見出し画像

銀幕のソ連史 戦利品繚乱

 前回、作曲家ギヤ・カンチェリの死を悼み、短いながら、カンチェリが楽曲を提供した2つの有名映画作品に触れた。今回は、ソ連市民の大事な娯楽、映画について略述していこう。例によって、筆者の気力、体力、知識(つまり必要なものほぼ全て)が不足気味であるため、数回に分けて投稿していく。

 映画史の観点からいえば、革命後、かのエイゼンシュテインらがもたらした画期的な撮影技法の数々が極めて重要な意味を持つ。しかし、これらは既に専門的な文物が多く、今さらここに書くまでもない、というか正直よく知らないから迂闊な事書けない。
 
 よってここでは、戦後、特に「雪解け」以降を中心にとりあげていく。

 ソ連の全時代を通して慢性的な娯楽不足が続く中で、映画は最もアクセスが容易な娯楽の1つであり続けた。映画館は採算性が高く、300~500人収容クラスの映画館が都市の大小問わず乱立するようになる。モスクワとレニングラードでは、1967年にそれぞれ2500人と4000人収容可能な大型映画館がオープンしている。戦後のベビーブームも相まって、若者が観客数を伸ばしていた。

”戦利品映画”

 戦後のソ連映画史に、興味深い1ページがある。「戦利品映画」である。

 対独戦後、ソ連の占領地域であったドイツのバーベルスベルクにUFA映画社があり、数多くのフィルムが戦利品として本国に持ち去られた。UFAにはドイツ製映画のみならず、欧米各国の映画フィルムが所蔵されていたため、「戦利品」のレパートリーは中々豪華であった。これら戦利品映画が、ソ連各地の映画館で上映されたのである。

上1949年「10月のレーニン」

 1937年の映画、「10月のレーニン」のポスター。つまんなそう(直球)

 頃は終戦後のスターリン政権。映画製作はイデオロギーにガチガチに縛られ、ソ連映画は質量ともに不作の時代である。戦後という状況を差し引いても、人々は娯楽映画に飢えていた。本来、こういったブルジョワな外国映画はイデオロギー的にはソ連人民に全く相応しくない筈である。しかしこの時ばかりはどうやら、興行収入という実利が優先されたらしい。何しろ、製作コストはゼロ、字幕や吹き替えだけなら安いものだ。権利?知らんがな。

 この目論見は当たり、どの映画も大変な人気。ディアナ・ダービンの歌声が、ジョニー・ヴァイズミュラーのターザンが、ローレンス・オリヴィエ扮するネルソン提督が、ソ連の観客を魅了したのである。

 ところで…

 大変低次元な話になって恐縮だが、私はディアナ・ダービンの名を見るとどうしても、大穴大便(だいあなだいべん)という、世にもひどい文字列を連想してしまう。あいや、これは決して私が考えたのではない。これはかの遠藤周作氏が少年の時分に考えた駄洒落で、ちゃんと「狐狸庵閑話」にも載っており、私は女優の名とセットで記憶した。大女優には全く申し訳ない次第である。

画像3

That Hamilton Womanの一場面。ローレンス・オリヴィエとヴィヴィアン・リーの二大スターもソ連の観客の心を捉えた。

 戦利品といっても、ドイツ映画は「Die Frau meiner Träume」(1944)など少数。ハリウッドや英仏の映画作品も多く、「His Butler's Sister」(1943年、邦題「春の序曲」)、「That Hamilton Woman」(1941年、邦題「美女ありき」)、「The Thief of Bagdad」(1940年、邦題「バグダッドの盗賊」)、「The Mark of Zorro」(1940年、邦題「怪傑ゾロ」)、そして「ターザン」シリーズ(第1作は1932年)など、往年の大作、ヒット作が目白押しである。なおドイツ製「Die Frau meiner Träume」は、戦中の作にも関わらずカラー作品のミュージカル映画で、その華やかさは強烈な印象を残したと伝えられる。

画像1

Die Frau meiner Träumeの一場面。衣装も素敵だし、雪の高原でのレジャーも優雅。映画の終盤は華麗なダンスが彩る。

 1973年放送の大人気スパイドラマ「春の17の瞬間」(ソ連のTV放送 後編 参照)にも「Die Frau meiner Träume」の一部が挿入されているが、年配の視聴者は懐かしかったであろう。

 1948年は、封切られたソ連国産映画はわずか13本に対し、外国映画(必ずしも「戦利品」とは限らない)は60本以上が上映された。殆どが権利もへったくれも無い海賊上映だが、ソ連の観客にとってはただただ有難い限り。忌むべきキャピタリストたちの華麗な衣装や調度品や生活スタイルがこれでもかと描写され、ジャズが流れ、(カットされる事も多かったが)ちょっと肌の露出が多めなシーンもある。本来なら御法度モノのオンパレードだ。

 ちなみに、満州では日本の映画作品のフィルムも「戦利品」として持ち去られたというが、手もとに良い資料が無いため、詳述は避ける。

 これら戦利品映画の上映は1955年頃まで続いた。その後もソ連崩壊に至るまで、ソ連映画が傑作とヒット作を生み出す一方、数少ない外国映画の上映もまた、一貫して人気と憧れを維持し続けるのである。1959年から始まったモスクワ映画祭は、国際的な影響力は微々たるものであったが、国内では希少な外国映画の鑑賞機会として、招待券を手にした幸運な市民を大いに喜ばせた。

 なお、これら「戦利品映画」のフィルムは、今でもロシアの国立映画アーカイブに保管されている。

関連記事:

ソ連の映画ポスターシリーズ、デザイン性抜群の傑作揃い!前・中・後編

あの「不思議惑星キン・ザ・ザ」のサントラも手掛けた、ギヤ・カンチェリの追悼記事




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?