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ウエルベックに見られる女性像 ―『滅ぼす』から

ミシェル・ウエルベック(1956年生)は、僕とは異なり、保守派である。
ところが彼の女性観に、非常にしばしば、僕は同意してしまう。
そのことは僕をモヤモヤさせる。
でも同意するという事実と、向き合わなければとも思う。
読み終えたばかりの『滅ぼす』から幾つか例をひこう。


痛みについての特殊な知識


例えば次のシーン。
アルアルだ。とてもよく実感できてしまう。
ポールとプリュダンスという夫婦が、ある事件のせいで、悲しみのどん底に突き落とされたマリーズと会うシーンだ。

「マリーズは(中略)石のベンチに坐っていた。というか、(中略)むしろ、そこに置かれているようであり、ぐったりとして、そこから動くことも、どんなふうに動けるかを考えることさえも、できないでいた。ポールも身をこわばらせた。(中略)驚いたことに、プリュダンスは彼の腕から抜け出て、マリーズのほうへ進んでいった。そして、ベンチの彼女の隣に坐って、肩に手を置き、優しく撫でた。女たちはこうしたすべてを生まれつき心得ているかのようだった。女たちは、痛みについての特殊な知識によって、こうした仕草をするように運命づけられているかのようだった。ポールは二人の前を立ち止まらずに通り過ぎ、プリュダンスにあらためて目を向けることもしなかった。こうしたことができなかっただけではなく、こうした場に立ち会うことも苦手だった。」

(『滅ぼす』第5部)

薄情だと思われたくはない。ただ僕もポールも、プリュダンスのように振舞う能力がない。無能なのだ。ただそれだけ。


健康に留意するように仕向ける


また次のシーン。
なかなか歯医者に行かなかったポールが、ようやく歯医者に行って、診察を済ませたときのシーンである。ちなみにポールは50歳前後の設定だ。

「彼が最初にしたことは、プリュダンスに電話して、歯科医から出てきたところで、診療は無事に終わったと伝えることだった。電話をかけながら、歯の治療にようやく行ったのを褒めてもらうことを期待していた。男性を励まして、自分自身を大切にするように、とりわけ健康に留意するように仕向けること、より広く言って、男性を人生につなぎとめておくことは、伝統的に女性の役割である。男性が人生に対して抱く友情は、どんなにうまくいっている場合でも、不確かなものであるから。」

(『滅ぼす』第6部)

例えば、むかしむかし、僕は、ある女性から捨てられた経験がある。
しばらくして彼女と再会したとき、驚くべきことに、彼女は僕の健康を気遣う言葉をかけてくれた。でも僕には、それが御為ごかしにしか聞こえなかった。
あるバーのマダムに、「おかしくない?いまさら僕の健康に気遣うなんて?」と訊いたら、「ぜんぜんおかしくないわ。当然のことよ。一度でも愛した男なのだから」と言われた。
でも気遣うくらいなら、僕を捨てるなんてことをしなければいいのにと、僕はなんだか釈然としなかった。
未だによく分からない。

ところで女性の伝統的役割が男性を人生につなぎとめることだとすれば、男性の伝統的役割は何なのかしらん。


静かな優しさを育む


実を言えば、ポールとプリュダンスは、結婚してから10年ほど、「家庭内離婚」を経験していた。
そんな二人だったが、ポールの父が倒れたことを契機に、縒りを戻す。
そのシーンが第3部に描かれている。

父の世話でしばらく家をあけていたポールが、疲労困憊して帰宅する。
妻はいない。
クリスマスツリーが飾ってある。
ポールは、妻の妹が子供と一緒に遊びに来たのかなと思う。
ふと気がつくと、妻が戸口に立っていた。
彼女は夫が帰宅して嬉しそうだった。ポールもまた嬉しい、と自覚した。
彼女は「お父さんの容体はどう?」と訊いた。
ポールは心配ないと答えてから、妻の家族に思いを馳せ、「最近、妹さんに会った?」と訊いた。

「クリスマスツリーがあったから、ひょっとして」とポールは説明した。
「ああ、クリスマスツリーね。」と妻はそちらに楽しげな目を向けた。「あなたが帰ってきたとき、華やぐんじゃないかと思って。」
ポールは長いこと沈黙した。ことのなりゆきにいささか面食らっていた。プリュダンスはしなやかにソファから腰を上げ、「寝る前に、ちょっと本を読もうかな」と言った。見まわすともう夜、しかもだいぶ前に日が暮れていたとわかって、ポールは驚いた。(中略)ポールも立ち上がり、妻の頬にそっとキスをした。」

(『滅ぼす』第3部)

もちろん頬にキスをしただけで、寝室は別々のままである。
でもまったくイヤミなく、言葉の裏のトゲもなく、哄笑もなく罵倒もなく、もちろん泣きじゃくる嗚咽もなく、静かに穏やかに時が過ぎ、優しさがみちる。
ある種の充実感が心にみちる。
僕はこの箇所を読んでいて、率直に、ポールを羨ましいと思った。
僕も、死ぬまでに一度でいいから、そんな優しい時間を、この地球と呼ばれる惑星の住人と育んでみたい、そう思った。

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