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Rくんの「お控えなすって」

 玄関を入る。年長さんは一人で入らなければいけない。保護者は玄関のところまで。それが朝の約束だ。年中さんも5月からは同じになった。
不安そうな顔でパパを振り返る子。平気だよ。と微笑む子。寂しくて泣いちゃう子。ママに何度もキッスを投げている子。毎朝くり返される登園風景だ。
 年少さんは保育室まで保護者が連れていく。それでも離れ難くて5月の半ばまでは泣く子も多かった。「ママが良い、ママが良い」が定番のセリフ。上履きをなかなか履かなくて、痺れを切らしたパパが履かせてやっている。そんな光景も6月の声を聴くと硬かった表情も和らぎ、ほとんど見られなくなった。
 
 上履きに履き替え、園長に「おはようございます」ネイティブ講師に「グッド・モーニング」を言う。アリエルさんは人気もんで、保安官の恰好や海賊姿で園児を迎えている。
 挨拶も様々だ。年少さんは、恥ずかしくてママのお尻に顔を隠して通り過ぎて行ったり、逆に大きすぎる声で「おはようございます」と叫んで行ったりする。年中さんには「石井くん。おはよう」とか「おはようごじゃる」なんていう個性的な子もいる。ハグしてくれる子もいる。年長さんになるときちんと立ち止まり、丁寧に頭を下げて他人行儀な挨拶をできる子が増える。

 園長になることが決まって、初めて職員会議に挨拶をしに来た昨年の秋、昔から顔なじみだった先生に「スクワットしといてください」と言われた。的確なアドバイスだった。毎朝の挨拶で目線を合わせるために腰を落として「おはようございます」と言う。全員とひとりずつやると園児の人数分120回のスクワットとなる。3人で手をつないで「おはようございます」を言いに来るような園児もいるから、実際は100回前後しゃがんでいることになる。
 
 その中で年長組のRくんは、私が腰を落とすと、同じように腰を落としながら「おはようございます」と言う。私とRくん。二人で腰を落として片手を膝にやって向き合っていると「お控えなすって。手前、生国と発しまするは…」とヤクザ映画で渡世人が仁義を切るような構図になる。何だか嬉しくて笑ってしまう。
 たぶん彼は「新しい園長って、変な挨拶のやり方をするなぁ」と感じてはいるものの、私のポーズを律義に真似してくれているのだろう。「まねる」は「まなぶ」と同じ語源だそうだ。すなわちRくんはすでに「学ぶ人」なのだ。同時に、ここには私に対する彼の気遣いも込められている。「優しい人」でもあるのだ。
 最近Rくんの膝の曲がりが小さくなってきた。そろそろ他人行儀な挨拶に移行してしまうだろう。でも「お控えなすって」は私にとっては掛け替えのないウフフな三ヵ月だった。
 結論。幼稚園で働くのに一番必要な能力はスクワットだ。

筆者:成城幼稚園園長 石井弘之
2024年7月9日公式ウェブサイトに掲載

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