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夏目漱石は退屈な作家なのか?

 Twitterで興味深いツイートがでていました。(その考えが良いか悪いかという判断を私はしませんし、できません。)「夏目漱石の作品が退屈で面白くない」というものでした。

 夏目漱石と言えば、私がそれを読んだのはもう遥か昔の中学生の頃でした。あの頃はどの小説が面白くてどれがそうでないかもわかりませんでした。ですから完全にわかっているかどうかと問われれば、「いいえ」です。でも、その後、夏目漱石ばかりでなくいろいろな日本の小説を読み、そして翻訳小説を読んでわかった事があります。それは・・・

「日本の小説はわからない」って事です。

 ずっと前にも別記事でそんな事を書きましたが古典的な日本の小説は「描く」手法で書かれているので「結局、何が言いたいのよ?」の問いに答えるのは至難です。もちろん、明快なものもありますが、名作と言われるものにはそういうのが多いのです。こちらの記事を書かれている方も好きだそうですが、やはり苦労している事がわかります。

 ですから、ある見方からすると夏目漱石作品は退屈です。時代も遠くなりましたし、共感できない部分は多いのですから。

 ただ、これは個人的なスタンスについて言いますが、私は自分に理解できない作品の場合、逆に興味を持つ事が多いです。先日来ずっと下書きに使っているジョルジュ・バタイユの作品もそうでした。ただのエッチ作品なのに、なぜか「20世紀で最も重要な作家」と評する人がいて、検索すると研究論文も山ほど出てきました。わけがわかりません。そこで終わりにして次に行ってしまう事も出来たのですが、「ミルク皿にお尻」の印象が強すぎて離れられなくなり、いろいろ関係資料を漁りました。

 何と言いますか、これはいつも思っている事なのですが、自分にとって重要なのは既に知っている事よりは「知らない事」そして「理解できない事」ではないかと思うのです。ですから書いている時もいつも思います。「自分は何を無視してしまっているのか?」この場面で「自分が何を感じていないのか?」、「何を理解していないのか?」をです。書く以外の時もそうで、わかっていない事の方が重要だと考えてます。

 これは自分に自信が無いからかもしれません。だから私には夏目漱石が今もよくわかりませんが、作品が退屈と断言する事もできません。中学校の時に、生まれた猫に「美祢子(みねこ)」と名付けようとしましたが、私には未だそこまでです。逆に言えば駄作と言い切れるのが羨ましいと感じます。

(以下は別の考え)

 小説を鑑賞する態度はいくつかの種類に分かれるのではないかと思っています。私は工学系でやっているせいか、映画でも小説でもその構造が気になります。これは作品を機械的に冷淡に読むという印象を与えますが、ちょっと違います。作家がどんな仕掛けをしていて、どうしたらそれに乗せられるのかがわかるのです。遊園地の遊具に乗る時に前に向いて座るか横かで受けるインパクトは当たり前ですが違うでしょう。それを作った人にはこうして座ってくれたら最大限楽しめるとか怖がれるとの考えがあるはずなのでそれを探します。それで1周してみてから作品を評価するのです。

 そんな態度とは別の評価もありますが、それは皆さんにお任せします。でも好き嫌いが良い悪いと同じなのかどうかにはちょっと疑問があります。好きでも悪い、幼稚すぎる表現、浅い描写もありますし、嫌いでもお見事、わかる、そうかもな、があります。仕方ないです。先ほど名前を出したジョルジュ・バタイユも、前知識が全然無いと重要な意図がほとんど伝わらないわけですし。

 何にせよ、いろいろな人がいていろいろな意見を自由に出せるTwitterという環境は良いものですね。退屈と言ってくれた方に感謝します。

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