投稿ボタンを押すのが怖い時は
noteのとあるイベントで聞いたのですが、下書きを書いたまま投稿できない人ってけっこう多いらしいですね。
しかもプロの記者さんや編集者さんほど、完璧を求めすぎて書きかけの記事を溜めちゃうんだそうです。
私のことですが、なにか???
いや、私は「立派なライターに、俺はなる!」とかいつまでも言っている、プロ(と言うのもおこがましい)に産毛がチョロンと生えたような分際なのでアレなんですが、汲み取ってほしいのは「完璧を求めすぎて」「投稿ができなくなる」という部分でして。
投稿ボタン押すのって、なんであんなに億劫なのか。
別に押しても地球は滅亡しないし、ドッキリみたいに床がパカッ!と開くわけでもありません。
なのになぜ、腰ならぬ、ボタンを押す指が重いのかというと、やっぱり1記事にかける気持ちがそれほど大きいからということなんでしょうね。
大事に書いた我が子のような記事を、人様の目にさらすのが怖い……みたいな感じでしょうか。文字にするとヤバいモンスターペアレントみたいですが、少なくとも私はこういう気分です。
それに、書いたはいいけど、その後投稿まで何回か読み返すうちに、なにが正解かわからなくなるんですよ。
昨日はA→B→Cの流れがいいと思ったのに、今日になったらA→C→B、なんならDEFまで追加したくなるので困る。
しかも、並べ替えて付け足したついでにCをちょっと直したら、Bとの繋がりが悪くなった上に繰り返し語が頻発する事態に……。
まさに、アップデートのたびに使いにくくなることで名高いTwitterもびっくりな改悪ですねコレは。
それで結局ABCに戻したりね。戻したはいいけど、結局自信がないので公開できなくなったりね。効率最悪。
ちなみに私は、(まだ悟りを開いたわけではないので、お蔵入りさせた文章もたくさんありますが、)こういう葛藤の末に、最近は割と、「えぇ〜い、いってこ〜〜〜い!!!」と十字を切りながらも投稿ボタンを押せるようになってきました。
結局人に見せてみないと結果はわからないし、微妙かも、と思ったような作品が意外と多くの人に読んでいただけることがあることに気づいたんです。
もちろん、投稿時の印象そのままに、閑古鳥が鳴くこともありますが。でも、それはそれで、ある意味自分の感性が正しかったということで……、うん。当然といえば当然の結果なんですよね。
ちなみに最近、いろいろあって俳句教室に参加する機会があったのですが、先日、先生から添削されたものが戻って来ました。
5句中1句は上の句が、ほかの1句は上・中の句をまるっと修正いただいていまして、そして、あとの2句はもとの句が跡形もないくらいまるきり変わっていて、めちゃくちゃ笑いました。でも、ちゃんと私が思い浮かべた情景を汲んだ上で美しい言葉に変えてくださっていて、さすが先生だと思った次第なのですが……。
問題は、残りの1句です。
実は、微妙だと思っていた句でした。一番自信のあったものが跡形もなかったので、どうなることかと思ったのですが、意外とこの微妙な一句は修正なしだったのです。
先生に「ヒドすぎて直しようがねぇ」と思われた可能性もありますが、あんまりな句は抹消されるらしいのです。でも、とにもかくにもこの一句はこのまま句会の会報に載るようなので、及第点をいただけたようでして。
他人の目を通せば、自信がないなと思っている作品も意外と「良い」と思ってもらえる可能性があるんだなと思ったできごとでした。
人の小説なども、「かつてお蔵入りさせた作品で、中途半端で恥ずかしいのですが……」と公開されたものが、めちゃくちゃ素晴らしくて、「なぜこれを蔵に?! 見せてくださってありがとうございます!!!」と、思わずスタンディングオベーション、拍手喝采、五体投地してしまうこともあるもんなぁ。客観的な視点が持ちにくい自作品であるからこそ、人に見せてみて報われる機会もあるのかもしれません。
そもそも、投稿ボタンを押してはじめて、その想いはだれかに届く準備ができる。
そして、見せたものが、意外とウケたり、思った通りウケなかったりを繰り返しながら、創作メンタルは成長していくのでしょう。
私たちは文章に関しては誰もがモンスターペアレントなわけですが、可愛い子ほど旅をさせるほうが、絶対に自分のためになるよねと励ましつつ、この記事も投稿ボタンを押すことにします。
こんなところまで見てくださってありがとうございます! もしサポートをいただけましたら、わが家のうさぎにおいしい牧草を買います!