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閑話休題(15)―香港で過ごした二週間と日本人老板

今回は、、いつも以上に「自分語り」「昔語り」満載の内容となっております。苦手な方は回れ右をよろしくお願いします。

私が初めて香港の地を踏んだのはもう30年くらい前の話。

福建に留学していた時、大学の留学生寮で知り合った華僑の子息と、台湾人の友人と行ったのが最初です。友人と連れ立って、昔の日本の観光バスを改造したオンボロ夜行定期バスに乗り込み、陸路直接深センに行きました。

翌日朝午前5時に羅湖に到着した私たちは歩いて羅湖ボーダーを渡り、その足でMTRの当時の終点である紅磡駅に行きました。駅を降りた時の気持ちは単純に「すごい」、だったと思います。当時大陸よりも一歩二歩先の経済発展を遂げていた香港。キラキラ摩天楼を目の当たりにしたあの時のウキウキ感は、今でも忘れられません。

あれから香港にはちょくちょく観光やショッピングで訪問していたのですが、香港で就職ができることを知ったのは留学も2年目の冬の事でした。

当時深センの大学にいた私は留学生寮内で、日本人の同学から「日本の人材派遣会社が香港でセミナーを開催するみたいだよ?行ってみる?」と誘われました。名前を聞いて見ると「○ソナ」という会社。

当時「○ソナ」は香港駐在の日系企業の現地採用求人に力を入れていました。私は「○ソナ」という企業名は初めて耳にしたのですが、「香港で仕事もいいよなぁ」と漠然と思っていたので、二つ返事で日本人留学生のみんなと「香港○ソナ」の本部へ。

なんと本部長さんらしき方から直々にご挨拶されて、いろいろと香港の日系企業の事情や現地採用求人などのご紹介を受けました。

・・・で当時の自分はというと、どこか浮ついた感じでした。セミナーに参加するというのにラフな格好で、はたからみたら「こいつ本当に仕事を見つける気あるんか?」と思われていたのは間違いありません。

当時の私は香港での就職について真剣に話している同学を横目に、「別にここ使わなくても自分ぐらいな優秀ならどこでも仕事は見つかるでしょ?」とどこか心の隅で思っていた、今思い返してみても相当痛い奴でした。

◇◇

それからの顛末は以前の閑話休題でお話しした通りです。

広州での留学を終えた後、いろいろありましたが私は最終的に日本に帰ってきました。でも日本にいる間に、中国に残してきた彼女(つまり後の私の妻)のために「やっぱり香港か大陸で働きたい」と本気で思うようになったのです。

「じゃあ、どうしよう??」となった時に、深センで留学していた時にお世話になった「○ソナ」を思い出しました。ちょうど名古屋で海外での現地採用希望者向けのセミナーが開催されているのを知り、急ぎ私も参加しました。実は当時セミナーに参加した際にテレビ局も取材に入っており、私も取材を受けています(マジで恥ずかしい)。

そんな「思い立ったが吉日」の塊みたいな私は、次の週には香港に降り立っていました。

時は9月の某日。

こうして私は、住む場所は重慶大厦(ビル)かその周辺の安宿、疲れたらYMCAのドミトリーという「その日暮らしのバックパッカー」みたいな仕事探しの生活を始めたのです。

◇◇

「香港○ソナ」から提示された求人は、今から思えばどれも破格の待遇でした。最低でも1カ月1万5000香港ドルから。2万~3万香港ドル超の求人もありました。私も、香港に住めて「1万5000香港ドル」ぐらいもらえたらいいな、と思っていました。

でも何社か回ったのですが、一向に決まりません。ある意味当然ですよね。これらの香港・大陸の現地採用の求人は応募条件が「その業界の経験者」であることが多く、中国に留学していて中国語がある程度できているとはいえ、ほぼ新卒同然の私を採用するような「奇特な企業」など、あるわけがありません。

ある日、日本の有名な企業「富○電○」の香港支社からの紹介を受けました。給料は1カ月1万8000香港ドルという破格の値段。喜び勇んで面接を受けました。

面接に対応した男性が、私の自己紹介を一通り無表情で聞いた後、率直な感想を私に言いました。

「キミ、たぶんうちには向いていないよ。理系じゃないし、新卒をとる余裕もないし。日本に帰って経験を積んでから来た方がいいんじゃないかな?」

中国語という語学力には絶対的に自信があり、「だから誰よりも成果を出せる」とうぬぼれていた私。そんな自信をいとも簡単に打ち砕かれた瞬間でした。「自分は何のために香港に来たのだろう」と思いました。

◇◇

そんなある日、「香港○ソナ」の担当から「大陸への工場勤務」という求人を紹介されました。見ると1カ月1万香港ドル。しかも東莞での工場勤務という、これまでと比べると大きく見劣りする求人です。

どうするか迷っていると、「香港○ソナ」の担当の女性(日本人)が業を煮やしたのか、私を一喝しました。

「あなた、仕事を探しに香港に来たんじゃないの!?このまま日本に帰る気?何のために香港に来たの!?」

確かに、香港に来てから2週間近く経ち、私の手持ちの資金もなくなりかけていました。なくなれば日本に帰るしかない。決断の時が迫っていたのです。

そして担当さんが一喝した理由もここでようやく気付きました。私はふらふらしていて、何をやるにしても担当さんにおんぶにだっこの状態でまかせっきりだったのです。反省すると同時に、その求人の面接を受ける覚悟を決めました。

◇◇

意を決した私は指定された日に、葵興駅近くの工業ビルを訪れました。○階の小さな一室を開けると、温和そうな男性が対応してくれました。聞くと社長さんだとのこと。

履歴書を渡して自己紹介をしようとした私を制して、社長は「キミ、いつ香港に来たの?大変だねぇ・・仕事探し。どこ回ったの?」「キミは剣道やる?ボクは剣道が好きで毎朝素振りしているんだよ」など、緊張したこちらが拍子抜けするくらいリラックスした話をしてくれました。

香港の飲茶とかほとんど仕事には関係のない話に終始したので、「あの・・私実務経験はないんです」と恐る恐る聞くと、社長は「あー、大丈夫大丈夫!うちに秘書がいるんだが、彼も香港飛び込みで来てね。採用したんだが、夢はロンドンで大道芸人だそうだ。ボクは彼の夢をサポートしたくてね(笑)」と笑顔で答えてくれました。

聞いたところ、社長はもう(その当時で)20年以上香港に住んでおり、今は葵興のこのビルで、「香港を拠点とした日系企業」を経営しているとのこと。その企業が東莞に持っている子会社の自社工場に、私を「駐在員」として派遣したいと思っているとのことでした

社長のお話を聞いているうちに、「ここならやっていけそう」と確信が持てました。面接が終わって帰ろうとしたときに、部屋に飾ってあった「清く、正しく、美しく!」と書かれた額縁がひときわ目立っていました。

◇◇

こうして私はめでたく採用となり、東莞での工場勤務が始まりました。工場にいる従業員は9割以上が若い出稼ぎ中国人で、日本人は私一人。さらに工場が治安がかなり悪かった地域にあったこともあり、苦労したこともありましたが、今考えればいい経験だったと思います。

香港の日本人社長はそんな過酷な私の状況を思いやって、私が香港に来たときは飲茶や日本食のレストランに連れていってくれたり、香港の自宅に私を招いてもてなしてくれたりしました。

そして数年後。

私は諸事情で(妻と日本で住むため)日本に帰って仕事を見つけることを決断しました。私が日本に帰ることを知った社長は何とも言えない表情で、「そうか。元気でな。もし日本で仕事が見つからなかったら、1年後くらいまでなら採ってやるぞ」とまで言ってくれました。

◇◇

あれから、30年経った今。あの会社は今も香港にあるのかなぁと時々思い返してはグーグル検索をしたりしています。

ちなみに・・私は勤務していた東莞の工場は、百度地図で検索したところ、跡形もなくなっているみたいでした・・悲しい。


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