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カタい話になってしまいますが、普通にこの社会で生きているとけっこう置いてきぼりにされるって事は普通にあると思っています。でも、それを多くの人は普通だと考えてしまいます。そんな事ないよ!って思いますか?

例えば「氷河期世代」ってありますよね。その世代に当たってしまった事は時代がそうだったから仕方ないと多くの人は考えます。それで政府には支援を求めます。これ、正しい考え方だと思いますか? 私は思いません。

氷河期世代だからこうで、バブル世代はこうみたいなのは、その言葉の中に押し込めている発想だと思うのです。そもそもどんな世代でも、どんな年齢でも、どんな性別でも同じようにチャンスを与えていれば世代に閉じ込めて考える事は必要ないはずです。義務教育のような一定の基礎教育を低コストでするならある程度年齢を規定しても仕方ないかもしれません。でも、それ以外は勉強などいつから始めても構わないわけで、その自由はあると言ってはいますが、実際には年齢によるハンデはあります。性別にもあります。他にもあります。

例えば、「おじいちゃん」という言葉があります。私たちの社会はおじいちゃんに何を閉じ込めているでしょうか? おじいちゃんは恋愛しませんか? おじいちゃんはセックスしませんか? おじいちゃんは演歌を聴いてロックはどうですか? おじいちゃんは時給1000円でお掃除の仕事しかありませんか? おじいちゃんは温泉が好きですか? 実際のところ、私たちにはおじいちゃんが全然わからなかったりします。でも、おじいちゃんという言葉に閉じ込めるとわかった気になります。そんなものです。

これからの時代、私たちはそうしたわかったように勝手に思っている実際にはわからない事を定義し直していかなければならないと考えます。おじいちゃんをおじいちゃんと見るのを止めて、若者を若者と見るのを止めて行く視点が必要なのではないでしょうか?

閉じ込めれば分断が生じますが、分断していれば多数決しか方法はありません。若者はおじいちゃんには数で勝てません。それは絶対まずいです。多数決でばかりやっていると今の政治と同じです。多数派は少数派にきちんと説明すらしない状態が続いています。でも困っているのは常に少数派で、少数派は受け取れる権利をいつまでも受け取れません。若者はいつでも、というのはどんなに一所懸命新しい事を勉強してもという意味ですが、会社等では末席に座らされます。ちゃんと勉強しても損している感じです。(試しに言ってみたら良いです。「おい、そこのオヤジ、会社のマーケティングデータ自分ならPythonで5分以内に処理できるけれど、あんたはエクセルで半日かかるんじゃないのか?」とか。)こういうのは全然自己責任でそうなっているのじゃないです。誰かがそうしようとしているか、誰かが変えないで放って置いているのです。

そろそろ選挙がありますが、考えましょう。

(以下余談)

ところで、私、こんな事考えているのは選挙のためばかりじゃないのです。小説書いていてそう思っているわけです。小説にはピンポイントでそんな事書きませんが、ベースにはそんなところがあるという意味です。読んでもわからないと思いますけど。

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