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また8月6日がやってきた


「反戦平和」にうんざり


また8月6日がやってきた。
今年も例年のように、10日間、日本のマスコミは学校の先生と一緒に「反戦平和」を唱えるのだろう。それさえ唱えていれば権威だけは保てるというわけだ。
まさに国民的大合唱。
そこに平和の祭典オリンピックは、どのように位置づけられるのだろうか。
そこにガザの虐殺は、ウクライナ戦争は、どのように位置づけられるのだろうか。
そこに北朝鮮の核開発は、中国の海洋進出は、どのように位置づけられるのだろうか。
日本政府と同様に、「遺憾砲」ですませるのだろうか。遺憾、遺憾、いかんと。

マンネリ感がハンパじゃあない。
マンネリ感が無気力無関心無感動を運んでくる。

「反戦平和」だけは、左翼も右翼も同じだ。
まさに国民的大合唱。
左翼はあいかわらず、僅かにでも「反戦平和」と違うことを言ったら、どんな人間でも排除してやるという圧力で、思想統制をすすめる。実際、松竹さんは日本共産党から除名された。左翼の同調圧力は非民主的だ。
他方、右翼はあいかわらず、「平和」のために死んだ軍人たちへの祈りを強要する。そもそもなんだよ、英霊って。ドラキュラかよ。ゾンビかよ。ただの天皇制ファシストだろう。ただの植民地主義者だろう。

日本の夏の「反戦平和」には思想がない。
実際、現在の大半の「反戦平和」活動家は、戦時中には軍国少年少女であった。
なぜ豹変したのか。爆弾を落とされたからか。
たとえ爆弾を落とされても、もしも日本が勝利していたら、彼らはすくすくと軍国主義者に成長していたかもしれない。
ちゃんと一生懸命、勉強して、たどりついた「反戦平和」ではない。
それゆえ非論理的である。


嘘を見ぬけ


そもそもすべての軍事衝突が総力戦になるわけでもあるまい。
丁寧に歴史を調べれば、総力戦にならなかった武力行使の事例も多々見つかるはずだ。
独裁者が無辜の民を殺しているとき、何もしないで「遺憾砲」を連発するよりも、民を救うための武力行使をしたほうが人間的だと私は思う。

いずれにせよ未来は真っ暗闇とは決まったわけではない。
幾人かの人々は気づき始めている。
このまま夏の例年行事として「反戦平和」を訴えていても、何も変わらないと。
いや、むしろ、事態は悪化するばかりだと。

以前、長野の無言館(戦場に散った夭折の芸術家の作品を集めた美術館)の館長さんに、お話をお伺いする機会があった。
直感力に秀でた、誠実な方だとお見受けした。
彼が毎夏、繰り返されるマスコミの「反戦平和」には違和感を覚えると話してくれたのが、印象的だった。

夏の恒例「反戦平和」に対して「なにかおかしい」と感じている人びとがいる。
私が彼らにオススメしたいのは、まずは「歴史」の勉強である。
①何が起きたのかという事実の確認。
②起きたことに対する当時の人々の、当時のありのままの意見の調査。
③当時の人々がその意見を持つに至った背景の、長期的タイムスパンでの理解。
④調べた事柄に対する自分の素直な意見の表明。
⑤他人の意見との突き合わせ。

時間はかかるかもしれないが、決して他人のものではない、自分だけの歴史を書けるはず。誰にでもアクセスできるのが、ソフトな学問である歴史学の魅力である。なによりも必要なのは常識だ。(常識さえあれば、義経がジンギスカンになったとか、カミカゼは日本人のDNAにインプットされた戦術だった、などの邪説は退けることができるはず。)
がんばって!

勇気ある者は学べ。
未来に築く、平和の金字塔。
哀しみを背負い、生きる地球を、
救えるのは君しか、君しかいない。
学べ、今こそ、明日のために。
哀しみ、終わるまで♪

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