見出し画像

松田青子「持続可能な魂の利用」を読んで

 読書をしたと一口に言っても、そこから何かを掬すことができなければそれは単純に文字を目で追っただけである。作者が何を言いたいのか、どのような言説に基づいているかを間隙から拾っていかなければ真に読み解くことはできない。

 私はこの本を読んで、自身の搾取性に向き合わされた。何度か触れているように、私は「そういう大人のお店」をしばしば利用する。資本主義を放置しておくと社会に多くの蒙昧な層を生むことはマルクスが「資本論」において導出した。「そういうお店」の労働者には十分な高等教育を受けてきた者の割合が少ない。仮に受けてきた、乃至は受けている最中だとしてもそこには糊口を凌ぐことに精一杯な者が多くいる。私はその事実を知っていたし、それに加えてこれは資本主義の(廻り廻って結果的な)帰結なのであるということもわかっていた。その上で彼女らを「利用」したのだ。貧困を自己責任だといって嗤ったり、非難したりする人を見るが、かような態度こそ阿Qと同格の、経済の教養がない無知蒙昧の民の仕草である。しかしこれを知っっている上でその資本主義の当然の結果である貧困層がたどり着いた「そういう職業」を利用する私こそ、尊厳の搾取者であり、魂の利用者であろう。

 この本においては『「おじさん」』という単語が頻出する。鉤括弧つきの『「おじさん」』だ。『「おじさん」』と見做されるに年齢は関係ない。女性を通して自身を「慰安」―この単語を敢えて使おう―させようと企む仕草をしたり、下に見たりしたらそれはもう『「おじさん」』だ。

 私は『「おじさん」』なのだろう。憲法24条の私なりの解釈から、仮にパートナーが見つかっても、選択的夫婦別姓へと民法改正に舵が切られるまで一生内縁の関係にいると誓っている私ではあるが―結婚してもパートナーのことは女性配偶者と呼ぶ―、異性への私の振る舞いは『「おじさん」』のそれなのだろう。頭ではわかっていても、実行できなければならぬ。貧困の、生活保護の不足の、過去のトラウマの、結果としての「そういうお店」の労働者に、私はどう向き合っていくべきなのだろうか?

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?