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私たちが幸せになりにくい現代社会のからくり

しばらく前にダライラマ法王が人類について最も驚くことはなんですかという質問をされた時の答え
「人です。なぜなら、彼はお金を稼ぐために健康を犠牲にします。そして、彼はお金を犠牲にして健康を回復させようとします。それから、彼は未来のことを不安に思うあまり、現在を楽しんでいません。結果的に、彼は現在にも未来にも生きていないのです。彼はまるで死ぬことがないように生きて、生きたことがなかったかのように死んでいくのです。」

 
 人が幸せになるためには満たされていなければならない。何にどのように満たされるか、満たされていないかによってその幸せ、もしくは不幸せの質と深み、そして、その持続性は変わってくる。様々な見方があるかもしれないが、ここでは満たされることにまつわる状態を三段階に分けて見ていきたい。その三段階の一つ目を根源的満足、二つ目を二次的満足、三つ目を飢餓感と呼ぶことにしたい。

 
 人が根源的満足によってより満たされている時に、人の幸福感は最も高まっている状態にある。根源的満足とは例えば、笑うこと、食事を共にすること、儀式、互恵的な人間関係、周りに溢れる緑の世界、瞑想、自己探究、リラックスした身体などによってもたらされるかもしれない。それらによって人がアクセスし得る根源的満足感の源とは実在はしながらも目には見えないもので、喜び、愛、優しさ、平穏な気持ち、畏敬の念、感動、自分という存在を超えた一体感などという言葉によって表すことが出来る。根源的満足感によりつながっている時に、自然と感謝の気持ちが生まれ、互恵的で、循環的な文明や社会が立ち上がってくる。その中で、人は嬉しい時には喜び、悲しい時には涙することが出来る。その社会の中ではいかなる感情も平等に迎えられる。それすらも浮かんで消えていく循環の一部だからである。
 
 
 それに対して二次的満足とは、エンターテイメント、ショッピング、ステータス、富、中毒的な摂取、SNSなどによってもたらされるだろうか。これらを使うことで、例えば、ある程度の平静さを保ち、一時的に痛みから解放され、擬似的な愛や高揚感を感じることが出来る。しかし、二次的満足には持続性と安定性がなく中毒性があり、それを使えば使うほどもっと欲しくなる。二次的満足とは本来、根源的満足が不足した時のサポート、またはそれに到るための補助として位置付けられなければならない。つまり、いくらお金を貯めて、SNSでいいねやフォロワーの数が増えて二次的満足をいくら味わっても、それが根源的満足につながらなければ継続的な本当の幸せが訪れることは決してない。母乳を飲みながら母の愛に包まれている体験が根源的満足の源だとしたら、母親不在の時に使われるおしゃぶりが二次的満足をもたらすものの象徴として捉えられるかもしれない。何らかの理由で母親の愛が不在の時に、おしゃぶりのようなものが補助として使われるのは普通のことである。しかし、母親の不在が続いたり、母親への家族やコミュニティーからのサポートが不足して彼女の愛の輝きを失われた時に、赤ちゃんのシステムの中である種の麻痺が起こり始め、根源的満足そのものの存在を忘れるプロセスが始まることになる。そして、そのレベルの満足とのつながりが失われた時に、人は本当の意味で自分を満たすことのない二次的満足にしがみつくようになる。本当の愛や喜びを失い、おしゃぶりやスマホさえも失ったら、そこには死にも等しい第三段階である圧倒的な飢餓感や空虚感が横たわっているからだ。飢餓感が人の心と生活を中長期的に覆った時に、死にたくなる気持ちなどが出てきてしまうのは自然な現象だと言っていい。

 
 人の幸せの最大化を目標とした社会は、当然のことながら人がより根源的満足と自然のリズムに繋がれるような循環的な仕組みを育んでいく。二次的満足はあくまで根源的満足が一時的に失われた際の補助として社会に組み込まれる。しかし、幸福ではなく経済成長を至上命題に掲げた社会は、時間と共に根源的満足の存在そのものを徐々に忘れ、人が飢餓感を恐怖し二次的満足に執着するようなシステムを創り上げる。経済が成長し続けるためには、循環している自然・自然として生きている人間の何かを商品化してその循環を断ち切り、大量消費することなく素朴に幸せに暮らしていた多くの人たちを二次的満足のレベルでの忠実な中毒者に仕立て上げてその商品を消費する要員に変えることが最も効率が良いからである。そして、そのシステムの中で搾取する側と搾取される側の間で格差が生まれるだけではなく、二次的満足レベルが中心になった消費は本当の満足を生み出さないため、内容物や深刻度は変われども、どの人にとってもその中毒的な消費のループが死ぬまで続くことになる。そのループは当然循環的ではないため、私たちの健康だけではなく、地球環境にも深刻な被害をもたらしていく。そのループの中に囚われてしまえばしまうほど、幸福感が減り飢餓感が近づいてくるので、人は二次的満足をもたらすものをより多くかき集めるしかなくなる。根源的満足に留まることができたとしたら中毒のループに入らないですむかもしれないが、それは特に都市部にいる人たちにとってはそのシステムの中で孤立することであり、物質的にも内面的にも貧困に陥るリスクが高くなり現実的な選択肢ではない。従って、ある程度中毒になって二次的満足に基づいた経済活動に参加しないと生存しにくいシステムの中で私たちは生きているのだ。システムが暴走し、それが極端になった時の成れの果ての麻痺と痛みと疲労感は、このミュージックビデオ(一応18禁?)に如実に描き出されている。

 
 ここまでを踏まえて、人類について最も驚くべきことは何かという問いに対する冒頭のダライ・ラマ法王の答えは次のように書き換えることが出来るかもしれない。「今の経済システムとそれを創り上げ持続させようとする人間の古びた意識です。なぜなら、このシステムは人に健康を犠牲にさせつつ、お金を稼がせます。そして、それは人にお金を使わせることで、健康を回復させます。それから、それは人を不安にさせ、現在を楽しませないようにします。結果的に、それは人に現在にも未来にも生きさせないのです。それは、人をまるで死ぬことがないように生きさせ、生きたことがなかったように死なせるのです。」 

 
 このシステムが存続している以上、私たちに出来ることは自分や周りの人たちにとって最もバランスや調和がもたらされ、被害が少ない選択肢を選ぶことだが、社会システムや文明自体の根幹がトラウマ化し、不健全になっている現状ではそもそも心からスッキリ出来る選択肢そのものが存在しにくくなっている。その場その場で、全ての選択肢が正解でありながら同時に不正解である状況の中で、マシに思える選択肢を選んでいくしかない。だから、どの選択肢を選ぶことになったとしても、罪の意識を感じて自分のことを責めることだけはやめていただけたらと思う。きっと私たちは皆、その不自然な状況の中でそれぞれの事情を抱えながらもベストを尽くし、最良の選択肢を選んでいるはずだから。

 
 産業革命以後の流れ、特に第二次世界大戦以後の急速な経済発展の流れによって、人類の生活は圧倒的に便利になったのだと思う。多くの人がそれを享受している。ただ同時に、その流れは根源的満足中心の社会やコミュニティーを減らし、二次的満足と飢餓感への恐怖に基づいた社会システムを急激に増やす流れでもあったのではないだろうか。二次的満足中心のシステムが社会の中で優勢になった時、またはそれだけになった時に、その中にいる人たちは悟りでも開いていない限り、本当の意味で長期的に幸せになることは決してない。なぜなら、そのシステム自体が、プレイヤーを持続的かつ本質的な幸せという本当のゴールにたどり着かせることが出来ない壊れたゲームのようなものだからだ。それは「勝ち組」と呼ばれている人たちにとっても当てはまる。むしろ、「勝ち組」の人たちの二次的満足への中毒性は高いかもしれないので、彼らがより不幸せだということもあるかもしれない。そのシステムの中で生存するために全ての人が大なり小なり平等に中毒者であり、そこから少しずつ抜け出て本当のつながりや愛を取り戻すことができる力を持った存在であるということについても平等なのである。

 
 気候危機による被害を縮小するためだけではなくて、そもそも本当の意味では誰をも継続的に幸せにすることが出来ず、無限に成長し続けようとする経済システムとそれを創り出し維持しようとする古びた人間の意識は出来るだけ早くこの世から退場しなければならない。本質的な幸せ無き壊れたゲームをより上手くプレーしようと必死になるよりも、そのプレー時間を少しずつ減らしそのゲームそのものに皆で別れを告げ、同時に最初から最後まで幸せに満ちた新しい生き方と社会を皆で創造しようと試みてはどうだろうか。遅かれ早かれ、機能不全を起こしている現在の経済システムは崩壊する。ならば、私たちが自らの意志でそれを眠りにつかせようと意図した方が終わりの痛みを軽減することにつながる。そのためには、一人ひとりが愛や絆などの根源的満足の存在と価値を思い出し、二次的満足に慣れてしまった心と身体を癒し再び心の底からの満足を受け取れるようにリハビリしてそれを周りに広げられるような存在になり、新たな循環的なコミュニティーの担い手となっていくことが必要なのではないだろうか。

 
 母の乳を口に含み愛を享受するためには、おしゃぶりを必死に噛んでいる口をリラックスさせて、口の中に何もなくなっている一時的な飢餓感や痛みの記憶を通り抜けなければならない。そこに不安や恐怖が湧き上がってくることは自然のことなので、すでに根源的満足との繋がりをある程度取り戻した人たちやコミュニティーからのサポートを得ることが出来ればそれが理想的かもしれない。そして、その本当の幸福に少しでも近づくような小さくて大きな歩みを一人一人が根気強く進めようと意図することで、二次的満足に基づいたシステムは徐々に力を弱め、根源的満足に基づいた循環的な自分・家族・グループやコミュニティーが各地で力を持ち始め、それが何世代もかけて優しく地球を覆っていく。それこそが本当の意味での地球との持続可能な共生であり、共創への移行になるだろう。その流れはもう様々な場所で始まっている。地球規模の大きな危機が訪れている中で、怒り、絶望や無関心などの罠にはまらずに、真の大きな変化が、真摯なごく小さな一歩の積み重ねでこそもたらされることを私たち一人一人が心から信じて行動出来るかどうかにきっと人類と地球の未来はかかっている。自分と社会と地球のまだ見ぬ可能性をあきらめるにはまだまだ早い。

まだこの世界は 僕を飼いならしてたいみたいだ
望み通りいいだろう 美しくもがくよ

ついに時はきた 昨日までは序章の序章で
飛ばし読みでいいから ここからが僕だよ


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長年取り組んだ心理学、トラウマ学、ムーブメント、ボディーワーク、周産期心理学、神話学、叡智の伝統、先住民の教え、エコビレッジ、瞑想などの学びや実践で得たものを通じて調和あるより美しい世界へのパラダイムシフトのために企業・政治家・個人を支援。 www.seijiohno.jp

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