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今起こっているパラダイムシフト

”あなたたちは興味深い種だ。興味深い融合体。あなたたちはとても美しい夢を生み出すことが出来る。そして、とてもおぞましい悪夢も。あなたたちはひどく道に迷っていて、切り離されていて、孤独だと感じている。ただ、そうではないのですが。いいですか、私たちの全ての探究の果てに、心の中の空虚に耐えるために見つけた唯一のものは、お互いの存在なのですよ。”
ーカール・セーガン 映画「コンタクト」より

“You're an interesting species. An interesting mix. You're capable of such beautiful dreams, and such horrible nightmares. You feel so lost, so cut off, so alone, only you're not. See, in all our searching, the only thing we've found that makes the emptiness bearable, is each other.”
― Carl Sagan, from Contact


2013年の7月にFacebookで以下の文章を投稿した。


 ”多くの人がすでに感じているように、私たちは歴史上の大きな転換期に差し掛かっている思う。歴史が証明しているように、それは決してスムーズに移行するようなものではない。日本の歴史の観点から見れば江戸時代から明治時代、もしくは、ルネッサンスのようなレベルの変化の始まりに私たちは身を置いているのではなかろうか。地動説が登場したことで、天動説が覆されたようなレベルのことが起きていると思う。何十年にもわたる変化になるだろう。もしかしたら、100年単位を要する変化かもしれない。それだけの時間を要したら、地球がもたないかもしれないけれど。


 天動説を信じていた人たちは、地動説を激しく糾弾した。なぜだろうか?そこには様々な理由があるかもしれないが、最も核心的な理由は、その天動説を基にしたアイデンティティが消え去らなければならないという危険にさらされたからではないかと思う。この心理的なダイナミクスは、現代においても変わらない。多くの人間は変化を求めていながらも、根本的なアイデンティティのこととなると、往々にして変化を拒否する傾向にある。人は変化を求めていても、アイデンティティそのものの変化は大抵求めていないからだ。そこには無意識の抵抗がある。アイデンティティをも巻き込む変化は、人に死を連想させるからだ。


 しかしながら、本当の変化は往々にして死を伴うものである。芋虫的な自分が、さなぎの期間を経て、蝶的な自分に変わりたいのならば、その過程で、芋虫的な自分は死ななければならない。しかし、死ぬのが怖い(さなぎになるのが怖い)多くの人は、芋虫的な自分にしがみつき、蝶的な自分の可能性を忘れたり、ただひたすらよりよい芋虫になろうとする。そもそも芋虫的な自分は、自分が蝶になれることを知らない。そういう意味では、本当の変化は向こう側からやってくるのだ。アインシュタインの「我々の直面する重要な問題はその問題を作ったときと同じ考えのレベルでは解決することは出来ない。」という有名な言葉もそれに通ずるところがある。山積する芋虫レベルで作り出された問題は、蝶レベルではないと解決することは出来ないということになる。


 歴史上の転換期に生きていなければ、芋虫のままで生きて死んでゆくこともできたかもしれない。しかし、時代が蝶の登場を要求している。江戸時代から明治時代に移行するにあたって侍が消え去らなければならなかったように、いわば個人レベルよりも最も大きな枠の変化によって、個人はある意味で強制的に変化を迫られるようになる。


 今起こっている変化において、天動説にあたるものは何なのだろうか?その一つは、成長の神話と呼ばれうるものだと私は考えている。これは、そもそも経済モデルとして機能しはじめたものだったかもしれないが、人の生き方の指針としても使われている。とにかく成長することがよしとされているこのモデルは、右肩上がりの矢印で表される。常に未来を見ている。そして、成長が続くことが前提とされている。成長が持続している時には人々にある種の力を与えもするし、このモデルの見た目はいいが、「今」をよりよく生きることのサポートにはあまりならない。


 「今」という時間は、よりよい未来のための踏み台にしか過ぎない。同時に未来に依存する幼児的で無責任な態度も生み出す。よりよい未来が待っているのだから、今これだけ問題になっても未来になれば何とかなっているだろうという態度である。そして、このモデルは衰退を連想させる高齢者にもあまり優しくない。だから、高齢者は成長と関連がある若さや権力に留まろうとして、知恵のある長老になり損ね、いわゆる「老害」を生み出す存在になってしまう。もしくは、疲れ果てて退行し、不健全に甘え依存する存在になることもあるかもしれない。


 これらだけでも大きな問題だが、さらにこのモデルには大きな欠陥がある。それは、自然のリズムと合致しないということである。四季で考えれば、春と夏しかないような状態である。秋と冬がない。つまり、健全な休みだったり、内側に力をためる時期がないということになる。もっと言えば、死と再生の時期が欠けている。自然のリズムは矢印というよりも円というかスパイラルに近い動きだと思う。健全な死と再生を含んでいるからこそ、それは持続可能であり、循環的なのだ。矢印的な成長の神話は、いわば過去や現在を下に見て、未来に向かっていく傾向にある。否定することで生みだされる変化なのだ。そのリズムは決して地球や自然に、そして、人間に優しくないのだ。


 人々が想像していたよりも余程早かったとは思うが、案の定、成長の神話の猛威によって地球は持たなくなってきている。遅かれ早かれ、この成長の神話を基にした社会は破綻するだろう。もし社会が破綻しなければ、その土台である地球が先に破綻するはずだ。成長の神話の象徴であるマネーシステムもいずれ崩壊するのではないだろうか。そもそもお金には内在的な力はない。現代人は、エネルギーや電力だってお金で取引されているから、お金そのものに力があるような錯覚を起こしている。


 しかし、そもそもエネルギーの大元は太陽であり、それを酸素に光合成で変えてくれているのは、植物であり、地球なのだ。お金が太陽や地球より力を持っているわけがない。成長の神話はそれを見失わさせる。成長の神話が基になっている社会では従って、地球よりも、経済が大事だという考えがまかり通る。成長の神話の引き付ける力は強い。これを書いていても、自分の少なくない部分がそれに執着しているのを感じる。それによって今の生活が成り立っているのは事実であるから、それを手放すのを怖いとさえ感じている。


 しかし、私たちは遅かれ早かれ、この成長の神話に基づいているアイデンティティを手放すことを迫られるだろう。つまり、ある種の死を迫られることになる。地動説にあたるものは何だろうか?それは誰にもまだわからない。しかし、「今」がキーであることは間違いないと私は思っている。お金と同様に、時間というのは本来概念に過ぎない。未来のために「今」を生きるのではなくて、「今」しかないのだから「今」を生きているという体験がキーになるだろう。それが自然の流れとつながってゆくことにも密接に関係している。何が起こるかはわからないが、今求められているのはそういったレベルでの意識の変容ではあると思う。”

 
 小学校高学年の時に酸性雨、砂漠化、オゾン層破壊など、今ではあまり聞かれなくなってしまった言葉を入り口として環境問題に触れ始め、大学院の授業でピークオイルのことなどを学び、東日本大震災が起こった頃には、大きな移行の時代に自分たちが、たまたまか必然的に生きていて、危機と変容の時代が遠くない未来に訪れることを確信し始めていた。上記の文章を書いた時と今の違いは、その当時に感じていたよりももっと大きな移行が起きているという認識だ。そして、より多くの人がそれを感じ始めているのだと思う。


 新型コロナウイルス 危機が終われば、元の生活に戻れるという認識を持つ人たちもまだいるのかもしれないが、そのような回帰は決して起こることはないと個人的には感じている。平穏な気持ちで芋虫に留まることはもう出来ない。かと言って、さなぎの時期を経ずして蝶へと変わっていくことは出来ない。僕らは今、古いパラダイムの終焉と新しいパラダイムの誕生の間の時間と空間に存在し始めている。今求められていることは、個人とシステム(社会・文明)の両方がさなぎ期という死と再生の通過儀礼を通り抜けることだ。


 その通過儀礼を前にして、最も大切なのはある種の覚悟なのかもしれない。難しい現実を見つめ行動する覚悟。立ち止まる覚悟。そのような覚悟を持って、未来を見据えた時に主に二つのシナリオが思い浮かぶ。


 一つは、現在の権力構造や経済システムが維持され、貧富の差や資源アクセスの格差などがさらに広がるというシナリオ。これは現在の壊れかけのパラダイムの儚き延命治療的なアプローチになるが、恐らく経済的貧困及び環境問題的理由(大気汚染や異常気象)でもっとより多くの犠牲者を生むことになる。そして、富や権力を持つものが資源を自分たちのために掻き集めて、一時的にではあるが生き残りやすい傾向にあり、今の時点よりも社会と人類の心は荒んでいくことになるだろう。これはより多くの人がさなぎのステージに入っていくことを拒否し、芋虫に留まり続けようと選ぶことによって起こる。このシナリオを選ぶのであれば、ただ今まで通りの生活のリズムとライフスタイルを維持、または復活させようとすればいい。


 もう一つは、生態系のリズムや仕組みと合致していない金融システムや権力構造、先進国のライフスタイルを始めとする様々な構造や在り方が崩壊し、気候危機による気象の異常化へのスピードがやや鈍化し、それに伴う犠牲者の数もやや減るというシナリオ。このシナリオでも多くの犠牲は避けられないだろうが、人類は心を再び大事にすることを選び、いずれ各地にあらゆる生命の幸福感を高めようとする循環的コミュニティーが創出され、それが次第に世界中に広がっていくはずだ。これはより多くの人が感謝と共に芋虫の時代に別れを告げ、共に手を繋ぎながらさなぎのステージに勇敢さと優しさを携えて入っていくことで成される。このシナリオを選ぶために今求められているのはスローダウンして、内省したり断捨離したりして自分の内面と外側の生活の両方を軽くすることで芋虫期からさなぎ期へと進んで移行しようと意図し、同時に、静けさの中で新しいパラダイムにも耳を澄ませ始めることだ。 


 どちらのシナリオが立ち上がるにしても、多くの犠牲者が出ることになる。その現実を受け入れる覚悟。どちらのシナリオと共に人類がこれから歩みを進めていくのか。それは一人一人がどのような選択を日々していくかにかかっている。出来るだけ多くの人たちと一緒に、より美しい世界を迎えたい。だから今は皆で心を繋ぎ合い、ゆっくりとするさなぎの時間に入っていければと祈っている。

今はゆっくりとする時間なのです、
窮地に身を低くするのです
この厳しい天候が去るまで
試みてください、できるだけうまく
疑いのワイヤーブラシが
あなたのすべての感覚と
ためらいがちな光を
心からこすり落とさないように
あなたが寛容であり続けるならば
立派に時が訪れるでしょう
そして、あなたは自分の足を
約束の新たな牧草地の上でまた見つけるでしょう、
そこでの大気は優しく
そして、始まりと共に深紅に染まっているのです
ジョン・オドノヒュー
(アイルランドの詩人)

This is the time to be slow,
Lie low to the wall
Until the bitter weather passes.
Try, as best you can, not to let
The wire brush of doubt
Scrape from your heart
All sense of yourself
And your hesitant light.
If you remain generous,
Time will come good;
And you will find your feet
Again on fresh pastures of promise,
Where the air will be kind
And blushed with beginning.
John O’Donohue

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