ウエルベックに見られる女性像 ―『滅ぼす』から
ミシェル・ウエルベック(1956年生)は、僕とは異なり、保守派である。
ところが彼の女性観に、非常にしばしば、僕は同意してしまう。
そのことは僕をモヤモヤさせる。
でも同意するという事実と、向き合わなければとも思う。
読み終えたばかりの『滅ぼす』から幾つか例をひこう。
痛みについての特殊な知識
例えば次のシーン。
アルアルだ。とてもよく実感できてしまう。
ポールとプリュダンスという夫婦が、ある事件のせいで、悲しみのどん底に突き落とされたマリーズと会うシーンだ。
薄情だと思われたくはない。ただ僕もポールも、プリュダンスのように振舞う能力がない。無能なのだ。ただそれだけ。
健康に留意するように仕向ける
また次のシーン。
なかなか歯医者に行かなかったポールが、ようやく歯医者に行って、診察を済ませたときのシーンである。ちなみにポールは50歳前後の設定だ。
例えば、むかしむかし、僕は、ある女性から捨てられた経験がある。
しばらくして彼女と再会したとき、驚くべきことに、彼女は僕の健康を気遣う言葉をかけてくれた。でも僕には、それが御為ごかしにしか聞こえなかった。
あるバーのマダムに、「おかしくない?いまさら僕の健康に気遣うなんて?」と訊いたら、「ぜんぜんおかしくないわ。当然のことよ。一度でも愛した男なのだから」と言われた。
でも気遣うくらいなら、僕を捨てるなんてことをしなければいいのにと、僕はなんだか釈然としなかった。
未だによく分からない。
ところで女性の伝統的役割が男性を人生につなぎとめることだとすれば、男性の伝統的役割は何なのかしらん。
静かな優しさを育む
実を言えば、ポールとプリュダンスは、結婚してから10年ほど、「家庭内離婚」を経験していた。
そんな二人だったが、ポールの父が倒れたことを契機に、縒りを戻す。
そのシーンが第3部に描かれている。
父の世話でしばらく家をあけていたポールが、疲労困憊して帰宅する。
妻はいない。
クリスマスツリーが飾ってある。
ポールは、妻の妹が子供と一緒に遊びに来たのかなと思う。
ふと気がつくと、妻が戸口に立っていた。
彼女は夫が帰宅して嬉しそうだった。ポールもまた嬉しい、と自覚した。
彼女は「お父さんの容体はどう?」と訊いた。
ポールは心配ないと答えてから、妻の家族に思いを馳せ、「最近、妹さんに会った?」と訊いた。
もちろん頬にキスをしただけで、寝室は別々のままである。
でもまったくイヤミなく、言葉の裏のトゲもなく、哄笑もなく罵倒もなく、もちろん泣きじゃくる嗚咽もなく、静かに穏やかに時が過ぎ、優しさがみちる。
ある種の充実感が心にみちる。
僕はこの箇所を読んでいて、率直に、ポールを羨ましいと思った。
僕も、死ぬまでに一度でいいから、そんな優しい時間を、この地球と呼ばれる惑星の住人と育んでみたい、そう思った。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?