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小説書きの為に『ムーミン』を紐解くその1

(ヘッダー画像をムーミン公式サイトからいただこうかと思ったらやはり著作権に触れると言う事なので止めました。だからいつものヘッダー画像です。)

「ムーミン」と言えば世界中のほとんどの人が知っています。私も昔むかしその昔にTVアニメで観ていました。その頃は子供だったのでただ観ていただけで、自分が何を面白いと感じて観ていたかは全くわかりませんし思い出せもしません。そんなものです。でも、今振り返って見ると不思議です。ムーミンはメジャーになっているのに何が良いか面白いかがわからないのです。そこで、改めてちょっとだけ読んでみます。と言うのはアニメではなくて本の方です。それもAmazonの試し読みのところだけ。

試し読みではAmazonの決めたページ数で231ページまで読めます。第1章の途中までだと思われます。


構成はこんな感じ。

  1. スニフが今まで知らなかった道を見つける

  2. ムーミンとスニフはその道へ入って行く

  3. 海を発見する

  4. ムーミンが海で真珠を集め、スニフは箱を探す

  5. スニフは猫を追って行き、洞窟を見つける

  6. 家に戻ってママに話す

  7. 雨が降ってきて家に入る

構成の特徴は、これらが時系列で書かれている事です。とても素直な感じがします。でも、時間以外の繋がり、つまりお話としての個々のエピソードには繋がりがありません。

例えば冒頭の文では「ムーミンパパが川へ橋をわたしおえたのとおなじ日の朝」にスニフが新しい道を発見しますが、ムーミンパパのエピソードはそれ以降のお話の流れには全く出てきません。パパが川に橋をわたした行為はミルクを飲んだりお昼ご飯を食べるような毎日行われる事ではない、特別なイベントなので、単にその日を指定するだけのために役立っているとしか思えません。一般的な小説であれば「その冬に初めて雪がちらついた日」とか「妹が生まれた朝」とかそういうことになりそうです。でも雪が降った日であれば季節を示すマーカーになり、妹が生まれた日であれば物語やそれ以降のイベントの開始マーカーになりますが、ムーミンのお話では単にその日でしかありません。なぜ?

スニフが発見を知らせにムーミンの家に行った時、ムーミンはブランコを木に吊るしていますが、それも後で山から見てブランコが見えないほど遠い場所に来た事を示す以外に使われません。別にブランコが見えないではなくて庭の木が見えないでも構わないはずです。なぜ?

ムーミンとスニフが出かける時にお弁当を持って出ます。お弁当を用意する部分が少し長めに書かれているにも関わらず、ムーミンとスニフは行った先でお弁当を食べません。そして家に帰ってからお腹が空いています。なぜ?

スニフは海のあたりで猫に出会って見失いますが、猫にミルクを用意するのは猫がいない家に帰ってからです。なぜ?(←すみません。ここは間違いです。無視してください。)

ムーミンは海に潜って真珠をたくさん採りますがそれを洞窟に並べて終わりです。家に持ち帰る事はしません。忘れたかのようです。なぜ?


もしこうした書き方を自分でするとしたら、どうでしょう?どうでしょうの前に書けないかもしれません。普通は書けないと思います。辻褄が合わないのは明らかなので他人に読んでもらえる文章だとはとても考えられません。ファンタジーだから、登場人物が人間でない妖精だからこれでもOKと考えて書けるものでしょうか?


スニフの心の中だけ(カッコ)の中に書かれていて、ムーミンの気持ちは同じような方法では書かれていない。けれど、試し読みの最後の方でムーミンママの心の声がやはり(カッコ)で出てくる。

ですが、本文中に心の声以外の部分でスニフとムーミンの気持ちは語られます。スニフがムーミンに発見した道を自慢げに言うところでは『まじめくさって』返事をします。ムーミンがスニフと行くのを決めた時に台所に向かって『どなりました。』 ムーミンはスニフの見つけた道に入る時に『びくびくしながら』入ります。ムーミンが海のにおいから海がある事がわかった後に『さけんで、かけだし』ます。そして泳ぐ事がなにより好きだと解説が入ります。ムーミンが走って先に行ってしまうのでスニフは『なき声をあげ』、ムーミンは『足を止めません』。スニフは子猫を見つけて『胸がしめつけられるほど』嬉しいと感じます。まだまだありますが省略。

文章としては第三者が代弁していてどちらかと言うとスニフ寄りのようですが、ちょっと中途半端に思えます。スニフは読者の代・体験者なのかと考えられます。ムーミンは計り知れない不思議な存在であって、スニフが私のように考えられます。普通の感覚を持った普通の臆病者の私です。

ですから、書き方としてはちょっと変わった感じですが、読者の共感を呼ぶようになってはいるのです。

ですが、最後の方でママの(雨になりそうだわ)が入っている事で謎は深まります。(この後のお話を読まないとわからない事かもしれません。) ここはスニフとか何の関係も無いわけですから。


説明が決定的に不足している。

イラストが付いている事もありますが、イラストで説明されている風景と文章で書かれている空間の外側が余白としてたくさんあります。ほとんどが霧に隠されたように真っ白な感じがします。

ムーミンたちの住む谷はは『とてもきれいなところ』です。『小さな生物たちが幸せに暮らしている』、『大きな木々が青々』、『野原のまん中に川』、川はどこから流れてくるかが不明です。ムーミンがブランコを吊るしている木の説明が無い。スニフが見つけた道とムーミン谷の間の道筋の風景が全く書かれていない。スニフが見つけた道が森の中にあるらしいとわかるがスニフとムーミンが何を見たかが語られていない。(その代わりにイラストが1枚ある。) ムーミンが海の中で真珠を見たとは書いていないが、上がってきてから真珠がある事になっている。スニフが箱を探しに出た時にいたのが猫だけれども、その猫である必然性が説明されていない。そもそも洞窟が見つかれんば良いだけなら猫を追って行く必要は無いはず。

私も説明したくない病にかかっているのを自認していますが、トーベ・ヤンソンさんはそのさらに、さらに数段上を行っています。一般的にはこの説明の無さは歌の歌詞のような場合しか許されないと考えますが、小説でこれをした時にどうなのでしょう?世に出ている小説でも確かに説明をかなり省いているものもありますが、それはお話の焦点を絞るために使われていると思います。ムーミンのように不思議な説明無しはそう多くは無いはずです。

あっ、そうだ、村上春樹の「1Q84」やカフカの「変身」にような例もあるので、あると言えばあるのですね。


時間と空間の設定がテキトー

ムーミンとスニフが出かけたのはパパが川に橋をかけた日の朝で、帰ったのは夕方です。するとパパは橋をかけるのにほんの少しの時間しかかからなかったのか、それとも1日が人間世界のそれよりずっと長いかどちらかです。ママが貝殻を並べていたのは橋が夕日を浴びている時刻でしたが、ママはその作業を雨が降るとわかるまで続けていました。夕食の支度のような事を考えてしまう頃ですが、そんな素振りはありません。

距離に関しても、100キロメートル以上離れた場所に行ったとムーミンは言いますが、単に遠いところと言う意味なのかどうかちょっとわかりません。でも実際の距離が重要でない事はわかります。

一般の小節でこのあたりをイイカゲンにしてしまうと読者からは絶対にツッコミが入ります。著者でこんなふうに書く勇気がある人はあまりいないと思います。私もです。


ところでみなさんはムーミンをどう捉えているのでしょう?調べてみます。

まずはこちら。『危機と欲望』についての何かが隠されていると書かれています。驚きました。もう少しちゃんと読んでみなければ。

同じ方の文章です。こちらは名場面が記されています。もしかしたら、ムーミンにストーリー展開とは別の部分に本質があるのかもしれません。どうなのでしょう?

こちらはちょっと違った視点からです。最後の方に著者の考え方が書かれていました。
『人は互いに親切であるべきだというものです。とても幼稚に聞こえるかもしれませんが、まさにその通りなのです。』

こちらはもう少し俯瞰的に読まれていてたいへん参考になります。
家族と言いますとあるあたたかなまとまりのように考えてしまいますが、実際には親子兄弟と言えども個々に別人格であってバラバラです。それぞれに考えている事は違っていてわかっているように思うのは幻想かもしれません。そうなればムーミンのお話が構成も表記もバラバラな感じがするのは、単にファンタジーだからではなくて、むしろその方がリアルと言えるのかもしれません。よく考えれば小説を書く行為自体、実際の生活や社会からある部分を切り取ったり要素を抽出して文章に還元しているわけですから、読んでリアルに感じられたとしてもそれはそう感じられるようにする演出です。

例えばアニメの「サザエさん」。あれは家族の普通の姿を描いているように見えてやはり上記のような演出があって1話にまとまっているわけです。ストーリーとは無関係にマスオさんが仕事からの帰り道に財布を落とすとかカツオが学校の階段で転ぶような事はありません。ムーミンにはそれがあります。なるほど。

こしらはムーミンの社会派的側面が書かれています。こうした展開であれば小説もお得意な感じではあります。

こちらは映画に関連してのお話。
一部引用させていただくとしたらここ。「ムーミンに登場する人物(というか化け物)たちは、清くもなければ正しくもない。ただ、人間味(妖精味?)が半端ないのだ。」
前のところにも書いたけれど、人間を語る時にどうしても「こうあるべき」の思いが邪魔してその個人をその人として見られないと言う困った事があって、それなのにその理想化した個性がキャラクター設定になって一人歩きしてしまう。これは小説の中ばかりか日常でもそうした事がある。とすれば、本当にちゃんと見たままを意識するとお話はムーミンのようになるのだろうか?

こちらはちょっと私が感じたものと違う事が書かれていますね。もしかしたら、作品によって違いがあるのかもしれません。

大変なものが見つかってしまいました。これは素晴らしい。


ムーミンに関しては検索すればするだけ無限に書かれた文章が出てきます。全部読むのは大変です。ここにあげなかったものもたくさん読みました。全部紹介できなくてすみません。面白いものが多かったです。

ところで、ムーミンへの切り口として多いのはムーミンとその登場人物の「キャラクター」が好きと言うものでした。「嫌い」はほとんど無いようです。私の方はキャラクターの視点でなくて、文章の方に興味がありましたのでキャラクター系の文章は面白くても飛ばし読みさせていただきました。でも、現代的にはキャラクター側の方がきっと主流なのだと考えています。それはつまり「世界観」というもので作品を理解する方法です。

逆に言えば、ムーミンを構成やストーリーできちんと理解するのは難しいのではないかと感じています。そういう作品ではないのかもしれません。でも、そう考えるからと言ってよくあるキャラクター小説のようなのとは違いますし、簡単にマネして書けるものではないと考えます。ムーミンは脱構築的な書き方をされているとも解釈できます。

このあたりはちょっと手を動かして自分で書いてみないと本当にこれがムーミン以外で成立させられるのかどうかがわかりませんね。

追記(この記事公開後)
小林さんの記事「ムーミンについて書いた卒論と修論の概要(リポジトリからダウンロードできます)」の中でリポジトリにあった修士論文の1つに興味深い『文章』と『文体』に関する記述がありました。

これは国際アンデルセン賞受賞スピーチの一節です。

『子どもの世界をあとにしてひさしい人々が、突如として、子どものための物語を書きはじめるのは、いったいどういうわけなのでしょう。そういうときは、本当に子どものために書いているのでしょうか。むしろ、悲劇にせよ童話(ナーサリーライム)にせよ、自分の愉しみ、あるいは悩みのために書いているのではないでしょうか。(中略)愉しみがつねに童話の原動力であるとはかぎりません。大人の共同体には存在しにくい、本質にかかわらない底荷(パラスト)、つまり子どもっぽさを脱却しようとしているのかもしれません。それとも、薄れていく何かを描こうとしているのかもしれません。自分自身を救うために書くこともあります。責任がなく、柔軟な、あの「なんでもあり」の世界にもどるために。』

何のために書くかという事に関して上記のように言っています。注目すべきは最後のところの『責任がなく、柔軟な、あの「なんでもあり」の世界』です。子供の世界について「なんでもあり」のつもりで書いているという事は出来上がったムーミンの文章も「なんでもあり」のはずです。つまり、大人用の文章のように理路整然として筋の通るように書いてはいないよ、と言う宣言と受け取っても良いのではないでしょうか。
簡単に言うと、考えてもわからないように「わざとやっている」と言えるかもしれません。

もう1つは、W.G ジョーンズ氏の、「ムーミン谷の彗星」1946 年版から 1968 年版への改定に関するこの言葉です。

『描写はより現実的になり、筋はより綿密に関連を持つようになっている。具体的な状況における個々の相互作用は、より登場人物たちに見合うように変えられた。説明と解説の文は、より説得力のあるものに改められた。意図は全体的に明確になり、不要なエピソードと登場人物は取り去られた。あるエピソードから他のエピソードへは適切に移行されている。ファンタジーはまだ存在するが、抑えられている。(中略)彼女の本文は、[ 買い物をする場面での ] 価格の更新か、そうでなければ時代を想定しうる用語の除去によって、明らかに年代を想定しうる特徴をなくし、モダニズム的な側面を持っている。』

一言で言えばアップデートしたと言う意味ですが、サンプル版ではバラバラに見えたあの文章は全体を通して読めば部分部分が綿密な相互作用を持つように書かれていると言う事です。そうなりますと、センテンス単位の矛盾を見るより、全体の中のもっと大きなブロックどうしの関係を意図して書かれていると見るべきなのかもしれません。

(小林さん、ありがとうございます。)

追記
そう言えば、無料期間は今日の夕方で終わりだったかな? お早めに。↓


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