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「人のことを心配しない」のはいいこと?

Eテレで新作アニメが放映されたのをきっかけに、娘(7才)がムーミンにはまっています。電話で母にそのことを話すと『ムーミン童話全集』(全8巻)から家にあった3冊を送ってくれました。それは元々母の本で、私も実家にいた頃少しは読みましたがまだ知らないお話もたくさんあります。自分自身の興味もあり、娘が寝る前に読み聞かせをすることにしました。

久しぶりに原作に触れて驚いたのは自然描写の細やかさです。

きよらかにすんだ水が、去年の落ち葉の茶色のしきものの上や、とけのこった小さい氷のトンネルをぬけ、青いこけの中をくぐったりしながら、小さなたきとなって、まっ白な砂を見せたたきつぼの中へ、まっさかさまにおちていました。ところによっては、それは蚊の鳴くようなブーンという声をたてているかと思うと、それから大きなおどかすような音をたて、つぎには流れがとまったかと思うと、とけた雪をほおばって、のどをゴロゴロ鳴らしては、だしぬけに大きくわらうのでした。

「春のしらべ」より

春先の小川の描写です。雪の積もる土地で育った人ならはっきりと思い浮かべることができるのではないでしょうか。いつ、どこでのことなのか定かではないけれど、子供の頃雪解けの川をいつまでも見つめていたことがありました。なにを思うでもなく、ただ水の動きを見つめて音や匂いや風を感じていた、そういう純粋な思い出がよみがえります。
細やかなのは自然描写だけではありません。それを感じる体や心の描き方にも驚かされます。

それは、きれいに晴れた秋の朝のことでした。日かげにはいると、鼻さきがすこしひえましたけれど、日ざしはまるで夏のようだったのです。なにもかもが、ゆうべの雨でぬれて、色という色がみんなあざやかに、くっきりとしていました。

「目に見えない子」より

この「鼻さきがひえる」という言葉を読んだ瞬間、北海道の秋の空気を思い出しました。ふと日陰に入ったときの、あの湿ったような冷たさは、東京では感じたことがありません。フィンランドは、地球の緯度で見ても北海道に近い気候に思えます(少なくとも東京よりは)。だから親近感と郷愁を感じる部分が多いのかもしれません。

描写だけでなくストーリーももちろん面白いのですが、大人になって改めて読んでみると作者の哲学をダイレクトに感じるので色々なことを考えます。

「そのうちには帰ってきますわ。さいしょからあの人は、そういっていたんです。そうして、いつだって帰ってきましたわ。だから、きっとこんども、帰ってくるでしょうよ。」
 だから、だれも心配しませんでしたが、それはたいへんいいことでした。ムーミンたちはおたがいに、人のことは心配しないことにしているのです。こうすれば、だれだって良心が発達するし、ありったけの自由がえられますからね。

「ニョロニョロのひみつ」より

これは「ムーミンパパがひとことの説明もなしに家を飛び出した」ときのムーミンママの台詞とほかの家族の反応です。私はびっくりしてしまいました。「人のことは心配しないこと」が「たいへんいいこと」であるという、これはキャラクターというより語り手の主張ですね。それも強めの主張です。

私には少し神経質なところがあって、散らかっている場所や不明瞭な立場やはっきりしない予定などが苦手です。「自覚的であること」を人生のテーマに掲げるくらい、曖昧な態度をとらなければならない状態が不快なのです。でも実際の人生は不透明で不確定で、グレーゾーンだらけです。当然、私はよく不安になり、心配をします。結婚してしばらくは夫に嫌われていないか飽きられていないか心配でした。子供が生まれたら毎日、ケガしないか病気にならないか死なないか心配でした。今だってこのコロナ禍で、自分や家族や友人が感染しないか社会が壊れてしまわないか心配です。命に関わらないことでも、忘れ物してないかとか周囲の人たちとうまくやってるかとか、いつでもなんでも心配です。なんなら、母親(妻)は心配することが仕事ぐらいに思っていました。でも、ムーミンママは心配をしません。それどころか、それは「いいこと」なのだと語り手は主張します。

多分ここで大切なのは「おたがいに」と「ことにしている」の部分なのかなと思います。ムーミンママは夫のことを本当に心配していないわけではないのです。だって、「当惑やかなしみや、なぐさめほしさ」を彼女は感じているのですから(別のページに記述があります)。「心配」というのが辞書通り「思いわずらうこと。気がかり。」だとしたらその通りではないですか。きっとここでいう「心配しないことにしている」は「相手の行動を詮索しない」という暗黙の了解であり、詮索しないでいられるのは「信じているから」なんでしょう。それも「おたがいに」。
信じているから詮索しない。されない。それをお互いに了承している、という状態に置かれれば「だれだって良心が発達」し「ありったけの自由がえられ」るというわけですね。でも良心ってなんでしょう。「良心の呵責」とか90年代以降あまり聞かなくなった気がします。

【良心】
道徳的な善悪をわきまえ区別し、正しく行動しようとする心の働き。

『Oxford Languages』より

なるほど。言い換えるとしたら、自分で自分に責任を持つ、というようなことでしょうか。近しい人を信じ、自分に責任を持つことが「自由」につながるのだと私は解釈しました。
「心配」というのはまだ起こっていない悪いことを勝手に想像することで、ありもしない枠に自分や他人を押し込めることなのかもしれません。「自由」はそんな枠組みとは正反対の概念です。

実際、私は烈しく自由を求めているわけではありません。私は恵まれているといつも感じますし、もう十分好き勝手やらせてもらっていると思います。でも、心配ばかりしているのは良くないなと思い直しました。心配でなにも手につかない、という状態は本当に無駄です。ムーミンママのように編み物をするか、でなければ具体的な策を講じ行動に移すのが良いでしょう。
私は今日毛糸のグローブを片方編み上げ、感染症対策(のお守り)にマヌカハニーと加湿器を買いに行きました。帰宅すると娘が「明日からお迎えはなくていい」と言いました。春からずっと学校への送りお迎えが必要だったのに。こういう日は不意に訪れるものです。
近しい人を信じること、自分に責任を持つこと、思い煩うばかりでなく行動に移すこと。「心配」という足かせから少しでも自由になるために、意識していきたいと思います。実のない心配は心を蝕むので。楽観しすぎず悲観しすぎず、元気を出していきましょう。自分と、近しい人のために。


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