまり私の本心はそう、薫だったんだ。薫は私だったんだ。そう思うと急に湧く親近感と連帯感とが一緒くたに混じり合い、アンヴィヴァレントな感情に彼女は身を投じた。私は殺される必要がなくなったのではないか、私は薫を殺して初めて私になるのではないか。彼女は薫を殺さなくてはならないという使命に苛まれた。彼を殺す事は自分の本心を殺すことであり、忘我の不退転に入ろうとしている彼女にとっては彼を殺すことはもはや絶対条件になっていた。彼を殺すことは私を殺すこと、私が生きていくには化身を殺すしかない。死の鎖がジャラジャラと彼女に道づられてその外貌を紅く染め、その一脈を辿ると先には彼がいた。
 「薫さぁ、入って来る時刃物持ってたよね。あれどこにある。」
彼女の鋭い炯眼が牛刀包丁の不在を黙認するはずもなかった。
「あ、あれですか。えっとその下に。」と彼はベッドの下を指差し、陰部が切れるからなどという頓狂は弁解はせずにただ目に見えるとこに置くよりは隠しておいた方がいいと思ったから入れておいたことを助言した。
「ちょっと貸して。」
彼女はサディストのように彼を窘め、牛刀包丁のそれと似た大きな切れ長の目を秋波に送りながら言った。それは彼女を狂人と捉えてしまってもおかしくないほど主導を握るものに感じた。
牛刀包丁を握った彼女は「こんなもので人は死ぬことができるんだから不思議だよね。」とぼそりと言った。
彼の先までの勢いは大胆不敵な彼女の態度によって牽制され、それはすんなりと事を聞く張子の虎と相成った。
彼女の力無く力の入った出で立ちにどこか虎口を感じた彼は生唾を飲みドアの方を瞥見した。刃物を持った人を目の当たりにし、客観的に見たことのなかった彼は、これから自分がしなければいけない主観的な現実が何倍にも増して表れてくるのであった。
 カチ、カチ、カチ、カチと時計の針か心臓の鼓動だか分からない音が部屋に鳴り響く。 目の前を見ると其処にはもう彼女はいない。彼は後ろを振り向くのが怖くなって目を閉じる。すると背後から部屋の空気と重なった何倍にも濃いカモミールの香りが彼の鼻を擦過する。彼の胴を後ろから両腕でがっちりと抱き込んだ彼女が言う。
「ほら、ここ、持ってごらん。」
彼女は牛刀包丁の柄の部分を彼の手に優しく押し当て、閉じた掌中をゆっくりと開示させた。彼の握った手の甲を稜線に沿って撫でるように彼女の掌が包み込む。体側に向替えられた刃の先端が彼の上着に触れたのが感覚で分かる。彼は自分の成り行きが彼女の小さな手にかかっていることに戦慄し、本来は逆であろう立場に死の支配力を感じた。
「いい、本番はぶすりと勢いよく刺すんだよ。大丈夫だね。」
彼の耳元に吐息がかかる。彼は彼女の死の理由を明確に聞いていないのに対し思いのほか順々と進む事の過程に少なからずの疑念を抱いた。しかし死とはある日突然になんの助長もなくやってくるものであり、呆気ない無常のものであるという彼の既存の思想が深追いを引き留めた。
 数日後、辞めるなら早く言った方がいいという彼女の助言もあり丁度シフトが入っていたので彼はポプラに出向いていた。道脇には昨晩花火でもやったのか、バケツいっぱいに手持ち花火の残骸が所構わず無造に鎮座されてあった。そういえばこっちに来てから花火見ていないな、昔は実家の近くで毎年上がるのを見てたなぁと感傷的な彼は想い出に耽るのであった。花火といえば忘れられない出来事がある。
 それは先日実家に帰省した時の事、気のせいか気持ち小さくなった両親の歓迎に遣る瀬無い気持ちになった彼は、これ作ったから食べてと母が言って好物の冷やし中華を食べた。胡瓜、卵、ハム、紅生姜が乗っていて見ていてとても清涼感を感じないわけがなかった。市販のものなのに親が作ると何倍にも美味しかった。この幸福がいつまで続けばいいのにと思った。
 その晩、父の帰宅後に一家三人居間に揃った所で、彼は重い口を開け、大学を辞めたい事を包み隠さずに述懐した。
 親の顔の温度が下がっているのを感じた。
「何があったんだよぉ、急に、今三年だろ、あと一年なのに。」
父がそう言うのも無理はない。自分がいかに親不孝者であり、無為徒食と映るのにはしょうがない。償っても償いきれない不届きの最果てのような感傷になった。彼が気にしたのは親の世間体であった。自分が大学を辞めたとなると、親にまで風評被害が被るのが目に見えていた。病気のことを言った時の親の顔が忘れられない。なんとも愛惜と言おうか、悄然と言おうか、目尻に雫を溜め込んで顔をうつ向け、さめざめに涙した。
「育て方を間違えた。」
その言葉が彼にとって箴言のように心に突き刺さった。
こんな子に育ってしまってすいませんと彼は心の中でくりかえしぽつりぽつりと呟いた。
ベランダから見た花火はなんともいえない叙情があって、近くで上がっていることもあり煙が目に沁みた。
打ち上がった花火の明かりに照らされた父の横顔を見ると自然と涙が滴り落ちるのが我慢できなかった。
育て方を間違えた。その言葉が彼の脳裏を占領して、不燃焼なものとしてこの先堆積されていくだろう。赤く燃える父の頬に無数に彫り込まれた皺が日々の苦悩の積み重ねを物語っていた。なんとも垂れ下がった瞳の中に映る小さな花火が父の悲しみをなおのこと映し出すようであった。
「休憩か、もう終わりか」
父のその言葉は花火ではなく彼に向けられているようであった。
最後に特大の花火が空一面に打ち上がった。彼はもう花火を見るのはこれが最期だなと思った。父もまた花火の煙に目を奪われたようであり目を潤ませていた。
 ポプラに着き、事務所の階段を上がっていると上から男性が降りてくるではないか、少し顔を埋めている。
「あれ、根津?」
男は諦念からか顔をこちらに向け、おはようと絞った残滓のような声で鋭利な返事をした。
刹那、彼は根津がなぜポプラから出て来たのかが皆目検討がつかなかった。まさかこの男はお客として来ていたのか。彼の体に戦慄が走った。
「ね、根津、お前なんでそこから出て来たんだよ。」
疑り深い彼は根津を見つめ詰問する。
「お前さん、なんでそこからって事はここがどんな所か知ってる口だな。なら話は早いぜ。そうゆう事だ。」
彼は眼前が真っ暗になった。どうして根津が、まさか知り合いの終末を見ることになるとは誰が予想出来たであろう。
「花崎には世話になったな。言ってもお前さんも辞めちまったんだっけか。俺としてはこの前歌ったあれでお終いしたつもりだったが、これが本当のお別れになりそうだ。ありがとうな、花崎。」
根津は事務所の庭先に植え込まれた落葉広葉樹を見つめ、でっかいのぉとだけ言った。彼は根津があの日歌った歌の本当の意味を今初めて知ることとなった。今の自分に使命がなければ止めていたかもしれない。しかし現にもポプラで働いている末端の彼にはどうすることもできなかった。彼は社長に辞める旨を伝え、根津が先降りた階段を一段一段踏みしめる事がやっとであった。根津、止められなくてごめんな。ごめんな。お前の書いたと言っていた小説読んでみたかったな。どんなにつらくても季節は待ってはくれない。あんなに暑かった毎日が、秋の虫はもう鳴きはじめるのであった。
 あれから篠雪さんとは連絡がつかなくなり、世界町に降りてみたが激しい区画整理と都市開発により辺り一帯は瓦礫の荒野と化していた。どれほどの時が経ったというのか。一瞬で舞い込んできた目紛しい情勢に浦島効果を彼は感じた。現実が遊離している。はなから地に足など着いていなかったではないか。
 風の噂で世界町とは戦前、空襲で何もかもをなくしたみなしご達が互いに身を寄せ合い、一つの家族のように寝起きを供にしていた生活居住区だったらしい。生きるために男児は日々体を汚し働き、女児は心を汚すような仕事をした。駅を出てすぐの病院も元は簡易の慰安所だったとかないとか。
 しかし彼にはそんなことなどどうでもよかった。
 僕は鳥だ。それも親のない自由な鳥。巣のない自由の。彼は雲一つない真っ青な天空に両翼の真っ白な羽を高く広げ、飛翔した。
 さて死んだのは誰か。

 


 

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