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悪夢を治す話 【漢方医放浪記】

 高血圧や便秘といった不調に耐え難いイライラを纏っていた老婦人を、大柴胡湯だいさいことうを主軸にした漢方治療によって治癒せしめることができました。

 山田光胤先生は、かつて大柴胡湯という処方について「覚悟を迫られる」と表現しましたが、確かにこれは一歩間違えば重篤な副作用をきたしうる劇薬であると、日々の臨床の中で感じます。

「先生、私も診ていただけますか。」

 付き添いの好々爺が訊ねます。

「こんなことを相談して、笑われてしまうれかもしれませんが、その、悪夢を見るんです。」

 曰く、40年も毎日悪夢をみていると。夜は眠れるものの早朝覚醒する直前には決まって恐ろしい夢をみて、起床時にはどっと疲れが吹き出すようだと仰います。

「毎日ですか?」

 私が問うと、彼は「毎日です」と応えます。ただの一日も欠かすことなく、毎日悪夢で起きるというのです。それは尋常なことではありません。これまで誰に相談しても解決に至らなかったと、彼は諦念の表情を見せました。複数の病院にかかっても、心療内科や精神科にかかっても。まともに取り合ってもらえること自体が稀で、カウンセリングも無効、薬も無効。それから鍼灸治療院に1年以上通っても効果はみられなかったそうで、結局何も改善しないまま時間だけが過ぎ去っていったと云います。

 これは厄介な問題です。
 持てる智慧と技術を総動員して臨みましょう。

 ジッと視て霊障でないことを確認します。心霊現象や呪術の類が関わっていると迂闊に手を出すことは危険ですから、拗れた案件では特に注意を要します。

 次に西洋医学的異常を調べます。アルコールや薬物濫用歴がないかどうか。慢性心不全や悪性腫瘍を合併していないか。電解質や内分泌系に異常はないか。パーキンソン病やDLBなど黒質線条体系に異常をきたすような神経疾患を発症していないか。そうしたことを注意深く除外して、どれも該当しないことを確認します。

 それから東洋医学的不調の有無を診察します。それでまったく異常がなければ、純粋な精神科領域の病態か、詐病です。

 脈をみますと、やや沈・弦・僅かに渋。腎虚と心陰虚があります。舌には広く薄い白苔があります。腹の緊張はふつうで3/5の範囲でしょう。小腹不仁が顕著で、臍傍に圧痛があります。

 少陰病位虚証。腎陰虚および心火旺とみて、六味丸ろくみがん清心蓮子飲せいしんれんしいんの鑑別です。食欲が落ちていること、心の不調が目立つことを根拠に後者を選択し、治療を開始しました。

 2週間後の再診日、彼は申し訳なさそうに「まったく変わりませんでした」と言いました。みますと、脈は改善がみられるものの、腹部が張っています。随分とガスの滞りがでていて、これは太陰病位の寒証と判じました。脾胃を補い腎を立ち上げようという試みが、消化管の気鬱症状を顕在化させたのでしょう。

 そこで小建中湯しょうけんちゅうとうを主薬に据えて、少量の酸棗仁湯さんそうにんとうを加えました。

 1ヶ月もすると、体調が良くなってきたと笑顔がみられるようになりました。排便状況が安定し、食欲も回復したようです。それから夢を憶えていない日が出てきました。憶えていなくても悪夢だったことが分かるそうで、しかしこれは一歩前進した証拠だと、私は考えました。脈は浮、遅、弦。肺と大腸が虚しています。腹をみると膨満で鼓音、大腸ガスが腹部の圧痛を誘発しています。

 酸棗仁湯を主薬に、大建中湯を従えます。

 2ヶ月内服を続けるうちに、腹の調子がすっかり良くなりました。夢をみない日が増えてきたものの、憶えているときは必ず悪夢で、やはり疲労は毎朝あるようでした。いったん回復した食欲が再び乏しくなって、空腹感がないといいます。足の先端は冷えています。みますと、脈はやや沈・渋・やや遅・弦、脾虚です。腹診所見が大きく変わっていて、力は3/5程度ですが、臍上悸が著しく右側優位に胸脇苦満と腹皮拘急があって、右臍傍圧痛もあります。太陰病位の治療によって腸管ガスが減じ、隠れていた病邪の本体が漸く姿を現しました。

 ここを攻めれば良い。

 少陽病位虚証。太陰病に近いところです。

 然らば柴胡桂枝乾姜湯さいこけいしかんきょうとうが良いでしょう。

 果たして治療は奏功し、彼は悪夢から解放されました。完全に見ないわけではないものの、悪夢のない日のほうが多くなって、悪夢の内容自体も軽いものに変化してきたといいます。外来治療を続けていますが、完治も遠くはないでしょう。


 最初から柴胡桂枝乾姜湯を使えば良かったのでは、と疑問に思う方がいるかもしれません。明言はできませんが、おそらくそれでは上手く行かなかっただろうと私は考察します。時に病は複雑に絡み合い、一層ずつ治療していく必要があります。本例では先ずエネルギー不足が著しかったために、全身の補気から治療を始め、次いで生じた消化器系の不調を治療しました。そうして病の根本的な原因が炙り出されて、やっと治療することができたのです。

 病位びょういとは病邪の居場所である、という解釈は日本の漢方医学に独特な考え方です。古来中国では病状の自然経過、ステージのように捉えられていましたから、これを急性期から慢性疾患まで応用して診療を組み立てたところに、漢方医学の特徴があります。これを支持する日本の腹診法は、やはり中医学とは起源を同一にしながらも異なる歴史を経て発展を遂げた医術です。


 兎にも角にも、悪夢に苦しむ人が減りました。

 夢の世界は楽しくあって欲しいものです。



 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは今宵貴方の見る夢が、安寧なものでありますように。




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