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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 形態形成 (第11章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

 時々、オルタナティブ・カルチャーの分野の先駆者に出会うと、たとえ彼らが小さなエコビレッジや隔離された刑務所、紛争地域やギャングの地域の中の一つのコミュニティの中で、小さな規模で仕事をしているとしても、彼らは私たち全員のために働いていて、彼らが自身の中で起こす変化は、私たちが後に続くことができるテンプレートのようなものを生み、彼らが何十年もかけて努力し学んできたことを短期間でやることができるのだと感じることがあります。例えば、私の友人のRが、ほとんど不可能に近い勝算にも関わらず、子供の頃に受けていた虐待からいかに深く癒されたかを目にすると、「彼女が癒されたということは、彼女のような何百万人もの人も癒されることができる、そして、彼女の癒しがそれを容易にしている。」と思うのです。


 時に私はさらに一歩踏み込むことがあります。ある時、男性のためのあるリトリートで、参加者の一人がペニスの火傷跡を見せました。5歳の時に里親によって押しつけられたタバコの火傷の結果でした。その男性は解放と許しのパワフルなプロセスを通り抜けようとしていたのです。一瞬にして、彼が地球に来た理由は、私たち皆のための世界を変えゆく行いとして、この傷を受け癒されることなのだと私は悟ったのでした。私は彼に言いました。「J、もしあなたがこの一生で傷から癒える以外に何も成し遂げなかったとしても、あなたは世界に対して偉大な奉仕をしたことになるでしょう。」その真実は、その場にいたすべての人にとって明らかなことでした。


 「分離」に浸された合理的なマインドは、彼の癒しが本当に違いをもたらすことができるのかを疑います。それは言います、それが何らかの形で公にされた場合にのみ、例えば意欲を起こさせる物語へと変貌した場合に、それはその男性の直接の影響を超えて世界に影響を与えることができると。物語の力を否定はしません。もしかしたら、Jの癒しは今、私がそれを語っていることによって影響を与えているかもしれません。しかし物語は、より一般的な現象の表れのあり得るベクトルの一つに過ぎません。あなたのプロジェクト、個人的な癒し、あるいは社会的発明が世界を変える道筋の一つは物語を通してです。しかし、たとえ誰もそれを知ることがないとしても、地球上のすべての人の目に見えなかったとしても、それはそれでもなお影響を与えているのです。

 
 ここで私が呼び覚ましている原理は、生物学者ルパート・シェルドレイクによる造語である「形態共鳴」と呼ばれるものです。これは、自然界の基本的な性質として、形やパターンは広がりやすいと考えるものです。どこかで何かが起こると、それがどこかで同じことを起こるのを誘発するのです。シェルドレイクのお気に入りの例として、長年にわたって確実に液体であった物質、例えばツラノースやキシリトールなどを挙げていますが、これらは世界中で突然結晶化し始めました。化学者は、ある物質の結晶形を作るために何年もかけて試行錯誤することがありますが、一度成功すれば、その物質がその結晶化の方法を学んだかのように簡単に結晶化します。


 シェルドレイクは、この現象が「種粒子」ー風に吹かれたり、客員化学者の髭の中で運ばれたりして、過飽和溶液の中に入り込み結晶化を起こす結晶の小片によって説明できる可能性があると論じています。そこで彼は、ダストフィルター付きの実験室でサンプルを検疫して、形態共鳴の理論を検証してみようと言います。そこでまだ結晶がより容易く形成されていれば、それが形態共鳴の理論を証明するでしょう、と彼は言うのです。


 結晶化のミステリーには種粒子の説明を覆すような特徴があり、彼の実験がそれを否定するだろうという点で、私はシェルドレイクに同意します。しかし、もし種粒子の説明が真実であれば、形態場の説明が無効になるという説明には意義を唱えます。その逆なのです。形態共鳴の一般的な原理は、その伝達のベクトルが結晶の塵であろうとなかろうと適切なのです。隔離実験がうまくいった場合、その「種」が電磁振動である可能性があるので、それが電磁気的にシールドされていることを要求することができるかもしれません。そして、私たちが知りすらもしない影響があるかもしれません。シェルドレイクは形態共鳴をあらゆる種類の直接的な因果関係から分離したいようですが、もしこれらの因果関係の影響がすべて形態形成場誘発の代わりとなるものではなくて、むしろその場がどのように作用するかの例だとしたらどうでしょうか?ここで私たちは、生きていない物質世界に知性を授けるために超物質的な何かに訴えるのではなく、スピリットの特性を含むように物質の領域を拡大するチャンスを得ているのです。


 同じように、他の人たちがそれを聞くことによって、私たちの個人的、関係性の、またはローカルでの変容がグローバルな意義を持つことは十分にあり得ます。また、変化した人々が他の人々を変えるという波及効果を通じてでもです。これらはどちらも、私たちの「分離」に条件づけられたマインドが受け入れられる原因と結果の、伝達のメカニズムです。しかし、私たちが受け入れるのに苦労するのは、私たちの行動の影響が、一般的な形而上学的法則の実施のための手段にすぎないこれらのメカニズムに依拠していないということです。あなたのコンパッションによる行為を誰も知ることがなかったとしても、唯一の明らかな証人が死にゆく人だったとしても、その行為についての長編ドキュメンタリーを誰かが創ったとしても、その行為の影響はそれに劣るものではないのです。


 私はだからと言って、私たちの作品を広めるための従来の方法を否定しましょうと提案しているわけではありません。私たちの行動がより大きな世界へと到達するための神秘的で曲がりくねった道を私たちのビジョンが突き抜けることが出来ないときでも、私たちが成すすべてには意義があるというある種の確信を唱えているのです。


 最も美しい行為にはある種の非常識さがあります。世界を最も深く変える行為は、「分離」のマインドが理解できないものなのです。カレ・ラスンが自身の献身を公の場での大々的なショーにするというアジェンダと共に義理のお母さんを世話していたとしたらと想像してみてください。それは偽善の匂いがしたでしょう。自分たちがお手本であるといった自意識のイメージをあまりにも早く持ってしまった平和構築事業やエコビレッジにも同じことが当てはまります。自分の体験が大きな影響を及ぼすために「それについての本を書かなくてはならない」とどうか思わないでください。


 その本は立ち現れるかもしれないですし、平和構築事業のドキュメンタリーも生まれるかもしれません。しかし大抵は、初めに潜伏、それ自体のために何かをする時間、”メタの”目標ではない目標へ内向きにフォーカスする時間が必要なのです。そこからシンクロニシティはあふれ出します。そこに押し付けはなく、そこにあるのは、それ自身の知性を持っているように見える大きな出来事の流れに加わっているという事なのです。あなたは、ちょうどいいタイミングで、適切な場所に現れるのです。あなたは現実的なニーズに応えているのです。


 老婦人の差し込み便器を取り替えることで世界が変えられると信じられますか?世界を変えようとしてそれをするならば、世界は変わらないでしょう。老婦人が差し込み便器を取り替えることを必要としているからそれをするのであれば、世界は変わりうるでしょう。


 何年も前、当時の私の妻だったパッツィーは不動産業者でした。彼女のクライアントの母親、K夫人は末期の病気で、町外れの荒れ果てた家に住んでいました。ある日、パッツィーが採寸を測るために家を訪ねたところ、K夫人が自分の尿と排泄物にまみれて床に倒れ、起き上がれずにいるのを発見しました。パッツィーは一時間かけて彼女を綺麗にし、自分の昼食に買ってきたエッグドロップスープをあげました。K夫人の息子は二つの仕事をしていて、一時間離れた場所に住んでいるので、その昼食は彼女が久しぶりに食べた滋養のある食べ物でした。K夫人はまもなく亡くなり、明くる日、家はK夫人の習慣と記憶に支えられていたかのように崩れ落ちたのでした。


 当時、パッツィーは困っている女性へのこの基本的な人間としての対応が世界を変える、あるいは変えることができるとは思いも寄りませんでした。そうなるとは全く頭に過ぎりませんでしたし、そうであるべきでもなかったのです。助けるという選択は、コンパッションと彼女の忙しいスケジュールからの現実的な要求の間での選択でした。彼女のマインドの一部は、「ただ警察に電話しないと、他のアポイントメントに間に合わなくなってしまうでしょう、これはあなたの責任ではないのだから、どうでもいいじゃない...」とぺちゃくちゃ喋っていました。しかし、あるレベルでは、彼女はそれが重要であることを知っていたのです。とても多くの声が、愛を忘れ、人間性を忘れ、より現実的に映るもののために今と真実を犠牲にするようにと私たちにロビー活動してくるのです。ここに絶望への薬があるのです:実用性に関する私たちの幻想を立ち退かせることによって、その薬は間近にある今のニーズに私たちを再びつなげ、奇跡を招くそれらの非常識で非現実的な行為を可能にするのです。


 形態共鳴の原理は、これらの非常識で、目には見えない行為が何らかの意味を持っていると感じることを正当化するのです。コンパッションが促されることを信頼することは、どのような形態形成場を引き起こすでしょうか?間近にあるニーズを応じるためにあなたのギフトを贈ることにベストを尽くすことは、どのような形態形成場を引き起こすでしょうか?もし私たちの政治家や企業幹部がこの場に巻き込まれ、計算ではなくコンパッションから、抽象的な道具的な動機ではなく人情から行動しているとしたらと想像してみてください。


 「アイゼンシュタインは、誰もが自身の祖母を世話したり、公園でゴミを拾ったりすることにフォーカスすれば、地球温暖化、帝国主義、人種差別、そして地球が直面しているその他の壊滅的な問題が魔法のように解決すると考えているようだ。世界が燃えているのに、人々が何か役立つことをしていると想像しているままにする危険な受け身の姿勢と自己満足感を彼は助長しているのですね。」と考えている人たちがきっといるでしょう。前の数章が、それがアイゼンシュタインが考えていることではないことを明らかにしてくれているはずですが、念のために、この批判に正面から取り組ませてください。何しろ、他の人からだけでなく、それをはるかに上回る頻度で自分の頭の中でその批判を聞いたことがあるのですから。


 第一に、私が議論してきた個人的な、ローカルの、あるいは人目につかない行動は、本を書いたり、ボイコットを組織したりするなどの他の種類の行動を排除するものではありません。むしろ、前者の呼びかけに耳を傾け、そのタイミングを信頼することは、後者へと向かう傾向を育むことになります。私が話しているのは、インタービーイングの場所への大規模な移動と、各種の状況でその場所から行動することについてです。宇宙は様々な瞬間瞬間に私たちの異なるギフトを呼び起こします。その呼びかけが小さくて私的なものであるときにそれに耳に傾けようではありませんか、そうすることで、その呼びかけが大きくて公的なものであるときに、それに耳を傾ける習慣を身につけられるのですから。小さくて私的なものを低く評価する「分離の論理」に耳を傾けるのをやめましょう。


 形態共鳴のベクトルが極めて平凡な何かであるように、不可能を創造するための行動もまたそれ自体はそれぞれ極めて直線的で現実的なものであるかもしれません。私たちの力を超えているのは、それらの結集なのです。私たちの多くは、地球状況の緊急性に迫られ、何の価値もないに等しい大きなことをしようとした経験があります。私たちが本を書き、誰もそれを出版しないのです。ブログで真実を叫んでも、すでに改宗した人たち以外には伝わらないのです。時にはそれが違うこともありますが。いつ、そして、どうしてでしょうか?


 私の年長の子供二人が幼かったとき、私は数年間、一冊目の本を書こうとしていて、おむつや食料品の世界に浸された在宅勤務の父親でした。ひどく苛立っていて、「世界と共有すべき大切なことを知っているのに、私はここで一日中おむつを変えたり、料理をしている。」というような考えで自分を苦しめていました。このような考えのせいで、私は手元にあるギフトから気がそらされ、子供たちと深く関われていませんでした。自身の状況に屈し、執筆活動を中断し、子供たちと深く関わりあっていた瞬間瞬間が、私が書くすべての本と同じように、宇宙に影響を与えていることを理解していませんでした。私たちはいつもその影響を見る目を持っているわけではありませんが、すべてには因果的な影響があります。もしくは西洋の宗教が言うように、神はすべてをお見通しなのです。


 自身の人生を振り返りながら死の床に就いている自分を想像してみてください。どんな瞬間が何よりも大切に見えるでしょうか?どのような選択に最も感謝するでしょうか?パッツィーにとっては、彼女が売却したどの不動産よりもK夫人を綺麗にしたことです。私にとっては、今まで刻んできたどの公的な達成よりも、ジミとマシューをおもちゃの車に乗せて丘の上まで押し上げたことでしょう。死の床で私は、人とのつながり、愛、奉仕の選択のそれぞれに感謝するでしょう。


 これらの死の床での感じ方が間違っているとされる宇宙を容認することはできるでしょうか?これらのことを無視するために非情にならならなければならず、そうすることでより効率的に地球救助ビジネスに自分自身を捧げることになる宇宙を容認することができるでしょうか?


 私たちの人間らしさを踏みにじって自身を非情にすることがそもそも、私たちをこのゴタゴタに足を踏み入れさせていたということが理解できますか?


 それは古い物語なのです。私たちが自然を征服する試みをほぼ終えようとしているように、私たち自身を征服することもほぼ終えようとしているのです。幸いなことに、私たちのインタービーイングの世界への参入は、科学が現実の本質について伝えていることに反対することではもはやありません。宇宙は知的で、目的を持っており、一体となっているという理解を肯定する新しい科学的パラダイムを抱擁しはじめることができるのです。これらの新しいパラダイムは、そのような理解を肯定しているからこそ、旧来の守備隊の怒りを買うのです。劣悪な証拠や支離滅裂な考え方を用いているからではなく、”科学的”という言葉に込められた深い疑いの余地がない前提を侵すからこそ、それらは”非学的”や”疑似科学的”と呼ばれているのです。(注1)


 ここで現実に目を向けましょう。すべてのものが意識を持っているのならば、私たちが可能であり、実用的であり、現実的だと信じてきたことは、あまりにも窮屈なのです。自然の心に触れ、私たちは画期的な突破口のすぐそばにいるのです。自然の心と調和しているときに、私たちは何を成し遂げることができるでしょうか?定量化できるものやコントロールできるものを選んで計り知れないものや主観性を無視するという通常の意味の反対の意味で”現実を見る”と私は言っているのです。そのような考え方は、広大な人間の能力、私たちが”オルタネティブ”とか”ホリスティック”と現在呼ぶものの多くを含んだ再会のためのテクノロジーを手の届かないところへと置いてしまうのです。すべてはいずれにせよ、インタービーイングの原理から引き出されています。


 コンパッションからの小さな個人的な行動と環境を救うためのステップとの間にある矛盾は、すり替えられた論点、自分の無力さの傷を声に出すために構築した対偶する修辞的な装置なのです。実際には、愛に基づいて行動する習慣は自ずと私たちすべての関係に生かされ、私たちの理解と共に広がっていきます。生態系や社会的な癒しの行動は、それが真摯なもので、密かにアイデンティティを確立したり、自分の良さを証明することが目的とされていない限り、それらは小さな個人的な行動と同じくらい実に非常識なものなのです。それが非常識なのは、それらがバケツの中の一滴だからです。一人の人に何ができるというのでしょうか?これまで述べてきたように、古い物語の中では絶望は避けられません。オルタナティブの相互につながっている知性のある宇宙はそのような行動をエンパワーするのです。その宇宙は、”世界を救います”というパラダイムにまったく合わない小規模の行動にも同様に力を与えるので、アクティビストは犠牲を払うことになりますが。その宇宙は、活動家の気候変動啓発キャンペーンを、ホスピスで差し込み便器を取り換えることと同じくらい重要でもそれ以下でもないものにしてしまうのです。しかし、繰り返しになりますが、あなたはそれとは別の世界に本当に住みたいですか?

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 友人が最近私に尋ねました、「もしも本当に私たちが地球の歴史の中での珍しい分岐点に生きているのであれば、人類の出産という重要な瞬間のためにすべての偉大な存在たちが集まっているときに、なぜ私たちは往年の偉大なアバターや奇跡を起こす人たちを見かけないのでしょうか?」彼らはここにいますが舞台裏にいるのです、というのが私の答えです。彼らの中には看護師やゴミ収集員、幼稚園の先生もいるかもしれません。彼らは何か大きなことや公のことをしているわけではありません、私たちの目を通しては、世界を救うために必要な奇跡を生み出しているようにはまったく見えないのです。私たちの目が私たちを欺いているのです。こうした人たちが合わさって世界という織物を支えているのです。彼らは私たちが進みゆくスペースを守っているのです。大きな、公のことをすることは重要であり、勇気や非凡な才能という私たちのギフトのすべてが求められます。しかし、その幼稚園の先生たちのような人々の人目につかない謙虚な行動のようなインタービーイングの地の中での信念と堅実さほどのことがそれに求められるわけではないのです。


 ですから、偉大なこと、または小さなことをしようと選択する理由が何であれ、大きな公のことだけが大衆に影響を与え、世界を救うチャンスがあるのだという切迫性のある恐れに満ちている意見をその理由にしないでください。この本の後半で説明するように、私たちが参加している革命の一部は、私たちがどのように選択していくかについての革命なのです。あり得ることを成すには古い方法で十分です。AからBまでの地図があれば、私たちはただその道順に従えばいいのです。今はその時代ではありません。計り知れる結果では十分ではないのです。私たちは奇跡を必要としています。私たちは行き先、希望を予感させる行き先を垣間見ていますが、そこへどうしたら着けるのかまったくわからないのです。地図にも載っていない目に見えない道を歩いていて、曲がるたびにそれがどこへと通じていくのか見えていないのです。


 新しい物語が地図を与えてくれると言えたらいいのですが、そうではないのです。しかし、それは私たち内部の導きのシステムを覆い隠している古いパラダイムの残り物である習慣や考えからなる方向感覚を失わせる霧を取り除くことができます。インタービーイングの原則は、それ自体が意思決定のための公式を提供するものではありません。たとえ「私と世界は一つである」ということを受け入れたとしても、家に籠もって二酸化炭素の排出量を減らすこと、もしくはフラッキングに抗議するために車を運転して集会に行くことのどちらがよりすべての生きとし生けるもののためになるのか区別することはできないでしょう。このような計算を試みることは、すべてを数量化しようとし、あらゆる行動の効果を足し算し、それに応じて選択するという、古い物語に基づいているのです。そのような選択の仕方は、特定の狭い状況でのみ、特に原因と結果がおおよそ直線的である状況で有用なのです。それは多くの工学的な問題及び財政の決定には適しているのです。これはリスクとペイオフを比較するアクチュアリーの考え方なのです。新しい物語は、リスクを再評価して新たなペイオフを見つけようとするよりもはるかに大きな変化なのです。その物語は、計算高いマインドからの選択を助けはしないでしょう。しかし、それは私たちの心に基づく選択がより意味のあるものになるような論理的な枠組みを与えてくれるでしょう。


(注1)
これらの前提条件はまた、何が出版可能で何がそうではないか、何が簡単に査読を通過し何が敵対的な精査を受けるのか、どのような研究が資金提供を受け何がそうならないかを決定します。これらが、実在する現象が”科学的に証明されていない”ままになっている理由のいくつかなのです。


< 第10章 希望          第12章 ナイーブであること



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