アニメ『葬送のフリーレン』を観て -リフレーン(繰り返し)について
ついにアニメもここまで来たかと驚いた。
「終わり」から始まる
『葬送のフリーレン』では、第1回が「冒険の終わり」から始まる。
通常、冒険活劇の第1回は「冒険の始まり」から始まるものだ。
ところがこの作品では、「冒険の終わり」から始まる。
悪玉妖怪を倒す冒険の旅が終わって、四人の勇者たちは任務完了を報告し、そしてばらばらに去っていく。別れていく。
勇者たちのうち、主人公フリーレンはふつうの人間ではない。
善玉妖怪である彼女は、寿命が異常に長い。
その結果、冒険から数十年の歳月が流れて、フリーレンは仲間の一人ヒンメルが老衰で死ぬのを目にする。
これが第1回なのである。
これ以降、フリーレンは時間を数えるとき、ヒンメルが死んでから何年と計算する。
まるで原爆が投下されてから何年と数えるようなものである。
主人公フリーレンの眼差しは老婆のそれ、生き残ってしまった者のそれなのだ。
まさに高齢化時代にふさわしい、アニメとは言えないだろうか。
「新たな?」冒険
いろいろあって、主人公フリーレンは若者たちと新たな冒険の旅に出発する。
若者たちにとって、それは初めての冒険である。
しかしフリーレンにとって、それは決して以前と同じではないけれども、以前とどこか似たような旅である。同じではないのだけれども、かつて見たのと似たような光景が、繰り返される。何度も何度も回想シーンがあらわれる。
つまり韻を踏んでいるのだ。
そして韻を読めるのは、過去を記憶しているフリーレンだけである。
過去のことも現在のことも、よく知っているフリーレンだけである。
よく知らなければ、違いはわからない。
よく知ればこそ、似ているけれども同一ではないことが分かる。
そしてよく知るとは、愛するということなのだ。
老人(過去をよく知る者)の孤独と悲哀が、画面を圧倒する。
ゲームじゃない、ほんとのことさ
かつて僕はテレビゲームに対して違和感を表明したことがある。
「なんで一度死んだマリオが再生ボタンを押すだけで生き返るのだ。おかしいじゃないか。人間の死を軽く扱ってもらっては困る。人間は一度死んだら生き返らない。だからこそ人間はまた他人を尊重するのだ。力石徹も宗方仁も生き返らないのだよ。」
けれども『葬送のフリーレン』が表現したものは、はるかに大人の世界観であった。
たしかに歴史は繰り返さない。死んだ人間は蘇らない。でも同じような人間は現れる。そのとき聞こえてくる詩を、『葬送のフリーレン』は表現した。
それは過去を知る老人にだけ、あるいは歴史家にだけ、聞こえるものである。
別言すれば、『葬送のフリーレン』の「リフレーン(繰り返し)」は、日本のアニメの成熟と老衰をよく表しているとも言えよう。
未知なる宇宙に出発する、あの若き日の興奮はもはやない。
あるのは繰り返しだけだ。けれども完全に同一な繰り返しではない。
そこにこだわる。
それが老人のリアルを生みだす。
リフレーン(繰り返し)を感じさせる年
2023年10月現在、世界は第3次世界大戦に向かう途中である。
第1次と第2次のリフレーンを、我々は聴くことになるのだろうか。
世界のあちらこちらで別々に発生した紛争は、覇権国家(中露)と民主国家(欧米)という、ふたつの大きな陣営の対立に収斂されようとしている。
第2次世界大戦の結果として創設された国連の安全保障理事会の非有効性が原因のひとつなのだから、「第3次世界大戦」と呼ぶのは間違えていないだろう。
権威国家は「飢えない権利」を標榜し、民主国家は「政治に参加する権利」を唱道している。平等と自由がふたたび対立するのだろうか。
おそらく各国内部も、このふたつの陣営のどちらにつくかで、内戦状態になるだろう。
そんな2023年に、アニメ『葬送のフリーレン』が登場したことは、偶然の一致なのだろうか。それとも、新たな戦没者の葬送の始まりなのだろうか。
繰り返しという輪廻を断ち切りたければ、革命しかないだろう。
でも革命も、フランス革命、ロシア革命と繰り返され、飽きられている。
フリーレンよ、この老人の、涙しか流せない疲れた目に、希望を見せておくれよ。
螺旋階段は、同じような風景を見せるけれども、のぼっているはずではないのかい。
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