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本の余白を評価する書店「余白書店」を作った話

本に書かれたテキストが著者のストーリーだとすると、本の余白は読者のストーリーが残される場。本の余白の価値を評価し、流通させる書店、「余白書店」を、2013年より運営しています。

最近、秋田の放送局ABSラジオと協同して、ラジオ番組をするという、わりと大きな新しい展開をひさしぶりにしています。

そんなこともあり、余白書店立ち上げ時のメンバー石幡愛さんと小林橘花さんが余白書店立ち上げ時のことを振り返ってくれていて、フェイスブックに投稿してくれていました。

これ、書店の立ち上げのエピソードとしてはおかしいし、実は本好きが集まって作ったのではなく、「クリエイティブサポートレッツ」という、障害を個性として楽しむ(その楽しみ方が半端じゃない)みたいな超ユニークな福祉施設の影響もすごくあったりして、余白書店の初期衝動を確認するにもとても良いエピソードなので、二人に許可を得て転載します📖📚 


石幡愛の振り返り


「余白書店」のはじまりは、浜松だったなー。

福祉施設に勤めていた当時の同僚で、余白ネットワークメンバーの 小林 橘花が、紙に文字を書くのが日課の利用者さんに、その日読んでた本をバラバラにされて文字を書かれちゃって。

あー、、、
古本屋にも売れないねー、、、
なんて話をしてるうちに、内田 聖良が「おやっ!?」と言い出して、そのバラバラになった本をAmazonマーケットプレイスにまぎれ込ませた。しかも、きれいなものほど高く売れるその場所で、逆に「手垢の価値」だけ値段を高くして。

その本のタイトルは「さよなら、消費社会」

まぁ偶然だけど、余白書店の最初の「手垢本」がそれだったというのはとてもコンセプチュアルで、強度があって、この作品は生まれた時からついてるな!と思った。
また、ああいう「手垢本」は現れるかなぁ。。。
https://www.facebook.com/ai.ishihata/posts/3460306180703252

小林橘花の振り返り

愛ちゃんが余白書店の発端について書いてくれていたのを見て、ちょっと掘り返してみた。

私と聖良のコメントでのやり取りをみていくと、最初から「売ろう!」って話じゃなかったのがわかる。むしろ、そういう本(それぞれの形で消費された(使い込まれた)本=手垢本)を「おもしろい」「みてみたい」「集めたい」、どんな種類があるだろうか、と考えている。売ったらおもしろそう!はそのあとだった。

そして、私たちは「なんか良いと思っている」けれど、一般的な価値観、少なくともマーケットプレイスでの価値観では否定されている(ex.状態-良い「中古品のため使用感ありますが、綺麗です」等)という点から、マーケットプレイスに手垢本を出品する書店という形になった。余白ネットワークの言葉で言えば、価値観の「枠外感」をマーケットプレイスを「間違って使う」ことで表現したということになる。

それがあまりに、ハマってしまって、というのか、できてしまって、「書店」に引っ張られすぎたような感じもあるといまはちょっと思う。
余白書店ができた当時のAAFでOVAさんたちが「大丈夫なのー?!なんか変じゃない?あまりにもわかること言ってるから」とおもしろ半分に心配してくれていたのが、思い出される。

聖良は最近は価値がどう流通するかに興味があると言っていた。というか、これはもともとそういう話だったんだと、この始まりの出来事をみて思った。手垢本をイイと思う感覚(見方みたいなもの?)を伝える方法はこれまでも試してきていた(査定会や展示など)。始まる前に頓挫したけど余白読書室もそのトライではあったかもな。手垢本の考え方も書店として売り買いされることへのおもしろさに頭がいって、ブレたりしたこともあったかなとも思った。

当初、レッツのスタッフに余白書店の話をして、手垢本を何冊か頂いたが、その時に集まった本は「イイね!」というものが結構あった。これは後からなんどか聖良と話題になったが、レッツはそういう感覚や目線がある人が多かったんだろう、と。あのとき、あの場で、そういう本たちが集まったから、書店というかたちが実現した、という面があったと思う。そこには何か、(それぞれの趣味嗜好は違えど)似たようなものを面白がる感覚が既にあった。

みえかくれするどうしようもなさの出方、とか、それをどうしようもないものではなくむしろいいねと思う感じとか、なんかそういうものかもしれない。

https://www.facebook.com/kikka.kobayashi/posts/3475312532548425

爆誕の瞬間

↑のふたつで言及されてるバラバラになった本についての投稿

いいねが2しかないのもいいね。

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内田聖良の振り返り

いちばんどうでもいいな 

でも、真面目なもの(アートの世界の慣例とか評価のピラミッドですら)斜めから見る態度というか、立場というか、そんなところでやりたいみたいなことは、一貫して自分にあるような気もしました。それはバーチャルでやろうとしてることと質感が似てると思う。

複数の視点を作ることがすごく大事で、それは一般的には日常/アート という二項対立を作ることなのかもしれないが、しかしそのアート側のほうにも実はマッチョイズムとかファシズムとか発生してる、みたいなことが気になっちゃうということなのかもしれないです。私は。

この時わたしがイアマスの現役学生だったってとこも大きくて、当時教員だった城一裕さんに作品というより、最近やったこと、のノリで話したら「それはコンペとかに出したほうがいい!」ってオススメしてくれて「学生CGとかいいと思う」という話になり。

私は当時は欲が薄くてコンペとかぜんぜん知らなかったので「なぜコンピューターグラフィックスのコンペに…」って思って調べてみたら「キャンパスジーニアス」っていう狂ったコンペということがわかり、「キャンパスジーニアスなりたいwwww」と商品も増やして応募してみたらシルバーを取ることができて準ジーニアスになれました。

そのあとSWITCHって雑誌の、明日の天才を探せっていうコーナー(たしか特集の1ページ目が落合陽一とか)に謎の存在感で出たりして笑えることがおおかった…

そんな余白書店のラジオ~!

あなたの応募待ってます。写メOK。よろしくおねがいします。

https://www.akita-abs.co.jp/radioprogram/ekimic/   (下にスクロールするとメールフォームがあります)


せが豚コマではなく豚ロースを買えるかもしれません