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天上の回廊 第五話

翔太は努めて冷静に話しかけた。
「はるかちゃん、どうしたの?オレ、なんか変なこと言った?」
はるかは親指の付け根で涙を拭いながら、
「ううん、翔太君のせいじゃないわ」
と若干震えた声で言った。
「ただ、なんか思い出しちゃってね。翔太君とこうして会って、昔みたいに向かい合って話してると」
翔太は彼女の目を真っ直ぐ見つめて、
「そうなのか」
とつぶやくように言った。はるかは続けた。
「私、翔太君と過ごした毎日は本当に幸せだった。あの時は確かに子供だったけど、あのとき言ったことは心から嘘のない気持ちよ」
「あの時って…」
「私の口から言わせるの?翔太君を好きだってことよ」
彼は懐かしい感情が甦って来るのを感じた。 
「ありがとう」
翔太は穏やかな表情で言った。
「うん、いいのよ。でもね…」
はるかは、そう言うと口籠り、カップのコーヒーをすすった。彼はその時間がとても長く感じた。
「でも、何?」

「私、今、結婚してるって言ったでしょ?」
彼女は言葉を噛み締めるように発した。
「うん」
「本当は結婚はしてないのよ」
「えっ?」
翔太は思わず大きい声を出すとともに、少しばかりの安堵感みたいなものを感じた。だが、次の瞬間、それは簡単に覆された。
「私には内縁の夫がいるの。同い年のね」
彼は少なからず落胆したが、それを懸命に顔に出さないようにして、
「へぇ〜、そうなんだ」
と明るい声で言った。はるかはそれを知ってか知らずか、
「とってもイケメンなのよ。モテてモテて困っちゃうわ」
と頬に昔からあるえくぼを深めて言った。
「あはは、それは心配だね」
翔太はそれだけ言って黙っていた。
「それでね」
「うん」
「彼に女が出来ちゃってね」
はるかは木目の天井を見つめつつ、早口で言った。

「ええっ!」
翔太はまた驚きの声を上げた。周りのカップルが二人に視線を注ぎ、彼は慌てて声を潜めた。
「本当に?」
「本当よ。嘘じゃないわ」
「気のせいじゃないの?勘違いとか」
「間違いないわ。二人で手を繋いで歩いてるところを見たわ」
はるかはテーブルのコースターに視線を落として答え、さらに、 
「それでその女に貢いじゃってね。借金を作ってしまったわ。ひどい男よ」
と続けた。翔太は様々なマイナスの情報を頭の中で整理するのが大変だった。
はるかは、今、とても不幸なのだ。あの涙の理由は朧げながらわかってきた。そんな最低な男の顔を確認してやりたいと彼は思った。
 人生はわからないものだ。裕福な家庭に育ち、幸せな幼少期を送ったはるかが、小学校でいじめを受け、それでも自分と楽しい時間を共有し、長い年月の末、今、こうして不遇な日々を過ごしている。

「なんで…」
翔太はゆっくりと問いかけた。
「なんで、別れないの?」
当然の質問である。はるかは少し眉間に皺を寄せて答えた。
「そう思うわよね。弱みを握られてるの」
「弱み?」
「そう。ちょっと言えないけどね」
翔太は幾分か納得した。そんな男と別れない理由はそのくらいだろう。
「これから、どうするの?その男に、そんな酷い目に遭わされながら一生過ごしていくの?」
彼は言ったあとでちょっときつい言い方だったかなと、やや後悔した。はるかはぷくっとした唇をきゅっと一回結んで、
「うん…もう何も考えられない。私はもう…生きていたくないわ」
と絞り出すような声で言った。そして、再びその瞳に涙が滲み、はあと息を吐き出した。翔太は、その姿を見て、心底はるかが気の毒になった。
 
どうしたらいいんだろう。どうしたら…

翔太は様々な感情が渦巻く頭で、懸命に考えた。なんとか彼女を救わなければならない。時計が幾つか時を打ったが、彼の耳には入らなかった。

はるかは、深くため息をついて店内を再び見渡していた。何人かがこちらを見ている。壁に掛けられた林檎の静物画が、鮮烈に脳に焼き付いた。どぎつい赤が、血の色に見えた。店の外ではイベントをやっているようで、ざわめく群衆の声が聞こえてくる。時間は止まっているようで、とてつもなく早く過ぎているようでもあった。彼女は切り出した。

「翔太君、私の連絡先を教えておくわ。今日はもう帰る。あの人が帰って来るから」
そう言うと彼女は伝票を取ってレジへ向かおうとしたので、彼は素早くそれを取り上げた。
「何?いいよ、私が払うわ」
「いや、オレが払う」
「そう?わかった」
彼女はまたひとつため息を付いたあと、思い直したように表情を和らげた。会計を済ませ、二人は店を出た。近くのイベント会場は賑わいを増し始めた。

「じゃあね」
はるかは、ちょっと寂しげに笑って軽く手を振った。翔太はあの日のはるかを思い出した気がした。
「うん、じゃあね」
翔太は来た方向へ向かって歩き出した。振り返るとはるかは手を振るのを止めて、こちらを真っ直ぐみつめていた。彼の中で一つの感情が色々な思考を呼び起こしていた。

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