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【記事和訳】イラクの「シーア派」民兵勢力に加わるスンナ派―3. 互恵的な枠組み

前節の「PMU参加を迫られた」消極的理由に加え、スンナ派がPMU参加で得られる利益、積極的理由が説明されています。
原文:The Sunnis of Iraq’s “Shia” Paramilitary Powerhouse (Inna Rudolf, The Century Foundation)

目次

(和訳は仮)
0. 序文
1. スンナ派のPMU支持者:単なるプロパガンダなのか
2. スンナ派のPMU参加の根源
3. 互恵的な枠組み
4. アンバール県における諸勢力
5. 同床異夢
6. シーア派部隊のスンナ派隊員
7. PMUへの忠誠
8. 新しい同盟と賭け

互恵的な枠組み

サフワ運動の成れの果て、イスラム国による報復以外にも、PMUを受け入れるスンナ派部族指導者がいた理由がある。一時的とはいえ、米国支援下のサフワの試みが成功したことで、イラクのリーダー層も、対イスラム国戦でスンナ派部族を動員することを考える必要に迫られた。地域における部族アイデンティティは、移ろいやすいとはいえ、超国家的なものだったが、それでもイラク政府は、米国が育てた部族民兵を「イラクのもの」と主張して取り戻した。そしてイラク政府は、2014年6月以降「部族PMU(アル・ハシュド・アル・アシャイリ)」としてPMUに吸収合併されるスンナ派民兵の前身部隊を築いた。部族兵の構成員の吸収合併は、まず2014年8月に内閣指令として実施された。そして2016年2月に政府命令が出され、完成した。2016年11月までに、PMU内には約4万人から5万人のスンナ派戦闘員がいたが、その大半は通称「部族PMU」「スンナ派PMU」と呼ばれる組織に組み込まれていた。

2019 年 7 月に導入された組織構造によると、これらの部族兵は他の構成員と同じ軍事行動規範が課せられている。また、部族兵には所在地の県作戦司令部との調整が求められている。現在、PMU指導層は、PMU内の正式な部族構成員の数についてきちんと把握していない。が、PMU担当者や治安当局者はインタビューで、ニネベ県PMUが約18,000人、サラハディン県PMUが約3,000人、アンバール県PMUが約16,000人在籍していると述べている 。アンバール救世評議会の前会長ハイス氏は、アンバール県の在籍兵のうち1万人は民衆動員委員会を通じて給与を受け取っているが、残りの6,000人はいまだに「ボランティア」扱いされており、最低限の装備しか提供されていない、と述べている。

この枠組みは、2019年夏に導入された。イラク支配層や彼らが公認したPMUの活動にとっての利点は明らかであった。この枠組みで、イラク指導部は独立して動く地域アクターとの関係が築けるようになるだけでなく、対イスラム国戦にPMUが関与し、地元の部族部隊が領土保持に配備されることで、政府組織(軍・警察)の人員を他に割くことができた。この戦術は、イスラム国から奪回した地域社会が、シーア派民兵による取り締まりに懐疑的であることを認め、信頼関係を築くための手段として構想された。

PMUとサラハディン旅団・及び旅団長ヤザン・アル・ジャブーリの制度化された協力関係は、上記の論理で、スンナ派コミュニティ・PMUの両指導者が、もぎとりやすい果実を見つけ出し、収穫に成功した好例である。ジャブーリは、バイジの戦い(2014-15年)でPMUによるインフラ破壊や略奪行為が起きたことを問題視していた。この懸念を認識したPMU指導部は、ジャブーリに彼の故郷・アッシルカートの解放作戦を先導させた。ジャブーリは、シーア派PMU旅団ジュンド・アル・イマームの戦闘員数十名と、米国の空爆支による支援しか受けなかったとされる。地元勢力に責任を委譲しことで、PMUはスンナ派住民による大義への支持獲得に成功しただけでなく、住民にジャブーリへの個人的忠誠を競わせることにも成功した。そしてジャブーリは、少なくともジャブーリ自身の言葉によると、故ムハンディスと近い関係にあるようである。「2分以内に、私たちは打ち解けた。私たちは3時間ほど一緒に座っていたが、彼は私を気に入った。そして私も彼が大好きだ。」さらに、ムハンディスの死に際し、ジャブーリは父親(政治家のミシャアン・アル・ジュブーリ)とともに、スンナ派人物としてかなり早い段階で、死んだ「殉教者」「腕の中の兄弟」に心からの感謝と悲しみを公言している。

言葉や言い回しでは、私に降りかかった思いを表現することはできません。彼の不在は、彼が受けとるすべての詩よりも大きく、すべての哀悼の表現よりも大きいからです。この世界でこれらの瞬間の悲しみの深さを説明できるものはありません。ここには、抵抗の魂、勝利の立役者、殉教した指導者アブ・マフディ・アル・ムハンディスの輝きに(この悲しみを)伝える空があります。. . . 今日、神の剣が落ち、私たちの心は喪失感に襲われています。. . . さらば、親愛なる者よ、ああ、アリー(訳者注:預言者ムハンマドの甥、シーア派初代イマーム)の子孫よ、ああ、キリストの心よ、さらば、ああ、聖なる動員の父よ。さらば、ジャマール・ジャファール・アル・イブラヒム . . . 私たちはあなたに別れを告げ、あなたは私たちの記憶の中で不滅であるでしょう、死さえも私たちの中にいるあなたを殺すこと能いませぬ。

最後に、PMU指導部は、部族報復というありふれた、根強い欲求を認識していた。イスラム国残党の嫌疑がかかった者へ、報復をあからさまに奨励したかはさておき、少なくとも、部族が同じスンナ派の過激派に非妥協的な対応をとることを容認していた。PMUは対イスラム国報復をスンナ派部隊に委ねることで、残虐行為や過剰な行為について、PMU本体が否定する根拠を与えた。また、イスラム国支持者と疑われる者への報復活動をスンナ派に委ねることで、PMUの「超宗派性」の宣伝を続けることができたと同時に、宗派間憎悪に基づく殺害行為で憂慮すべき評判を既に得ているシーア派部隊から注目を逸らすこともできた。

しかし、イラク支配層が部族兵をイスラム国戦に参加させた際、部族PMUの設立プロセスの根底にあった「試行錯誤の論理」という構造的欠陥が内包されてしまった。ハイス氏は、共同戦闘での責任の共有を通じて信頼が高まっていると断りつつも、部族PMUへの差別問題について躊躇なく明言した。人民動員委員会の指導部には部族PMUの代表者がいない上、軍備やその他の軍事支援の面でも十分な支援を受けていない。しかし、ハイス氏の主な批判は政治家に対するもの、西部のスンナ派アラブ人の苦しみに目をつむり、「宗教のベールの下に隠れて輩出された凶悪なテロリスト」、即ちイスラム国と戦う集団義務を怠った、というものであった。

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