『ムーミン谷の彗星』ーバラバラな家族

 トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の彗星』の感想を急ぎ足で。はじめに言うのはなんだが、まずあとがきが良かった。「日本の読者のみなさんへ」と題されたこの小文から、少し抜き出そう。

 わたしは、平和な家族をえがいてきました。
 だれもが、うちあけたいと思わなければ、それぞれの秘密を胸に秘めていられます。
「何時に帰るの?」とたずねる人もいなくて、夕食におくれた人は食糧室におしかければそれですみます。ひとことでいえば、だれもがおたがいを、気のとがめるような気分にさせないのです。そしてそのことから得られる自由は、たいせつなことです。
(…)
 家族のみんなはしばしばまぬけなことをしますが、でもそのあとで力をあわせてものごとを解決しようと努力するのです。

 バラバラな家族、というのが読んで自分が感じたことだったのだけど、あとがきで、そこに込められたメッセージを確認することができる。それぞれに秘密がある家族。というのも甘っちょろいくらい放任主義のムーミン家で、ちなみに書かれたのが1946年とのことだが、ちょっとにわかに信じがたい。

「おまえさんたちは、ひどくなる一方じゃな。なにを話しあってもむだじゃよ。どうせぐちゃぐちゃにつぶれてしまうんじゃからな。わしは、ハンモックに寝ころんで、考えごとをするぞ。さらばじゃ。これきりもう、会うこともないかもしれぬ」

 ムーミン家に居候する哲学者のじゃこうねずみのセリフ。この物語、ムーミン谷に彗星がやってくる、という話なのだけど、たしかに物語が進むにつれてどんどん登場人物が増えて、どんどん異常気象・異常事態が起きて、どんどん(広い意味での)家族がバラバラ、ぐちゃぐちゃになっていく。気が重いので説明を省くが、ファンタジーというよりはっきり「野蛮」といっても構わないであろう、ひどい(そしてまぬけな)事態の荒れ模様。

 でも結局、彗星をやり過ごすためにみんなで洞窟に隠れることになる(じゃこうねずみも戻ってくる)。さて、では家族は最後にまとまるのか。どうなんだろう、僕は最後まで読んでもそんな印象を受けなかった。その証拠というか、この話は、主人公ムーミントロールが、母のセリフ「(…)家へ帰らない? 森もお庭も家も、ちゃんと残ってるかしらね?」に対して、「きっと、そっくりそのままだと思うな。さあ、見に行こうよ」と答えるところで終わっている。そっくりそのまま、なのだ。

 洞窟の外は、彗星の接近のおかげですごく大きな被害を受けている。海は戻ってきたらしいけど、しかし果たして「森もお庭も家も」変わらずに残ってることはあるだろうか? あるいは家族に置き換えてみよう。様々な仲間を加えたムーミン一家は、果たしてこのカタストロフのあとも「そっくりそのまま」の家族なのだろうか? 本当に?

 いや、最初からこんな感じだったな、という気もしないでもないのがムーミンの物語なのかもしれない。最初から家族はバラバラなもので、それはべつに特別な事態が起こっても変わらない。バラバラな個人が家族になるんじゃなくて、最初からこのぐちゃぐちゃなのが家族。だとしたらこの1作目以降も、ムーミン一家はきっと何も変わらないのだと思う。世界中の子どもたちは、もしかしたらそんなバラバラな家族の中に、いつの間にかじゃこうねずみみたいに、こっそり紛れ込んでしまうのかもしれない。


◆ トーベ・ヤンソン『ムーミン全集[新版]1  ムーミン谷の彗星』(下村隆一訳、講談社、2019年)

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