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追い詰める医療、逃がす医療 【漢方医放浪記】

 『私の病名は何ですか。』

 しばしば受ける質問です。或いは言葉で示さずとも気にしている方は存外多いもので、医師側は判断に悩むことの多い難題といえるでしょう。

 診断学という学問は想像されているよりも曖昧で、100%ということは極めて稀です。唯一、病理診断に限っては(ほぼ)100%といえるかもしれませんが、凡そ全ての医学領域の「診断」とは確率です。

 少し専門的な内容に触れますと、検査を行う前に医師の推測する「その疾患である確率(蓋然性の高さ)」を検査前確率と定義します。例えば腹痛のために受診した人が虫垂炎かどうか。事前情報とパッと見た感じ、60%と見積もったと仮定します。ここに身体診察を加えます。医師による問診や診察も広義の検査と捉えますと、虫垂炎に特徴的な所見があれば、虫垂炎の確率が上がるということになります。確定診断には画像や血液検査を用いることが多いでしょう。果たしてこれは95%くらい虫垂炎であろう、となると、概ねこれくらい確率が高ければ慣習的に「確定診断」という言葉を使います。しかしながら、細かいことを言いますと、手術によって虫垂切除を行い、その切除したものを病理学的に検査して初めて、これは間違いなく虫垂炎であった、と診断することができます。では術前に詰めきれなかった残り5%は何かというと、例えば虫垂のあたりに発生した回盲部癌などは、稀ですが術前の判断が極めて困難な虫垂炎の類似疾患(或いは併存する可能性のある疾患)と考えます。

 ところが、ニーズは「病名は何か」というところにありますから、受診した患者さんと診断する医師の側には、妙な違和感が生まれやすいのです。「おそらく」とか「可能性が高い」とか、「疑いがある」とか、歯切れの悪い診断(のようなもの)が多いことの裏には、こうした事情が隠されています。

 さて、西洋医学は病名診断に拘ります。

 病名診断を下さねば、「原因不明だから対症療法」となるか「気のせい」や「他の科にいってください」が関の山でしょう。診断後には、では治療はどうしようかと考えますが、大抵の場合には医学研究で統計学的に証明された「科学的に有効と考えられる治療法」を提案します。科学的に証明されていないことについては、保険診療の範囲を超えますから、その先は「臨床研究」の領域です。本質的に現在の保険医療制度では、効くかどうか分かんないけどやってみようか、というような治療の自由度はありません。

 このブレーキ機構は医療倫理的に必要なものです。何故なら医師の采配で好き勝手な「治療」が許容されてしまったら、それは却って害をなすかもしれない、あるいは治療の機会を逸するかもしれないことですから、言葉を選ばなければ人体実験と呼べなくもない事態を招きかねません。国全体の医療の質を担保しようという思いが、保険診療制度の根底には流れています。

 西洋医学には「診断がなければ薬を使えない」という制約があります。これが薬や治療法の「保険適応」のことであって、適応があるとかないとか、そういう表現になってきます。故に西洋医学は検査を増やし病因を究明し、病名をつけることに拘ります。それはたとえ治療法がなかったとしても、診断がつけば同じ診断名の疾患の情報を集積して研究し、将来的に治療法を確立させようという科学者たちの情熱です。

 この風潮を否定する意図はありませんが、どうしても不調を抱える当事者と医療者との間に溝があるように感じます。何故ならば、困っているのは受診を決意した「わたし」であり、「このわたしの症状」の原因は何で、どうしたら良くなるのかということを知りたいのが人情だからです。往々にして西洋医学は、その性質上、人より疾患に注意が向きやすいように思います。それで解決すればいいのかもしれませんが、医学はまだまだ発展途上ですから、診断できないものも、治療できないものも、数えきれないほど存在します。

 「わたし」が欲しいのは「納得」です。
 治療に期待するのは「改善」です。

 漢方医学は「病の根源」を追い詰めません。

 吉益東洞先生の万病一毒説は病の原因たる「毒」の場所を究明して新たな毒を以て制するというアグレッシブな思想ですが、それは例外的な天才の発想であって、漢方医学では全体の傾向として「状態を見極め、身体を調整して健康に近づけることで、病にそっと逃げていただく」ような姿勢があります。

 あくまでも主体は「人」であって、原因はさておき今の状態はこうだから、治療の方向性はこうなります、と解釈します。漢方の診断は病態診断ですから、診断と同時に治療の方向性が定まります。すべての病を根治できるわけではありませんが、古典をみますと難病であっても「よろし」とか「つかさどる」という表現を用いて、それだけで治るか分かんないけどこの薬がいいよ、ということが書かれています。根底に流れる思想は身体を健康にする養生法であって、健康であればヒトの寿命は百年あるのだ、という内容が傷寒論の冒頭にあります。


 私は西洋医であり、同時に漢方医であり、自身も長期にわたる治療を受ける病の当事者です。三つの視点から病に対峙すると、病という厄介なモノの表情が、一定でないことに気付きます。

 西洋医学的に診断をつけるように努めながら、東洋医学的にも病態を解釈し、自分の考えうる最善の診療方針を提案します。特に診断名や病態(証)を伝えることを意識します。不安だから病名を聞きたくないという人も時々おりますが、不安な方こそ診断の見立てをお伝えしたいと私は考えます。何故ならば、未知こそが不安と恐怖の正体だからです。

 どこかの誰かのように、「自分に治せない病はない」などと豪語する予定はありません。この先、如何に医術を磨き医道を究めようとも、私は万物の命に敬意をもって触れていこうと決めています。病とて生命の一環です。それだけで悪と断じて追い詰めて、排除するのが道理とは限らない。

 原理的に不老不死は存在しません。
 ただ、病を遠ざけてよく生きることはできます。


 宇宙に在る地球に生きる私たちは、それぞれがまた宇宙なのだろうと想像します。梵我一如。真理のようなものは、何処でもない、此処に。



 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございます。願わくは、貴方の宇宙が美しく鮮やかに廻りますように。




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#自律神経ですねーと言われたが治療法の提案がない
#検査結果に異常はありませんねーと言われたが症状がある
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