見出し画像

存亡の機を迎える文化・芸術は「死」を待つしかないのか?


今、対応している国のリーダー(政治家)たちには、どんな想像力を持ってその任務にあたっているのだろうか?


今回の新型コロナウィルスで、最も大きな影響を受けている音楽・スポーツ・演劇・アートなどの文化芸術分野において、大きな疑問が残る発表があった。

文化庁が、トップである宮田亮平の記名入りで、なんとも情緒的な応援メッセージを発表したのである。

そのメッセージはこちら。

画像1

いま方針を決めている政治家たちにとって、文化・芸術は、別に無くても生きていけるものなのだろう。もちろん、私たち一般人は、音楽やスポーツや演劇が無くても生きていくことができる。こう言ってしまっては元も子もないが、所詮エンタメなんて、豊かな生活の上にしか成り立たないものなのかもしれない。

※誤解を恐れずに言えば、飲み屋さんなどの飲食店や、おしゃれな洋服屋さんなども同じ娯楽の一種であり、生活が苦しくなったら最初に削られるものである。

だが、創造活動に関わる人たちにとっては、イベントの開催自体が紛れもなく生きていくための手段的行為である。文化芸術活動がなくなっては生きていけないのだ。

新型コロナウィルスが世界中で猛威をふるい、日本でも感染者急増への危機感が高まっていた3月22日。自粛ムードが高まる中、格闘技団体「K-1」は、埼玉県からの自粛要請を振り切り、さいたまスーパーアリーナで格闘技イベント「K-1 WORLD GP 2020 JAPAN ~K'FESTA.3〜」を開催した。「K-1」はマスク配布や消毒液設置などの対策を講じ、結果的に、観客6500人が集まったという。

この事実について、私の周囲の人間も、「これまでの努力を無駄にしかねないテロ行為」などと批判し、マスコミも総じて批判的な論調だった。だが、果たして避難すべきは本当に「K-1」だったのだろうか?

画像2


国も県も「自粛」を強く求めている。だが、「自粛」とは少し無責任すぎではないか。それに、いささか言葉遊びのようではあるが、「自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと」を強く求めているのだから、滑稽ですらある。

生きるための「手段的行為」を自粛すれば、その先に待つのはもちろん「死」だ。文化・芸術の創造に関わる人たちが生活できなくなれば、それまであった文化・芸術も当然に死ぬことになる。

誰かが得をすれば、誰かが損をする。そんなゼロサムゲームのような世界がいくつも並存して複雑に絡み合うかのような今の社会システム。その全てをコントロールする方法は、私のような凡人にはわからない。だが、文化芸術活動を振興するべき文化庁のトップなら、せめて文化庁の予算を、今後どこにいくら回すのか、新たにどんな対策を講じようとしているのか? と言ったことを発表できないものなのだろうか。

いま、社会システムは複雑怪奇に入り組んでいる。自粛によって、例えばこのようなことも起きているそうだ。

もはや今の社会システムをコントロールできるような人間はいないのだろうが、せめてリーダーたちには、自分の領域において、社会全体の整合性を取るための行動を見せてもらいたいものだ。


瀬川泰祐の記事を気にかけていただき、どうもありがとうございます。いただいたサポートは、今後の取材や執筆に活用させていただき、さらによい記事を生み出していけたらと思います。