見出し画像

【記事和訳】イラクの「シーア派」民兵勢力に加わるスンナ派―2. スンナ派のPMU参加の根源

原文:The Sunnis of Iraq’s “Shia” Paramilitary Powerhouse (Inna Rudolf, The Century Foundation)

目次

(和訳は仮)
0. 序文
1. スンナ派のPMU支持者:単なるプロパガンダなのか
2. スンナ派のPMU参加の根源
3. 互恵的な取り決め
4. アンバール県における勢力
5. 摩訶不思議な同盟
6. シーア派部隊のスンナ派隊員
7. PMUへの忠誠
8. 新しい同盟と賭け

スンナ派のPMU参加の根源

2014年6月のイスラム国によるモスル占領、アブ・バクル・アル・バグダディによる歴史的なカリフ制宣言を受け、大アヤトラ(訳者注:シーア派最高位の役職)アリー・アッ・シスターニは副官を通じて、かの有名な教令(ファトワ)を発布した。防衛的ジハード、すなわちイスラム国の侵略に抵抗する神聖な武力闘争の宣言である。宗教的熱狂に駆り立てられた、何千人もの若い戦士たちがこれに呼応して動員され、約50の異なる武装組織からなる国家公認の準軍事組織「PMU」ができあがった。ここには数多の新兵と、既存のシーア派民兵がともに含まれる。既存民兵の多くはイランの傀儡、または長年の盟友として広く認識されていた。アンバール県に進駐している旅団を持つシーア派部族長:アドナン・アル・シャーマニーによると、イランと結びついた既存民兵は、溢れ返る志願兵の管理に貢献することで、行政上必要不可欠な支援を提供していた。(シャーマニー氏は元国会議員で、安全保障・防衛委員会に参加していた。)

しかし、シスターニ師は戦いへの呼びかけにおいて、シーア派を特別扱いしているかのような表現を意図的に避けた。シスターニ師代表者の2人、聖職者アブドゥルマハディ・アル・カルバライとアフメド・アッ・サーフィは、このファトワは全イラク国民への呼びかけであり、信仰に関係なくこの励行と奉仕に加わり、イラク治安組織を支えるよう呼びかけた、と後に強調した。この動員は、全体として効果があり、2017年にはイスラム国は領土的に敗北した。PMUは軍事作戦の過程で人権違反疑惑があるものの、アメリカに訓練されたイラク軍をも屈服させかけたイスラム国の進撃に対抗し、大きな貢献をなした。

戦場での成功を受けて、PMUはイラク政治に深く浸透していった。とはいえ、その体制の発達度は稚拙なままであった。民衆動員委員会(PMUを監督する運営機関)には、約15万人の戦闘員の給与支払い権がある。PMUは、彼らにとっての強い国家を「守る」ために、今まで躊躇なく(民衆動員委員会に代表される)公的な制度基盤を、私的に独占してきた。(イラクのような)権力で動く官僚機構は、しばしばこうした漸次的な「国家捕獲」(訳者注:政治的腐敗を指す用語。旧ソ連圏が有名。ここでは民兵が官僚に贈賄し、見返りにPMU関連の権限を確保・独占したことを指す)の進展を促してしまう。恐らくもっと驚くべきなのは、宗派対立の政治の中で、シーア派と競合するはずのスンナ派陣営が、PMUによる国家捕獲にしばしば(一部は喜んで)加担したことである。

スンナ派で、PMUへの支援を請け負い、PMUの中に身を置く部族がいることは、矛盾しているように見える。上述の通り、完全にではないにせよ、PMUは基本的にシーア派である。更には、人権や宗派抑圧に関して、過去に重大な疑惑がある。にも関わらず、イラク覚醒評議会(サフワ)の元メンバーの一部は、PMUとの取引機会を模索することを決めた。サフワとは、米国の支援を受け、イスラム国の前身「イラクのアルカイダ(AQI)」と戦ったスンナ派部族の運動である。サフワは2006年にアンバール県で始まり、最終的にはイラク全土に拡大したが、2013年に解体された。2006年~2008年の間、サフワはAQIの脅威緩和に役立ったと多くの有識者が考えている。一方、AQIに味方した部族の怒りを買ったサフワ戦闘員もいた。PMUに参加した元サフワメンバーの中には、PMUをイスラム国による報復に対する保険として見ていた者もいれば、お呼びでないPMUの侵攻から自身や自分のコミュニティを守ろうした者もいた。そして多くの人は単に、始まった戦争経済で「公平な」取り分を得ることを望んだ。

2014年にイスラム国が領土を急速に拡大した際、アメリカはまずサフワの再始動を試みた。2014年末~2015年初頭、米政府・軍当局は、アメリカ当局者や有識者が「部族動員部隊プログラム」と呼ぶものを開発し始めた。研究者エリカ・ガストンによると、2015年半ばまでに、米軍・安全保障顧問団はアンバール県の部族勢力のネットワークを動員することに助力した。2016年2月までには、プログラムは制度化され、ニネベ県での募集を開始した。「サラディン県では、イラク政府や、力不足を補うため、地元の協力者を支援しつつ進出した巨大なシーア派民兵群(PMU)の許可を受けられず、アメリカ支援の部族動員はできなかった」とガストンは記述している。その上、米国の部族動員努力に便乗して、イラク政府は、部族動員部隊の大部分を、新たに確立された民衆動員委員会の組織構造の下に段階的に統合することを選んだ。そして同委員会は、そこで登録された全ての部族民兵の金銭的補償と軍事装備について、権限を持つようになった。

(時は戻って)2008年、アメリカは、辛うじて得た治安面での成果を犠牲にせず、任務完了を宣言することに苦心した末、サフワをイラクの公的な軍事機構へ統合することを試みた。しかし、イラク政府への外交的圧力にもかかわらず、米国が交渉できたのはサフワ戦闘員の2割の統合のみであった。不承不承ではあっただろうが、米政府はサフワの協力者の大半を見捨てることになった。

2009年の地方選挙で、サフワ系の人々は堅実な成績を収めたが、戦場での貢献を政治的・制度的な影響力に変換することは結局できなかった。無論、ヌーリ・アル・マリキ政権(2006-14年の首相)が彼らの窮状に無関心であったこともサフワを助けなかった。サフワ系の面々には、自勢力を安定した政治的枠組みの下に統合できるだけの思想・ビジョンが欠けていた。更に、彼らには強力な外国の支援者がいなかった。

サフワの終焉は、サダム・フセイン打倒以来、イラクのスンナ派コミュニティが衰弱・分断したことの効果であり、その象徴と見ることができる。マリキ首相は、大きな抵抗なくサフワを解体し、その後に続く弾圧により、権威主義的と多くの人に非難された。2009年に国際的・国内的な保護を失い、サフワの残党の多くはイスラム国の前身過激派組織の犠牲になった。前身組織は、残党や残党が関わるコミュニティを「協力者」と呼び、復讐した。初期のイスラム国が勢力を拡大する中、「血の復讐」は続き、不穏さを増した。

サフワの一部、アンバール救世評議会の元代表シーク・ハミド・アル・ハイスは、イスラム国が同県で行った組織的虐殺を強調する。「アンバールはイラクで最も被害を受けた県です。全エリアが破壊された。サブラ・シャティーラの虐殺(1982年にレバノンのパレスチナ難民キャンプ2つが襲撃された有名な事件)と同じです。」イスラム国は、アンバール県ヒート市で「親政府スンナ派部族」アルブ・ニムルの約864人を殺害したと訴えられている。中東の安全保障アナリスト、マイケル・ナイツ氏は、2018年上半期、イスラム国兵士がイラクのムフタール(村長)を週に約3.5人のペースで殺害したと報告している。

ジハード主義者の暴力の最悪な残虐性にさらされ、守ってくれる人がいない大半の部族員にとって、選択肢は限られていた。アメリカとイラク当局にはともに失望させられていたのに比べれば、PMUとの提携は実現可能な保険のようであった。ハイス氏は述べる。「私たちは何千人もの殉教者を失った。当時のPMUは、結成されたばかりなのに、イラク軍や警察よりも強かった。誰も真実を否定はしない。PMUに対する苦情は出ている。彼らは確かに間違いを犯している、が、ここは戦場なのだ、結局。それでも、(イスラム国が)占領していた地域を解放した功績の大部分は、PMUにある。」

※以上の「PMU参加を迫られた」消極的理由に加え、次節ではスンナ派が加わることによる利益、積極的理由が語られています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?