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[短編小説] 横場駅

これは生まれて初めて書いた小説。1万字を超えているので、短編といって良いかな。この頃の私は拙かった。(今でもそうだけど)
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 トンネルを抜けると、そこは雪国だった。
 いや、違う。これは僕のことじゃない。
 なにしろ僕が乗っているのは、横浜市営地下鉄だ。ずっとトンネルの中を走り続けている。
 改めて言いなおそう。。
 トンネルの中を走り続けていくと、電車が辿り着いたのは横場駅だった。
 間違いなく、横場駅だった。
「そんな駅、横浜市営地下鉄にはないでしょ?」と、言われてしまうかもしれない。僕も心の底から同意する。
 戸塚駅から乗車して、踊場駅を通過したのだから、次に到着するのは中田駅だ。そして中田駅の次は立場駅となる。しかし目の前に見える掲示板には横場駅と書かれており、戻れば踊場駅で、進めば立場駅だった。
 ちなみに踊場という地名の由来は、猫が集まって踊りまくるサバトのような場所だったことに由来する。人間を化かして喜ぶキツネやタヌキとは縁がない。立場のことは知らないけれども、もしかしたら猫が立って歩くのを目撃された場所だったのかもしれない。
 それはともかく、問題は横場駅だ。子供の友だちには横場さんがいるけれども、もしかして僕は夢の中で横場を引っ張り出して来てしまったのだろうか。実は昔から中田という駅名には思うところがあった。いくら市営なので役所として冒険はできないと言っても、地名をそのまま駅名にするというのは芸がなさそうな気がする。ちなみに横浜市内を走る相鉄線には、ゆめが丘や緑園都市といった駅名が存在する。そしてゆめが丘駅から数百メートルのところに横浜市営地下鉄の駅も存在するけれども、こちらは地名そのままで下飯田駅となっている。
 だから横場駅は語感的に大賛成なのだけれども、駅名変更という話は聞いた記憶がない。そもそも出勤時に湘南台駅から戸塚駅に向かった時は、中田駅だった。昼間の間に駅名を変更するというのは、いくら横浜市が財政難で夜間特別手当を節約したいと思っていても、本当に実行してしまうことはないだろう。
 突如として僕の眼前に出現した謎の横場駅……
 いけないビョーキが出てきた。
 こういう未知の事態に遭遇した時は、まずはじっと動かず状況を見定めるのが、人生の大ベテランとしてのセオリーだ。『あわてる乞食はもらいが少ない』とも言うし。
 しかし分別盛りの大人であるにも関わらず、もう一人の僕が『当たって砕けろ』とささやきかけてくる。今回も『謎は謎のままが美しい』という美学があるのにもかかわらず、もしかしたら二度と元の世界に戻って来れないかもしれないにも関わらず、『さて立て! そして電車を降りるんだ!』と誘惑してくる。
 うかうかしていると電車のドアが閉まってしまいかねない。こんな現実離れしたことが起こるハズがない。きっと夢でも見ているのに違いないだろう。
 ともかく判断に迷っている時間はない。
 そう思ったら、自然に体が動いて、僕は駅のホームに降り立っていた。
 チャイムがなって、電車のドアが閉じる。
 ホームドアも閉まり、電車は静かに動き始めた。
 僕以外は誰も降車しなかったようで、ホームには誰もいない。そしてまばらに乗車している人々は特に何かを感じている様子もなく、電車は走り去っていった。
 あとに残るは僕一人だった。
 とりあえず改札口へ向けて歩き始める。ホームは記憶にある中田駅と変わらず、改札口までの様子も変わりなかった。ビルだと三階くらいまで達するような長い階段を上ると、そこは雪国……じゃなくて改札口だった。ここも記憶ある中田駅と変わらない。人影は全くない。改札口にも駅員さんは待機していない。ちなみに駅員室は、通路の向かい側に設置されている。その改札口を通過し、さらに地上出口を目指して階段を登り始める。これまた記憶にある中田駅そのものだ。なお中田駅はまぎらわしいけれども、”なかた”ではなくて”なかだ”が正しい。その点で横場駅は発音に悩む必要がないので、はるかに望ましいと言える。
 どうして僕がそんなに中田駅に詳しいかというと、単に通勤経路上の駅というだけだけではなく、今まで何度もお世話になっているからだ。かつての我が愛車は、ここにあるディーラーから購入したものだ。
 どうして自宅近所のディーラーに頼らなかったのかというと、家人が運転免許を取得した時に購入したからだ。そしてその時、家人の運転技術を心配した義母から注文を頂戴した。
「戦車のように丈夫な車を」
「……はい」
 いろいろと調べて、ヨーロッパの某自動車メーカーに辿り着いた。恐ろしく頑丈なせいか、エンジンの割に車体が重かった。すこぶる加速性能などは良くなかったが、逆に運転素人向けと言えるだろう。そんな訳で最寄り駅が中田駅のディーラーで自動車を購入し、定期点検や車検などのメンテナンスなども全てお願いしていたという訳だ。駅から相当離れていたので、足腰には良い運動となった。自動車を購入して健康になったとも言えそうだ。
 だから断言できる。
 横場駅は中田駅と瓜二つだった。広告などで中田となる部分が横場となっている程度しか違わなかった。もし僕がいつものように考え事をしながら歩いていたら、ここが横場駅であるということには気づかなかっただろう。
 しかし地上口を出たら、状況は一変していた。
 まず地下鉄の出入口の習わしとして、階段を登り切った先は幹線道路だった。しかし驚いたことに、車が一台も走っていない。定時で仕事を切り上げた帰宅途中だから、道路は最も混雑している時間帯だ。それなのに、車が一台も走っていない。
 それだけではない。
 道路自体はいつも通りだけれども、道路沿いの建物が妙に古く感じられた。建物が古いというよりも、看板のデザインなどが少し古い感じだ。今は令和の時代だけれども、昭和時代に逆戻りしてしまったような雰囲気だ。
 そのせいか、妙に寒々しい感じがする。おまけに自動車は走っていないし、歩いている人間が一人もいない。さわさわと街路樹の間を通り抜ける風音がするばかりだ。
 あきらかに普通じゃない。これは冒険はあきらめて地下鉄に……
 と、ふりむいたら、地下鉄の出入口が消えていた。横浜市営地下鉄が戸塚から湘南台まで延線したのは1999年、つまり平成十一年のことだ。それまでは学生の頃から、自転車で湘南台から戸塚まで片道30分以上もかけて通勤・通学していた。我ながら若かったなあと、つくづく思う。(ちなみに自転車通学で戸塚駅を利用していたのは、藤沢市民では僕くらいだ)
 もしかして僕は本当に昭和時代へタイムスリップ……当時に自分の会うという、タイムパラドックスとやらを経験するチャンス到来?
 ん?
 などと呑気(のんき)なことを考えていたら、ベルトの後ろあたりを引っ張られるような感じがした。
 立ったまま首だけ振り向いてみたら、幼稚園生くらいの女の子が、僕のベルトにさわっていた。どうやら僕の注意を引きたかったらしい。
 地下鉄の出入口から道路沿いの歩道に出てきた時には、人っ子一人どころか猫さえ歩いていなかった。どうやら自分ではいつも通り呑気で平静を保っていると思っていたけれども、周囲への警戒がお留守になっていたらしい。
 女の子はすがるようなまなざしで、僕の方を見ていた。
「あの……」
「……」
 黙ったまま、笑顔を向ける。これでも一応、一人娘を育てた父親だ。子供への接し方は、少しは慣れているつもりだ。こちらからあれこれと一方的に話しかけるのではなく、まずはアイコンタクトが第一歩だ。
「あのね……おうちへ帰りたいの」
「おうちに帰りたいのか」
「うん」
「なるほどー ところでお母さんは近くにいないのかな?」
 女の子は、戸惑ったような表情を見せる。
「おかあさん、おうちにいるのかも。わたし、どうしてここにいるのか分からないの」
 ふむふむ。
「おうちへの道は分かる?」
 女の子は、思わず泣きそうな顔になる。
「よくわかんない」
「ここは知っている場所?」
「うん」
「自分のなまえは言えるかなー?」
「きさらぎやよい」
「つきのちゃんというのかー」
 子供と目線の高さを合わせるため、膝を曲げて座り込む。
「住所は言えるかな」
「えーっと、たてばの……」
 そこで言いよどんでしまう。我が子もそうだったけれども、さすがに未就学児童が住所を正確に覚えるのは無理がある。
「立場か。けっこう歩くことになりそうだね」
 女の子は、こっくりと頷いた。ここがどこであるかは、大体わかっているらしい。
 しかし……
 幼稚園生くらいの子が、中田……もとい横場にいるということは、かなり気になるこどだった。立場は地下鉄で隣駅であり、距離にして二、三キロメートルは離れている。母親が付き添っていたとしても、ここまで徒歩で歩いてくるような距離ではない。
 おまけに周囲を改めて見渡すと、妙に建物が少ない。もともと立場は鎌倉街道と長後街道の交差する場所で、昭和時代からそれなりに栄えている。一方で中田は長後街道という幹線道路沿いだから閑散とはしていないけれども、昔から栄えていたとは言えない。そもそも踊場とか立場という地名は横浜南部訪問の市民ならば知っているけれども、中田という地名を知らない者は多い。
 つまり今が令和ではなく、昭和時代という可能性も否定できない。
 おまけにもう一つ、厄介なことがある。
 迷子は交番にお任せするのがセオリーだ。女の子も、そのくらいは分かっているかもしれない。
 しかしこの近くに交番はない。
 僕が自宅の鍵が行方不明になった時には、戸塚駅前の交番で遺失物の申請手続きをした。地下鉄もなければ自動車も走っていない。自分たち以外には誰も見当たらない。
 この状況で交番を頼るのも、無理があるかもしれない。
 あ、そういえば、踊場にも交番があったっけ?
 しかし、こんな状況じゃ、そもそも交番が当てになったとしても役立つだろうか。そもそもめでたく自宅の住所が分かっても、自宅には誰もいないんじゃないだろうか。
 自分ひとりだけならばかまわないけど、さすがに女の子が一人ぼっちは可哀そうだよなあ。
 なんだかドラゴンボール超のピッコロ様になったような気持ちになってきた。おまけに孫悟飯の娘であるパンちゃんみたいな女の子までいる。
 うーん、さてとどうしたものか。
「おじさんも迷子なの?」
 いきなりやよいちゃんが心配そうに尋ねて来た。子供というのは、実に鋭いことがある。
 仕方がない。
「いやー、迷子じゃないんだけど、途方にくれてはいるかな」
「どうして?」
「何しろタクシーやバスが走っていれば便利だけど、それどころか車が一台も見当たらないからねえ。はっはっは」
 我ながら、子供にさえ隠し事のできない性格である。考えていることがストレートに顔に出てしまう。『立場はピッコロ、性格は悟空、外から見た目はクリリンさん』というところだろうか。
「わたし、おうちに帰れるかなあ」
「それは大丈夫だよ。やよいちゃんは立場の交差点まで行けば、おうちの場所が分かるだろう」
「たてばのこうさてん……うん。バスが苦労して曲がっているところだよね」
「そうそう、その通り。あそこはこの道路を、あっちへずっと歩いて登っていった先にあるんだ」
「じゃあ、おじさんと歩いていけば、おうちに帰れるんだ!」
 女の子、とたんに明るい表情になった。パンちゃんそっくりだ。実は僕、ドラゴンボール超スーパーヒーローも観ている。今ならDVDやオンデマンドで自宅鑑賞することも可能だ。
 いや、問題はそこじゃなくて……
「ただ、この世界、ちょっと面白いよね」
「おもしろい?」
 やよいちゃん、きょとんした目になる。
「うん、さっきも言ったように、車が一台も走っていないでしょ」
「もう慣れちゃった」
「慣れちゃった?」
 コーン、と頭を殴られたような気がした。
 いや、コークスクリューブローとか、スマッシュを直撃されたといった方が良いかもしれない。
 慣れちゃった?
 これは貴重な情報だ。そもそも僕一人が放り出されるならば、まあ変わり者だから、そんなこともあるかもしれない。しかし女の子が一人だけ存在している世界だ。
 ドラゴンボール超スーパーヒーローを観たから、その影響で夢を見ているというオチかもしれないけれども、それでは『見たこともない女の子』という現象に説明がつかない。僕の頭脳はAI(人工知能)で画像合成するように、今まで見たことのある女の子から、見たことのない子を生成できるほど便利ではない。
 むしろ女の子の世界に、僕が引き込まれたといった方向の話だったりする?
「いつ頃から車を見なくなったのか、分かるかな?」
「今日の朝から」
「そうかあ、今日の朝かあ」
 朝は普通に中田駅だったから、僕が何かの原因という訳ではないらしい。
 今日の朝から……横場駅……きさらぎやよい……やよいちゃん……ピッコロ様……いや、これは違う。
 我が灰色の脳細胞が、本格的に動き始める。
「朝からということは、おなかが空いていない?」
「おなか、大丈夫。でも食べることはできるよ」
 OK。地下鉄のトラブルに備えて、カロリーメイトと懐中電灯はカバンの中に常備している。もちろん水も……
 水?
「カロリーメイトがあるけど、食べるかな?」
「うん」
 やよいちゃんは、喜んで手を差し出した。その小さな手に、やさしく一箱のカロリーメイトをのせる。
「それと……トイレはどこを使っているの?
「トイレ? 今日は朝から一回も行っていないよ」
「え、トイレに行っていない?」
 だんだんと、話がオカルト的になってくる。
「昨日はトイレに行ったか。覚えているかな?」
「そういえば、最近はトイレに行っていないかなあ」
 ふーむ。座敷童子(ざしきわらし)って、トイレに行くのだろうか。
 やよいちゃんはお腹が減ってはいないと言いながら、喜んでカロリーメイトの箱を開け始めた。不親切だと思われるかもしれないけれども、子供というのは自分でやってみることを好む傾向がある。少なくとも我が家のお嬢様はそうだった。やよいちゃんも、自分で箱を開けて開封するのが楽しいようだ。
 その間に、僕は手帳を取り出した。急いで頭の中にあることを、箇条書きにする。

・きさらぎ・やよい
・最近は食事なし
・トイレに行かない
・朝はいつも通りの地下鉄
・帰宅時は中田駅が横場駅へ変化
・なにやら昭和時代のような雰囲気
・地下鉄の出入口が消えた
・長後街道には自動車が一台も走っていない
・今のところやよいちゃんと僕の二人だけ
・住んでいるところは『立場』とのこと
・女の子が一人だけ。ご両親は見当たらない
・ここは中田。踊場と立場の中間にある駅

「おじちゃん、本当に帰り道が分かる?」
「それは大丈夫。スーパー銭湯だって知っているよ」
「あ、私も知ってる!」
 実はスーパー銭湯の前を自転車で走っただけで、銭湯を使った経験はないけれどもね。
 しかし立場近辺に詳しいのは本当だ。
 昔、会社の組合依頼の政治家向け活動支援で、二人一組に組まされて各戸を訪問した経験もある。あの時は職場の先輩と二人で訪問して回った。呼び鈴を鳴らしてドアが開いたところで用件を話すと、いきなりドアをバタンと閉められることが何度もあった。
 あの時は最後に先輩のメンタルが参ってしまって、「どうして僕は、ここにいて、いったい何をやっているのだろう」とつぶやき始めたことを覚えている。最後は公民館のトイレを利用させて頂いたので、トイレの場所もバッチリと分かっている。
 問題はジグゾーパズルのピースは集まってきたけれども、なかなか単純なピースばかりだということだ。複雑であれば、『これとこれが組み合わさる』と分かるけれども、単純な分だけ始末に負えない。
 ここはじっくり考えるのが良さそうだ。
「やよいちゃん」
「なあに、おじさん」
 おじさんという言葉に少し傷つきながら、話を続ける。
「おじさんは少し疲れたから、少し休ませてもらっても構わないかな」
「やよい、さびしいなあ」
「大丈夫。手を握っていてあげるから」
 子供というのは、スキンシップが大切だ。僕は左手で、やよいちゃんの右手を握ってあげた。なんとなくやよいちゃんが普通の女の子でないことは分かってきたけれども、たとえ彼女が接触テレパスで心を読まれても構わなかったし、寄生生物が人間形態を取っていたとしても気にしなかった。
 それが僕の生き方だ。
 そうして僕は道路に格好悪く座り込み、居眠りするように頭の中でパズルピースの組み立てを始めたのだった。
 きさらぎ……やよい……弥生台……なぜか僕は弥生台を知っている……駅前の周辺状況も覚えている……一体どうしてだろうか?
 南万騎が原、緑園都市、弥生台、いずみ野、いずみ中央、ゆめが丘……そして湘南台。一つだけ地味な名前で、住もうとするする人は多くない。湘南台からの引っ越しを考えた時も、緑園都市だった。
 なぜ、どうして僕は弥生台に詳しいのだろうか?
 そして僕は、ピースを組み立てることに集中もできず、いつしか本当に眠りに落ちてしまったようだった。
 左手に、柔らかい子供の手ざわりを感じながら。

 ***

「おじちゃん、どうしてこんなところに来たの?」
「……」
 返事もできず、肩で息をしている僕が立っているのは、立場ではなくて弥生台だった。
 途中から疲れたというやよいちゃんを背負い、弥生台までを歩き通したのだ。そして僕たちは今、一つの建物の前に立っていた。
 幼稚園児を背負ってみればわかる。数分ならばともかく、一時間近くになると地獄だ。たとえその子が子泣き爺いのような妖怪でなくても、足腰はガクガクになってしまう。
 ともかく目的には到着した。
 目の前にそびえ立っている建物には、”国際親善病院”というプレートが掲げられていた。灰色っぽい外観の、大きくて広そうな建物だ。
 これは場所を探すのに、苦労するかな?
「ここは病院? 何かに入るの?」
「なぜかやよいちゃん、少し怯えたような表情になった」
「その通り」
 僕は彼女を少しでも緊張させないように、”お父さんモード”を全開にしながら話しかけた。
 そして入口の自動ドアがスムーズに開くことを幸いに、病院内部へ入り込んだ。
 ちょっとだけ周囲を見渡すと、小児科への案内ルートが見つかった。
 背中から降ろしたやよいちゃんの右手を自分の左手で握って、小児科の方へ向かう。
 小児科の近くには、PICU(小児集中治療室:Pediatric Intensive Care Unit)やHCU(High Care Unit)があった。驚いたことにベッドは全て整えられているようで、うれしいことに誰かが入室していることはないようだった。
 そのまま個室の方へ向かう。
 きょろきょろと見渡していると、あった!
 その個室の入口には、”きさらぎ やよい”と表札がかかっていた。鍵はかかっておらず、そっとドアを開けてみた。
「ママっ!」
 いきなり大きな声がした。もちろん声を出したのは、やよいちゃんだ。
「ママっ! やよいの声が聞こえないの?」
 もう一度、やよいちゃんは大きな声を出した。
 僕には人影が見えないけれども、病室内のベッドには、もう一人のやよいちゃんが横たわっていた。そして、近くには椅子が置かれていた。
 どうやらお母さんは、そこに座っているか、ベッドに突っ伏して寝ているのだろう。
 なんとなく、そんな気がした。
「ママーっ!」
 叫び声を上げるやよいちゃんの肩を右手で叩き、それから頭をなでる。やよいちゃんは、僕の方を向いた。
「おじさん、どうしてママは私のことに気づいてくれないの? ベッドにいるのは私?」
 泣きそうな……というか、ボロボロと涙がこぼれている。
 僕はそっと頷いた。そして再び、膝を曲げて立ち座りになり、やよいちゃんと目線の高さを合わせるようにした。
「たぶん……」
 少し間をおいて、やよいちゃんが落ち着き始めたのを見て、僕は説明を始めた。
「たぶん……やよいちゃんは、何かがキッカケとなって、体と心が二つに分かれてしまったんだ。君は心の方のやよいちゃんで、実は体がないんだ。だからいくら声を大きくしても、お母さんには聞こえないんだ」
「私は心だけ? 分かんないよ」
 困ったような表情になって、やよいちゃんはつぶやいた。幼稚園児には、少し無理があるだろう。
「大丈夫」
 再び泣きそうになりつつあるやよいちゃんの顔つきを見て、僕は笑顔で話しかけた。
「体の方は、見た目は問題なさそうだ。ちゃんと息をしている。そして心と体の両方が揃っている。あとは二つは一つになれば、万事解決。ママも君のことが分かるようになるさ」
「二つが一つ?」
「そう。心と体を一つに合わせるんだ」
 僕は頷いた。
「どうやれば、一つになるの。やり方、分かんないよ」
「もともと人間は、心と体が一つになっているのさ。ちょっとしたキッカケがあれば、大丈夫だよ」
 実のところ、自信も根拠も全くない。ここは完全に想像に任せたハッタリだ。しかし自信をもってハッタリを言うことは得意だったし、そもそもハッタリが現実に影響していく場面を何度か見ていた。
 ダメだったら、また何か考えればいいさ。
 僕はできるだけやさしく、やよいちゃんの目を覗き込むようにした。
「そうだね……ベッドの端っこに座ってみることはできるかな」
 やよいちゃんは、素直にベッドの端っこに座った。
 ベッドから落ちないようにしっかりと座っている様子を見て、僕は説明を続けた。
「それから、目を閉じて、静かに息をしてみてご覧」
 やよいちゃんは、静かになった。
「静かに息ができるようになったら、静かに息をするのを続けながら、そこのベッドに寝ている自分を想像してみるんだ」
 まだ子供には難しいかな。説明を繰り返す。
「静かに息をしながら、ベッドで寝ている自分を想像する。それで心が落ち着かないようだったら、ひとーつ、ふたーつ、みっつ、と数を数えてみるんだ」
 これはたしか座禅では、数息法という方法だったっけ?
 それはともかく、どうやらハッタリは本当に効果があったらしい。
 静かになっていたやよいちゃんは、しばらくすると少し影が薄くなったように見えた。
 そしてそのまま僕が静かにやさしく見守っている前で、本当にスーッと影のように薄くなり始め、三分くらいしたら姿が消えてしまった。気のせいか、少し体の方は血色が良くなったように見える。
 ここまで来れば、もう僕の出番はないだろう。
 僕は立ち座りで疲れ始めた足腰の筋肉を総動員して、なるべく静かに立つようにした。そしてそのまま、病室から外へと立ち去る。
 病室の個室ドアを閉めた時に、ふと表札が目に留まった。プレートはいつのまにか”きさらぎやよい”ではなくて、”笹部香織”となっていた。それを確認すると、僕はそのまま来た道を戻り、病院の外で出た。

 ***

 病院を出ると、僕は今まで付けっぱなしだったメガネを、レンズを拭こうして外した。
 えっ、何?
 いきなり世界には、騒音が戻ってきた。
 自動車は病院前の幹線道路を走っているし、僕が立っている歩道にも、チラホラと人影が見える。
 世界は一気に現実に戻った。
 なるほどねえ。

 そういえば今日は職場でパソコン仕事をガッツリとやるために、中古品として入手したばかりの、小さな丸眼鏡を装着していたのだった。セルロイド製で、昭和どころか大正時代に流行したのと同じようなデザインだ。どうやらこのメガネが、何かのキッカケとなったらしい。
 呪術廻銭というマンガでは、呪霊の見えるメガネというアイテムが登場していた。これもそれと似たようなものなのかもしれない。
 小さな女の子が困っていたので、メガネか何かが状況を座視することができずに、僕を動かそうとしたのかもしれない。もしかしたら駅とメガネの共同作業だったのかもしれない。
 先ほど頭の中でピースを組み合わせている時に思い出したのだけれども、”きさらぎ”といえば”きさらぎ駅”があった。都市伝説として有名な、架空の駅名だ。この世には、昔から”きさらぎ駅”が存在したことはない。
 そして”やよい”という名前にも引っかかった。たしかに珍しい名前ではないし、職場の同僚にも佐々木やよいという女性がいた。しかし苗字が本名でなかったら、名前が本当であるという可能性も無視できなくなって来そうだ。
 さらに食事やトイレを必要とせずに彷徨っている女の子という存在。思い返してみれば、あの中田駅の出入口近辺は事故の多い場所なのだった。
 そこから”やよい”に意味を持たせようとすると、この立場の近くに弥生台という相鉄線の駅があることを思い出した。さっきも言ったような気がするけれども、そこだけ地味な駅名だ。しかしそれでも相鉄線としては、まったく問題はないらしい。
 どうして弥生台駅が弥生台駅なのかというと、わざわざ相鉄線が駅名を工夫する必要はないのだろう。そしてどうして工夫する必要がないのか……なぜ僕が弥生台に詳しいのかを考えていて、ようやく昔のことを思い出すことが出来た。
 昔、職場の先輩が入院して、何度も国際親善病院へ入院見舞いにやって来たのだった。ここは本当に立派な総合病院で、リハビリセンターなども充実している。ちょっとしたショッピングセンターも存在したし、実に住みやすい街なのだ。
 だから相当な論理の飛躍になるけれども、やよいちゃんは「弥生台にある国際親善病院に入院している女の子なのではないだろうか?」と思いついた訳だ。たしかに肉体のある幼稚園児だったらば、少し距離があるので中田駅のあたりまでやって来ることは難しいだろう。
 しかし肉体のないスタンド……幽的存在であれば、そんなに移動に苦労しないかもしれない。それにそもそも、もしも交通事故で重体になったのであれば、事故を起こした場所に何かが移動させたりすることが起こるかもしれない。

 そんな訳で、横場駅は再び中田駅へと戻ったのだった。
 僕としても貴重な体験だったけれども、他人の生死に関わるのは少しばかりしんどい。
 もう中田駅に不満があるなどと、毛ほども思ったりしません。ただしメガネは捨てたりすると何か起こりかねないから、大切に利用することにしよう。

 そうして僕は、弥生台駅へと向かい、相鉄線で湘南台行きの電車に乗ったのだった。
 おそらく今度は、何事も起こらないだろう。
 いや、何事も起こらないでほしい。
 いくら僕にしても、こういった体験は一日一回で十分だ。

 しかしこの時の僕は見通しは甘かった。ゆめが丘を出た相鉄線は「次は終点の湘南台です」と日常的なアナウンスを流していた。しかしなぜか電車の外には、白い小さな粒……雪の結晶が舞い始めていたのだった。

 その時の僕は一段落してボーっとしていたので、まだ車外の異変には気づいていなかった。

END

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