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わすれられないもの

わすれられないもの。幼いころ、手から離れて青空に飛んでいった赤い風船。鼠取りにかかった鼠を水に沈めた瞬間の祖父の横顔。恋人でも親友でもない男の子と、中学生の夏に半分こしたパピコ。ただただ小さな花を摘むだけの穏やかな夢。コントラバスの弓に塗る松脂の匂い。生まれたばかりの1人目の妹を病院に迎えに行った嵐の日。同級生の男の子達と成り行きで打ち上げ花火を見た中学生の夜。

インフルエンザで寝ていた平日の晴れた午後。飼っていた真っ白な犬が死んだ日。年下のあの子と部活を抜け出して白いチョークで黒板に書いたことばの数々。2人目の妹と学校帰りに見に行った銀杏の大木。親友の女の子から電話で思いを打ち明けられた夜。ひとりぼっちのクリスマスに聴いた山下達郎の「クリスマス・イブ」。親戚のちいさな男の子が亡くなったときの瑞々しい若葉と水の風景。

高校に入学して最初の冬、窓の外の初雪にはしゃいでいたクラスメイトたちの顔。恋人がはじめて私の前で泣いた夜の秋風のにおいと、涼しい虫の鳴き声。まだ子どもだったとき、眠りに落ちる直前に私の髪を撫でてくれていた父の手の大きさと、そのときの優越と満足。母の首筋からたちのぼる豊かな香水の香り。ことばで傷つけられたときにしか味わうことのできない、心臓が氷のようにつめたくなるあの感覚。友達との約束を蹴り、幼い妹と舞い降りる桜のはなびらを追いかけた春の昼下がり。転んで初めて泣かなかった日の、血がにじんだ膝の色。

大阪の祖父母の家で感じる、家のどこにいたらいいのか分からない胸のざわめき。野放しにしている飼い犬の獣くさくも愛おしい匂い。男友達に戯れに言われた「しね」に死ぬほど傷ついた思春期の夕方。さびしい夜に裸足でベランダに出て泣きながら見上げたオリオン座の冷たいかがやき。久石譲の「summer」を聴きながら寝転んだ、実家の畳のささくれ。学校のプールのカルキの匂い。初めて飲んだソルティードッグのグラスの淵の塩のきらめき。

恋人の前の彼女が腕時計をつけていた、あの細くて白い手首。最後の定期演奏会が終わったあとでクラスメイトの女の子がくれた、小さくてかわいいブーケ。酔っぱらった日にされた告白。飼っている猫の、血の色が透けて桃色になるほど薄い耳。雨の後で虹をつかまえたときの形容しがたい胸の高鳴り。大学研究室の同期たちと勉強の合間に食べたアイスクリーム、そこで繰り広げられる軽やかなおしゃべり。文学を学んだ日々。

手が届かなくなっても、きっとわすれない。



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